メロディ
〜ユラとガイの不思議な?蜜月〜
 
2
 
 
 
ガイは執事のハリスから受け取った紙を、畳んでジャケットの内ポケットに入れた。
紙に描かれた図面のようなものに、彼は見覚えがあった。今ゴブジス島において新造の艦の断面図に酷似している。粗いものであるから、写したものであろうか。
覚えがあるのは、その構造設計の段階で彼も計算の上で携わったからだ。
(どうしてこれが、ここに)
そうであれば、重要な機密書類である。そういったものは、邸に持ち帰らないことにしている。処分させたつもりが、誤って何かに紛れ、ここにあるのかもしれない。それを多分、ユラが見つけ、知らずにくず入れに放ったのだろうか……。
「ガイ」
彼を呼ぶ声が階上からし、ガイは紙の問題を、ひとまず片隅においやった。
経緯はともかく、明日、ホワイトパレスに出向いた折に、確認の上焼却すればいい。
「ねえ、ガイ」
「今行く」
階段を上がり、左に折れ、寝室の空いたドアから、するりとドレスの裾がちらりと見えて消えた。それに彼の唇に笑みが浮かんだ。
「お嬢さん」
声を掛けてから、隙間を空けているドアを開いて中に入った。バルコニーからの風が吹いてくる。彼女はそこから、彼の帰宅の気配を知ったようだ。
朝から、正確には夕べから、彼女の機嫌はよくなかった。夕べの知人の邸での晩餐で、彼女のエスコートをするという約束を、ガイが破ったからだ。
彼女はああいった席を嫌う。人見知りをするようでもあるし、彼が側にいないそういった場面では、どこか怖じける気持ちがあるらしい。
帰りもばらつき、先に帰宅した彼女は、遅くなった彼を出迎えることもしなかった。
機嫌を悪くしているといっても、彼を強くなじることもしなければ、怒っている感情を露わにぶつけもしてこない。そういった際のユラの気持ちは、拗ねて、ただゆらゆらと下方に流れ、暗く滅入ってしまうだけなのだろう。
既に衣装を解き、ベッドに横になっていた彼女に何を問うても、「眠いの」と返ってくるばかりだった。
寝室にユラの姿はなかった。部屋の奥に続く化粧室に、移ったようだ。
早く自分のもとにきてほしかったに違いなのに、だから彼を呼んだのだろうに、するりと身を隠している。
そんな、ときにわがままな猫のような仕草を、彼女はガイに見せることがあった。
今朝も彼には簡単な用程度のことしか口にしない彼女が気にかかり、早めに切り上げ帰ってきたのだ。拗ねているのだろうと思うと愛らしくもあるし、放っておくのが可哀そうでもある。
化粧室に向かい、その途中、彼は靴先で何かを蹴ってしまった。それは筒型のくず入れで、ころころと転がり、なぜか不思議な音を立てた。
「え」
目をやると、中にユラの飼い猫のシンガポアが入り込んでいたのだ。太った猫は、自分の身体をちょうど頃合のくず入れに、みっしりと詰め込んでいたようだ。慌てて飛び出した。
シンガの立てた鳴き声に、ユラが化粧室から出てきた。ガイが故意に、猫に何かいたずらを仕掛けたと取ったのか、
「シンガに意地悪をしないで」
黒い瞳で、やんわり彼を睨んだ。
彼はそれに答えず、彼女の若草色のドレスから出た腕を取った。抱き寄せて、それでも頬をほんのりとふくらませている彼女の顔を、指で上向かせのぞき込んだ。
「まだ拗ねているの? 夕べは申し訳ない。急な件で、どうしてもパレスに出向かなければならなくなった。僕は、わざとあなたを一人にした訳じゃない」
ユラは唇を噛みかけ、それを手前で止めた。彼が好まない癖だと知っているからだろう。代わりに瞳を逸らし、
「…せいで、わたし、嫌だったわ」
「え? 何と言ったの?」
繰り返させると、彼女は彼が出席しなかったため、その代理としてか、ガイのエドワード皇太子の後見という立場に絡み、随分と種々の陳情を受けたという。晩餐の席にはいなかったはずの客が、その終わりにはわっと現れ、彼女を離さなかったらしい。
それら打ち明け話に、ガイはちょっと眉根を寄せた。彼らは一人の彼女を易い相手と考え、無理を言ったのではないか。
彼女は彼の立場を考え、それらの人に言質を与えないよう、かなり気を使ったようだ。最後には訳のわからない理由から、短いスピーチを求められ、非常に窮したという。
一人で戸惑い、泣き出しそうな表情をしている彼女の姿が、ガイには容易に浮かぶ。困らせて、可哀そうな目にあわせたと思った。
「そういったことは、まともに聞いていなくていいのですよ。適当に、頷いていればいい」
「嫌だったわ」
彼女の声は、その底に甘えと微かになじる気配を含んでいる。ガイは申し訳ないと詫びを繰り返し、身を屈め、彼女の頬に唇を寄せた。
肩に流れたユラの黒髪を指ですくい、絡めながら彼は幾つかの優しい宥めの言葉をささやいた。
