小萩の恋文
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翌朝、廊下を駆けてくる、みっともない足音に起こされた。
朝方になってやっと寝付けたのに、まったく、今度は何よ!
「何よ、もう」
薄目を開け、扉から洩れる日が明るくなっているのを認めても、起き出す気になれず、ごろんと背を向けてまた目をつむった。
「姫さま、瑠璃さま。失礼いたします。小萩でございます。お目覚めでいらっしゃいますか?」
きんきん甲高い大声で、扉越しに怒鳴っている。
何なのよ。寝足りない不機嫌さで、あたしは衣を引きかぶったまま、怒鳴り返した。
「聞こえてるわよ、朝っぱらから、何?!」
扉の開く音がし、小萩の衣ずれが近くなる。間近まで来て、
「もう日が高くなっておりますわ。夕べ遅くまで起きていらっしゃったから、いつもの刻限にお起こしするのをためらったのですわ」
夕べ、の言葉に、まさしく夕べの気まずく後味の悪いことごとを思い出し、あたしは一瞬で眠気も吹っ飛んだ。
「ありがとう。で、何の騒ぎ?」
今朝の小萩は、ぴりぴり緊張感が顔にみなぎっているものの、夕べの妙なよそよそしさや硬さは消えている。
一晩寝て頭を冷やして、気持ちも和んだのかしら? もしかして、高彬がさっそく文でも送ったのか…?
嬉しくて、ほっとし、伸びをしながら問いかけた。
「瑠璃さま」
まなじりにきっと緊張を浮かべながら、彼女は塗りの文箱をあたしへ捧げ持っている。
え、何…。
嫌な予感。
「まさか、これ…」
「そのまさか、でございますわ。改めましての、と、と、東宮さまよりの、お御文でございます」
「また?!」
夕べの今朝で、追って送ってくるなんて、今度は何? 夕べのけったいな御文の詫びかしら?
覚悟を決め、えいっと文箱の紐を解いた。蓋を開ける。そこには折られた文と、その下に布のようなものが見える。
贈り物だろうか。
まず手紙を手に取った。
欠伸をしながら文字を追う。
 
『箱の絹をご覧ください。
ねえ、おあいこでしょう。
うつつには会えずとも、
こうして、互いのしるしを分かち合うことも、
ねえ姫、また、わたしたちゆえの絆でしょう。
この文は、契りを交わした夫よりの
後朝のつもりでいます』
 
後朝って、何の妄想?!
なにが、おあいこ?!
文を膝に落とし、文中に見ろ、とあった文箱のふっくらとした絹を手に取る。艶のいい上等の白絹だ。
そう長さのあるものではなく、ちょっとした手ぬぐいのような頃合だ。広げてみて、ぎょっとなる。
「な、何よ、これ?!」
「まっ…」
側の小萩も絶句しているのがわかった。
既に赤黒く変色した血痕が、親指の先ほど衣を染めていた。
そういえば、夕べ高彬が、東宮が爪を切ったとき「指を傷めて〜」とか言っていたのを思い出す。
あれか!!
あれなのか!!!
くらくらしてきた。
大体、あたしが法珠寺で鷹男の衣になすりつけたのは、猫の……。
はあ〜。
放心の後で小萩が、いまだ放心中のあたしに、
「か、過激な御趣向ございますね。お、御文のお返しは…?」
「か、書くわよ」
こんな不気味なものを送りつけられたら……。書かざるを得なくなっちゃうじゃないのよ、馬鹿!!
何が『互いのしるしを分かち合うことも、ねえ姫、また、わたしたちゆえの絆』よ!!!
鷹男のぶっ飛んだ発想力には、きらりと光る天才性さえ感じる。
恐ろしい子。
「と、とりあえずお着替えを。今角盥を運ばせますからお顔を…」
心なしか上ずった声音の小萩が、部屋を出て行く。そこには、夕べの高彬との話を聞いた、あの何ともいえないあたしへのこわばりはない。
多分、朝っぱらからの東宮ご直々のありがたい御文の威光が、小萩にあたしと高彬を介したこだわりを忘れさているんだ。
この非日常に、あたし付き女房の筆頭として、ぴんと気を張らせているのに違いない。
夕べからわが三条邸を覆う、妙な緊迫感は、今朝のこのおどろしい文のおかげで、当分去りそうもない。
何しろ、東宮ご自身が、夕べの仕込みの文に加え、オリジナルで『夫よりの後朝の〜』などと、過激なものを追加で送りつけてきたのだ。
とうさまの仰天振りが目に浮かぶわ。
あたしは、欠伸交じりのため息に似た、けれども安堵の吐息をついた。
はあ……。
期待通りではなくても(鷹男は厄介でも)、今は決してそうひどくはない。
大丈夫。絶対、大丈夫。
時間が経って、誰もが落ち着いて、小萩も日常のあの子に立ち返ったとき…、それは、そのときのこと。
そのときあたしはまた、小萩のため考えればいい。
その頃には、何かが変わっているはず。小萩もあたしの気持ちを、少しは理解してくれると嬉しい。
今は、今の自分にできることを、思うようにやればいい。
結果は、きっと嘆くほど悪くないわ。きっと、そう。
そう思えば、鷹男が寄越した奇っ怪な御文も、ありがたくさえ思えてくるからおかしいわ。
渡殿の辺りを急ぎ、けれど静々と歩いてくる、小萩たちの気配が聞こえる。そうだ、朝餉には、好物の山の芋を付けるよう、言おう。
さっき小萩が開けていった御格子から、さんさんと注ぐ午前のまばゆい日が入ってくる。薄暗かった部屋の床がぴかぴかと輝き、照り返している。
その光景に、ぽんと気持ちが明るくなるのがわかる。
日の光に心が弾むのは、あたしが前を見ているからだ。
自分を包むお日様の日を眺め、もう一度、うんっと大きく伸びをした。
あたしが今なすべきことは、まず顔を洗い、髪を梳き、着替えること。それから、山の芋の載った朝餉の膳を食べる。
そして、
それから、鷹男に御文の返しを書くことだわ。
 
 
 
 
 
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