HALEM

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その男の肌の色を、わたしはよく覚えている。






滑らかでひどく白い肌をしていた。褐色の肌色を持つこの国の人間とは違い、彼の肌はとても日に弱い。
砂漠が埋め尽くす大地。そこに降る容赦のない日の光が、堪らない熱を持って人々を焼いていく。
だから、彼がオアシスにあるこの宮殿から遠出したときなどは、すぐにわかる。滑らかだった肌が、日に焼け痛々しく腫れかけているからだ。
王は、わたしにこの彼を、オアシスの向こうの熱砂の砂漠を越え、さらに海を渡った異国の客人だといった。
「遠い国からきた、賓客だ」と。
その彼を、王はリーと親しげに呼んでいた。初めて彼と会ったのは、宴の宵で、わたしは数多くの王の女たちと共に、そばに侍っていのだ。軽く身を横たえ、薄衣を巻きつけて飾り立てた身体を、より王に近い位置にいるわたしは、しなだれるようにしどけなくさせていた。
次に会ったのは、どこでだったろう。ああ、宮殿の女たちの房の泉だ。男子禁制のそんな場所に、しきたりを知らない異国の彼は、ふらりと興味で訪れてしまったのだ。
闖入者に女たちは悲鳴をあげた。わたしは声を上げなかった。代わりに、きょとんと意味がわからないといった顔をして辺りを見回す彼に、わたしは自分のヴェールをはらりと掛けた。ひどく背の高い奇妙な女ができた。けれども髪の色、肌の色は隠すことが出来る。
そうやって、手を引き、彼を導いた。悲鳴を聞きつけた、警護の男たちが現れるからだ。
王に仕える警護の男たちは、わたしたちハレムの女たちを守るだけでなく、見張ってもいる。逃げ出さないよう、裏切りを犯さないように。
ハレムの庭から彼を助け出した、そんなおせっかいがきっかけで、わたしは彼を、王と同じようにリーと呼ぶようになった。彼が望んだからだ。
リーはわたしに、自分の持ついろんな物を見せてくれた。ときにそれは王も持つ物であったりもしたが、大抵はわたしの目に珍しかった。ガラスで出来たコンパスであるとか、音を立てる時計、インクをつけずとも途切れず線の書けるペン、彼が伴った喋る小鳥……。
リーは、わたしに不思議な甘いお菓子もくれた。小さくて溶けやすいお菓子は、口の中で甘く広がって、夢であったようにあっさりと消えるのだ。
それらの中で、彼の備忘録となっている革の手帳に描かれた、ある女の姿に、わたしは知らず胸が躍り、そして頬を染めた。
癖のある巻いた髪。長い長いそれを、その女は腰の辺りまで垂らしている。身体を隠しながらもやんわりと肌の透ける扇情的な衣装をまとい、金銀の飾りを手首にまとわりつかせ、泉の前で佇んでいる。
それはわたしの姿だった。
「あ」
「あんまり美しいから、記しておきたくて…」
リーは、はにかみを頬に乗せそう言った。わたしはそれに、瞳を伏せるだけで、言葉を返さなかった。
わたしたちは、よく会った。それは日の沈みかけた甘い風の吹く、宮殿のどこかだ。猫の寝そべるあずま屋であり、たっぷりと水をたたえた涼しげな池の畔、緑の茂る庭園の陰であった。
そんな黄昏に、彼は自分のことを話した。国の仕事でこちらへ滞在していることや、その任務がもうじき終わりそうなこと。それから彼個人のことを。
二十四歳という年齢のこと、自国での生活のこと、彼の邸のこと、十も上の姉のこと。
「彼女は母代わりだよ、僕の」
わたしは彼の話すそれらに、ろくな相槌も打たず、ただ音がしそうなほど何度も瞬いた。
驚いていたのだ。
リーの話す事柄の珍しさにも、そして彼の声を儀礼的な距離を置いた場所で、一心に聞く自分の心のときめきに、嬉しさに。
わたしは芯から驚いていた。