「あなたを一人にして悪かった」
彼女はそれを無言で聞いている。「ねえ、機嫌を直してほしい。あなたにそんな風でいられると、僕が困るでしょう? お嬢さん」
指に髪を絡ませながら彼は思う。彼女の気分が沈むのは、きっとその厄介であったろう役割のためだけではない。自分が、彼女との約束を反故にしたことが、彼女の気持ちを沈ませたのだろうと思う。
(むしろ、そちらの方が重いのだろう)
彼にとっては些細なことであっても、思いの他、彼女の気持ちを左右してしまう。
そのことに気づいたのは、いつが最初であっただろうか。ユラの心の思いの根の絡まりに、自分が彼女に強いた別れが、糸のようにやはり残り、結ばってしまっていることに。
『許すわ、あなたを』
彼女の中で何かが緩み、凝った思いが溶けたように、そう許してくれた彼女は、それらの屈託をもう見せなくなった。柔らかさを増し、しなやかに、ほんのり艶やかになった。
けれども、こんなところでほろりと顔を出す。
彼女は自分で気づいているのだろうか。
(あなたは、自分が思うほど、きっと強くない)
そして、そうである必要など、どこにもないことに。
ガイは彼女の唇の端に、指を置き、何かをささやきながら、薄いルージュをのせた輪郭をなぞった。
ほのかにユラが微笑んだ。その唇のほころびは、やはり感じる彼の罪悪感を軽くしてくれる。
「スピーチを頼まれて、とても困っていたとき、助けてくれた人がいたの。上手に場の雰囲気を変えてくれて、助かったの」
その隙に、彼女は急いで暇を告げたらしい。
「誰が?」
「○○卿のお友達の男性よ。ガイは知っている? 名刺をいただいたから、お礼を…」
ガイは彼女の言葉を遮った。
「あなたは知らん振りをしていなさい。礼なら、僕からの方がいい」
「そう」
真に親切心だけなのであれば、名刺を渡し、名乗りなどしないだろう。自分なら、しない。無防備な彼女の歓心を買うため、敢えて助けたのではないか。
彼女はあきれるほど、うっかりとしている。
彼の立場であれば、何なりとそつなく社交をこなしてくれる妻が望ましいのだろう。ガイが不在であっても、その代理を易々と務めるほどの機知のある女性が、やはり相応しい。そうであれば、彼の負担は、随分と軽くなるかもしれない。
けれども、そういったことをユラに求めるつもりはない。
目の前のゆらゆらと他愛のないことで気持を揺らしている、そんな頼りのないほど繊細な弱さをもった彼女。それだけでいい。
気持ちが和んだのか、そばに彼が戻り、自分に注意を注ぐその時間が嬉しいのか、ユラの頬はうっすら染まり、見つめると、吸い込まれそうな黒い瞳がぱちりと瞬いてぬれている。
「あなたは愛らしいから、妙な興味を買うのですよ。よく知りもしない男の言葉など、厚意だけだと信じるものじゃない。ねえ、お嬢さん、僕に余計な心配をさせないで」
彼女はガイの言葉に、はにかむのか返事を、頬をシャツに寄せすり当てることに代えた。
不思議な奇跡でめぐり合えた黒髪のユラは、いつしか彼のそばにするりと落ち着き、心のひだに沿うようにしみている。
(愛している)
ひたむきで純な彼女の気持ちが、自分以外に向くことはないであろうと、傲岸な自信が、彼にはある。
(僕が見つけた)
彼だけが知る彼女。はにかんで途切れる声も。甘い拗ねも、恥じらって瞳を伏せる癖も、心の弱さも脆さも。だからこその優しさも。
彼だけにくれる、間違えのない感情も。
彼女のすべては、彼の手のひらの中にある。
 
交わしたキスの後で、彼女はガイの手を引いた。傍らのチェストに載った銀の懐中時計を示すのだ。それは彼の祖母の形見の大事な品で、ときに不思議な力を持ち、中の鏡は時空を越えた影を映す。
ひどく大切なものであったが、それを彼は最近彼女に渡している。ねだられたのが最初であり、それを易く叶えてやった。
「毎日見ているの。でも、何も映らないわ」
ユラのどこかつまらなさそうに響く声音がおかしくて、ガイは笑った。
「そうたびたび映っては、僕が忙しくて敵わない」
ドアをノックする音が聞こえた。昼食の仕度ができたことを知らせに来たようだ。
髪を直してから降りるわ、と言うユラを置いて、彼は先に寝室を出た。
彼女の機嫌が直ったことに、頬が緩んだ。拗ねさせたまま置いておくのが、ひどく気にかかり、どうにも居心地が悪いのだ。
 
ジャケットのポケットにしまった紙のことは、とうに忘れていた。



        

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ BBSなどにメッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