メロディ
〜ユラとガイの不思議な?蜜月〜
 
1
 
 
 
最初にそれに気がついたのは、アリスだった。
アシュレイ伯爵家の女主付きのメイドである彼女は、小さなまあるい顔を、足元のくず入れに向けた。
真っ白なエプロンの膝を折り、中のものを探っている。午前の掃除の際、くず入れの中を検めるのは彼女の仕事の一つだ。万が一、ユラやガイが誤って、大切な手紙やまたはその下書きなど、捨てるはずのないものをこの中に落としてしまった場合のため、そう決められている。
籐で編まれた花の装飾のついた白いくず入れの中には、ユラが放ったリップスティックの空、ナプキンで包んだ彼女の黒髪が幾筋か……。
アリスはそれらの中に、白く丸めた紙を見つけた。くしゃくしゃと丸まったそれは、鉛筆で描かれた何か、どこかの屋敷の見取り図のようでもある。
「何かしら?」
大したものではないだろうが、とりあえず、これは捨てずにユラに問うてみなければならないだろう。ガイが捨てたものかもしれないが、主人である伯爵の彼に訊ねるより、ユラに訊く方が、気が易い。「あら、わたしからガイに訊いてみるわ」。きっと気軽にユラは、そう請け負ってくれるに違いない。
アリスはその紙を折り畳み、自分のエプロンのポケットにしまった。
開け放したバルコニーのフランス窓からは、カーテンをそよがせる風が、庭園の花の香を運んでアリスのもとまでやってくる。
気持ちのいい季節のその風に、アリスからはつい鼻歌がもれる。
階下のホールから大時計の鳴る音が聞こえた。これが鳴る頃合には、家政を取り仕切るアトウッド夫人から用を言いつかっていたのだ。
「いけない。叱られちゃう」
アリスは慌てて窓を閉め、ざっと寝室の様子を確認してから部屋の外へ出た。
 
果たして、玄関ホールの大時計の前で、他に数人のメイドたちを従え、既にアトウッド夫人は立っていた。太った身体をグレーの簡素なドレスに包み、手を前に組んでいる。
慌てて階段を駆け降りてきたアリスに、ちらりと鋭い視線を投げた。彼女は行儀や作法にうるさく、時間にもうるさい。それらが使用人の大切な基本であると、いつも言っており、自分でも信じているようだ。
「わたくしが仕込んだメイドに不始末など起こした者はおりません」というのが彼女の自慢であり、事実そうであった。上の基本を守れそうにないと判断した者は、教育の前にさっさと辞めさせてしまう。アリスはこの点で、どうやら及第であったらしい。
お小言の後で、アリスは寝室で見つけたあの見取り図のようなものが描かれた紙を、アトウッド夫人に渡した。先に、彼女の判断を仰ぐ方がいいかもしれない。
夫人はそれをざっと眺め、「坊ちゃまのご用のものかもしれないわね」と、つぶやいた。自分のスカートのポケットにしまい、
「わたくしから、旦那さまにお訊きしてみます」
「はい、お願いします」
アリスはちょこんと膝を折るお辞儀を見せた。それに夫人の頬がほんのりと緩む。可愛らしく、みっともなくなくお辞儀ができるようになったと、嬉しかったのだ。
紙は、アトウッド夫人のポケットに移った。
 
アトウッド夫人はメイドたちを従え、納戸の整理を行うという。邸の一階の奥にあるその部屋は、使わない家具や処分に困ったものをしまっておく部屋だ。
祝いなどで贈られた装飾品や絵画など、ガイは目録をちょっと確かめるだけで、大抵は、簡単に顎でこの部屋を示すのだ。「しまってしまえ」と言う意味だ。
古く伯爵家に伝わるものも多い。今は使わないが、貴重な家具類も多く、埃避けの布をかけられ、鎮座している。その目録を作るのが、目的だ。ユラが邸の模様替えをする際にあると嬉しいと言っていたためである。
風を通し、埃避けの布を外させた。いまだに艶を失わない猫脚の美麗な家具類に、アトウッド夫人はちょっと目を瞬いた。
自分が若かりし頃、この邸に奉公を始めた際の思い出が、納戸のほのかな埃のにおいに甦る気がする。
センチメンタルに似たそれを一瞬で彼女は押しやり、手を打った。
「さあ、さあ、お前たち、奥にしまった木箱を開けてごらん。花瓶や小ぶりな像などは、そこに詰められているから」
メイドたちを動かし、作業を進める中、自分を呼ぶ声に彼女は手帳に書き込む手を休めた。声のしたドアに目を向けると、執事のハリスが立っていた。
「何ですか?」
意図せず、太った身体を揺するようにドアに足を向ける。ハリスは今しがた、主人が教鞭をとる大学から連絡があり、もう帰宅の途に就いているという。午後からの急なパレスの用で、正装が必要になったというのだ。
「あらあら、それは。奥さまはお出かけでいらっしゃるわね。お昼食にはお帰りになるとうかがっているけれど」
その昼食の件で、ハリスは彼女に知らせに来たのだろう。執事は厨房のことは関わらない。その差配などは家政を取り仕切る彼女の仕事だ。
アトウッド夫人は、ガイが帰るのなら、昼食の献立を、急いで差し替えなくてはならないと思った。鱒のマリネはガイの嫌いな一皿なのだ。
メイドたちに声をかけ、そろそろ主人が帰ることを告げる。「ベルが鳴ったらお迎えに上がるのよ」
そのまま厨房へ向かいかけ、ふとポケットの紙を思い出した。自分は厨房にいる間に、ガイは帰宅するだろう。それなら、出迎える執事のハリスに、問うてもらえばいいと思ったのだ。
「ハリスさん、これなんだけれど、坊ちゃまにお訊きして下さいな」
ハリスは彼女から受け取った紙を仔細に眺め、ジャケットのポケットにしまった。
紙はハリスのポケットに移った。
 
