(5)


病室を出た後、あたしはヨグルトさんに連れられて、駐車場に向かった。
『Yogult』のロゴマークの入ったワンボックスに、促され乗り込んだ。彼はあたしが乗り込む間に、車体のロゴマークのステッカーをべろりと剥いでいく。
赤い『Yogult』マークが消えれば、普通のワンボックスカーだ。彼は運転席に乗り、更にモスグリーンのシャツを脱いだ。
白いTシャツだけになると、すぐに車を発進させた。
「ヨグルトさんじゃないのね?」
「騙して申し訳ない。ちょっと事情が……」
ヨグルトさん、そうじゃない。もう違う。いいや鷹男で。
鷹男はバックミラーを確認し、それからあたしを見た。
「心配しないで。やつらをまいたら、家まで送りますから」
まく?
やつら?
それらをたずねても、鷹男は答えてくれない。
「大丈夫、僕らは悪人じゃない」
とだけだ。
どうせ教えてもらっても、この不慮の珍事態に、あたしの頭はこんがらがって、パニック寸前。理解するのも納得することも難しいかもしれない。
車は病院を抜け、市街地を抜けていく。
しきりにミラーで後続車を確認していた彼が、その回数を減らした。追っ手を上手くまいたのかもしれない。スクランブルの交差点の角で、どっかの政党が選挙の街頭演説をしている。
「今こそ、今こそ、進むべき、時代であります!!取るべき選択であります!!今こそ、選ぶべき…」
鷹男はあたしに何の説明もしないくせに、その街頭演説の前を通るとき、窓を開けて手を振ってやってなどした。
「ありがとうございます。温かなご支援を賜り、篤く篤く、心より感謝申し上げます…」
ガラス窓を閉めながら、「支持しているのですよ」とさらっと説明した。
「ふうん」
あたしはそれに、マイクの前に立って熱弁をふるう若い、ちょっといい男を眺めた。
『○○党現職 秋篠 権』
車の速度に流れて、一瞬でその顔も名前も視界から消えた。
 
 
鷹男は車をあたしの家の前に停めた。
いろいろあったけど、特に危険もなかったし、ちゃんと家まで送ってくれている。あたしは小さい声で「ありがと」と言い、車を降りようとした。
胸の不思議な感覚は消えないけれど、このおかしな人とは、多分もう会うこともない。
病院に現われたのも、きっと関係者らしい藤宮さんに会うためなのだろう。そのため、ヨグルトさんになりすまし、追っ手の目をごまかしたんだから。
「あなたを知っている気がする」
鷹男の声に、どきりとし、あたしは振り返った。
鷹男は、
「どうしてだろう、どこかであなたに会った気がしてならないのですよ。よく知っている女性のように思えて、気になって、仕方がない。おかしいでしょう?」
自分と同じ感覚を、彼もあたしに持っている。
それはびっくりすることだったけれど、その一方で自然にも感じる。
どうしてだろう? このめぐりあいが、妙に胸にしっくりとくるのは。
あたし、鷹男のこと何にも知らないのに、究極に変なやつだってことしか……。
何となく黙ったまま見つめ合い、いつの間にかあたしは彼の腕の中にいた。
すごく滑らかに抱き寄せられた。抗う間もないくらいに。
知らない男の匂いに、胸がどきどきしている。強い腕の感覚とか、シャツの肌触りに、あたし、嫌だ、ときめいてる!!!!!!
いけないわ、恋人のある身で。ふしだらだわ、はしたないわ!!
そう自覚するのに、鷹男が包む腕の中がひどく心地よくて、あたしは意志とはうらはらに、うらはらによ、絶対に、間違いなく。あろうことか、うっとりとしちゃっている。
「どこで会ったのだろう。記憶にないのに、覚えている」
「……うん」
「こうやってあなたを、腕に抱いていた気がする」
「うん……」
 
きっとあたしたち、前世で会ったのよ。
 
胸にふっとわいた思いだったけど、あんまりにセンチメンタルすぎて、こっ恥ずかしいので言わなかった。
けど、そうだったらいい。
そう思ったのよ。
フロントガラスやボンネットをばちばちと叩く雨の音で、我に返った。あたしは鷹男から身を離し、うつむいた。
もう行かないといけないのに、離れ難い。
こんなことしてちゃ、いけないのに。
そろそろ七時だ。高彬から定時のファックスラブレターが届く時間だ。返事が遅いと、あいつ、ぐちぐちとうるさい。
「そうだ、これを」
鷹男はリアシートに積んだヨグルトセットを、あたしにどんと渡してくれた。クーラーバックの中には、人気商品『ヨグール』や『ヨグルト800プラスアルファ』ら冷たいお菓子がいっぱい詰まっている。
「あなたの面白いお友達にも分けてあげて」
それにあたしはぷっと吹き出した。煌のことに違いない。
「ありがとう。喜ぶわ」
そう言って彼を見たとき、胸元に知ったものを見つけて、目が点になった。
え?!
鷹男の胸には、帥之宮さんがしていたネックレスと同じものが光っているのだ。
似た物なのかもしれない。けれど、シルバーのチェーンの先の小さなトップのプレートに、『T』の刻印を見た。
それは変わった書体で、ちょうど帥之宮さんの『S』と酷似している。似ているというより、同じように作られたものと言った方がいい。
ホモの認識証か?! 
一瞬、馬鹿な考えが過ぎったけれど、病室での藤宮先生と鷹男が交わしていた会話からすると、そうではないらしい。
 
鷹男を見送って、家に入ると、居間からウィ〜ンといった微かな電子音が聞こえた。
やはりファックスを置いた台には、八メートルほどにも伸びたメッセージ用紙が垂れている。高彬だ。
それに、いつもなら慌てて返事をしようと気がはやるのに、この日は物憂い気持ちが強かった。そんな気分じゃないのよ。
返事は後にしよう。
とりあえず鷹男からもらったヨグルトバックを下ろし、入るだけを冷蔵庫に詰めようとした。
そこに小さな携帯を見つけた。
手に取ると、保冷材できんとひえている。シルバーメタルのそれは、彼がここに入れ忘れたのだろうか。
不意にそれが鳴った。通知番号には携帯電話の番号が表示されていた。
これを捜してかけているのかもしれない。
あたしは通話ボタンを押し、耳に当てた。
「はい」
耳元に鷹男の声が流れ込んできた。
この電話を持っていてほしくてクーラーバックに入れたこと、今かけているこの番号は、自分だけの直通だから、好きなとき、わたしからの連絡がほしいこと……。
『また、会いたい』
「……うん」
『じゃあ』とそれで通話は終わる。
あたしはしばらくその場に佇んで、小さな冷たい携帯を握り締めたままでいた。
あたしも鷹男に、また会いたい。そしてもっと、彼を知りたい。
偽りのない気持ちでそう感じるそばから、背後にびろーんと流れ続ける高彬からのファックスラブレターの受信音を聞き、ため息が出るのだ。
どうしよう、あたし。
とりあえず、鷹男の今の番号を、『ヨグルト』名でアドレスに入れておいた。