見事な銀髪をきれいに整えたハリスは、一部の隙もないような姿でポーチに立った。後ろにはメイドたちがそろっている。
頷くようなお辞儀で彼が迎えたのは、この邸の女主人レディ・ユラだった。友人のアンブレア大将夫人の邸に招かれていたという。
ユラは小柄な身体を若草色にドレスを纏い、手に小さなバックを手にしている。彼らの出迎えに、少しぎごちなく応えるのは彼女のいつもの癖だ。馬車に手袋を置き去りにし、御者のマークスが彼女に渡している。
「ありがとう」
彼女の使用人への礼にはもう慣れたが、最初耳にしたときは「おや」と自分の耳を疑ったものだ。地位の高い者が、他愛のないことに使用人に易く礼を口にするものではない。おかしな癖だ、と思いはしたが、ハリスの身分で口にできることではない。
ガイの恩師の令嬢というのが彼女の背景である。が、しかし、その生活は案外倹しいものだったのではないだろうか、とハリスは感じていた。
使用人を多く雇うほどの余裕などなかったのかもしれない。仕込みもない小女程度の者しか、使ってこられなかったのかもしれない。彼女の癖は、そんなところから出ているのかもしれない。
ガイが選んだ彼女を、当初はやや眉をひそめたくなり、ひっそりと胸にしまった微かな不満もあった。
ユラがいけないのではない。ただ、軽い物足りなさはあったのだ。
しかし、彼女が折に触れ口にする「ありがとう」という小さな感謝は、慣れてみると、彼女の優しい気性を現しているのだと思うようになった。同時に、何か気持ちのいいメロディのようにも感じられるのだ。
それはきっと、側のガイが気づかないはずがなく、きっと彼にも、よい方へ作用しているに違いない。寡黙な主人がよく笑うようになった。だからだろう、彼女を選んだのだ。

いつの間にか、そんなところに女主人への軽い屈託は流れ、心地よく落ち着いた。
ハリスはガイがもうじき帰ることを彼女に知らせた。ユラは「まあ」と嬉しそうに頷いた。
今朝方、どうしてか彼女が沈んだ様子をしていたのだ。二人の間に些細な何かがあったらしい。ガイの早い帰宅に、それが解消しそうな気配だ。案外それがあり、パレスの用を絡め、彼も早く帰ってくるのかもしれない。
ユラは階上の寝室に向かった。それを見送って間もなく、今度はガイが帰宅した。
それにハリスらは変わらず出迎えたが、ユラは降りてこなかった。誰も知らせなければ、気づかないのかもしれない。彼女にはよくあることだ。
帽子とステッキをハリスに渡したガイは、「レディ・ユラは?」と訊いた。
「先ほどお帰りになられました。お二階にいらっしゃるようでございます」
「そう」
彼の視線が階段の上にちょっと注がれた。その彼に、ハリスはポケットの紙を取り出す。
「これでございますが、処分してもよろしゅうございましょうか?」
「うん?」
ガイはユラに気を取られるのか、まだ視線を紙に移さない。ようやくハリスの広げた紙に、ブルーグレイの瞳を流し、それを手に取った。どこにあったと問うので、寝室のくず入れに、と答える。
ガイの表情が一瞬凍ったように変わったのを見て、ハリスは大事なものであったのだろうと得心した。主人は軍の要職も兼ねている。もしやそれ絡みの重要なものであるかもしれないのだ。誤って処分などしては、取り返しのつかないことになったかもしれない。
「……これは、僕は預かる」
「かしこまりました」
恭しくハリスが答えたその声の後に、階上から「ガイ」と声が降った。帰宅に気づいたのだろうか。寝室から出たユラが呼んでいるようだ。
もう一度「ねえ、ガイ」と。
彼が階段に身を向けた。大きな声で応えている。
「今行く」
階段を上がる主人のすんなりとした背中を見ながら、微笑ましさに、ハリスは謹厳な頬が緩みそうになるのを堪えた。
ユラがやって来るまで、こんなことは邸にはなかった。レディ・アンが住まっていた頃ですら、なかった。
階上から降った彼女のガイを呼ぶ声に、またメロディのようなものをハリスは感じた。
ハリスのポケットから、紙は、ガイに移った。



        

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ BBSなどにメッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