リーを好きだと思った。人としてというよりも、もっと切実に男としての彼がわたしの目に、気持ちにとてもまぶしかった。ブロンドの髪をときに揺らし、わたしに理解の及ぶよう、懸命に話す彼。合ったブルーの目を逸らさない彼。
わたしは十八歳のそのときまで、人を愛したことがない。好きになったことがなかった。
わたしが好奇心を満たすと、当たり前のように、リーはわたしのことをたずねた。宮殿で何をしているのか、王族の姫なのか……。
「王のハレムにいるの、そこで、暮らしているわ」
思いがけなかったのか、彼は言葉を途切れさせた。しばらくして、わたしを見つめながら、かすれた声で「ハレム」と小さくつぶやいたのが聞こえた。
わたしはハレムに五年前に入れられた。まだほんの少女だったわたしは、そこで性が何たるかを知り、痛む身体で王を受け入れた。歓ぶ振りを身に付け、受け入れ続けた。それ以外、ここでは生きる術がない。
月日に王の愛は気紛れにあちこちに彷徨い、一時のように、夜となく昼となく、ひどく求められることはなくなったが、わたしはハレムの女たち中で、おそらく三指には入る。
そんな女だ。
王の求めがなければ、日がな身体を磨かせ、怠惰に過ごす。宴があれば着飾って侍り、そこで乞われれば踊る。
もうそれ以前の、わたしをはっきりと覚えていられないくらい、ハレムでの日常は、濃く深くわたしを彩っていた。
自分のその身の上を、わたしは軽蔑もしないし、恥じもしない。そんな女なのだ、わたしは。
ただ、「ハレム」の言葉が出てから、リーはわたしの心を覗くような瞳でこちらを見る。その変化がわたしには、少し怖かった。彼がわたしを汚い女だと感じたのではないかと、胸の奥が震えた。
「サラ」
彼はわたしの名を呼んだ。そして、わたしがテーブルに頬杖をつく腕を優しく取った。
「文化も社会もが違うから、僕の持つ概念は、君には通用しないかもしれない」
彼はそう言い、わたしの手を自分のそれと重ね握った。
「驚いたよ、君がその…、陛下のミストレスだなんて……。陛下には正夫人があるし、ハレムには君の他にたくさんの女性がいるのだろう? それは、僕の世界では、奇矯なことだ、凄まじく淫らなことだよ」
「淫ら」という彼の使った言葉に、わたしは一瞬頬を熱くさせた。わたしが王を楽しませるために使う手管、媚態、仕草、そんなものを、どうしてか頭に思い出してしまったからだ。
それらは、紛れもなく淫らだった。
彼の国の王は妃の他、後宮などを持たないという。愛人が出来ればミストレスとしてそれを遇す。それも多くはない。王個人の性欲の為にいたずらに女を集め、侍らせたりなど決してしないのだという。
「近代的な国家を目指すのであれば、そんな古代のシステムは相容れない」
わたしはそれに返す言葉を持たない。
「許されることじゃない。そんな時代じゃない」
するりと彼の手を外し、彼のジャケットのポケットを指で探った。何かおいしい甘いお菓子を持っているのかもしれない。わたしにくれるために。
指が覚えのある小さな包みを見つけた。急いで取り出せば、それはわたしの好きな甘いお菓子の粒だった。口に含み、じんわりと溶かしながらうっとりとする甘さを味わうのだ。
「サラ」
舌の上で彼が「キャンディー」と呼ぶそれを転がしていると、また彼がわたしを呼んだ。
返事の代わりに、わたしを彼の瞳を受けた。すっきりとした美しい顔を、リーは少し歪ませていた。困ったように、何かに悩むように。
そのちょっと悲しげな表情が、わたしは嫌だった。そんな顔をリーにしてほしくなかった。彼にはわたしをいつもまぶしげに、優しく見ていてほしいのだ。
そのとき、初めてわたしは自分をほんのりと恥じた。王に媚びて、何かをねだる自分を、恥じた。
リーにとって、それは許せないほど淫らなのだろうだから、わたしがそんな女だったのだと、がっかりとした悲しげな顔を作ってしまうほどに。
「君は…」
不意に、腕が伸びた。知らない男の香りがわたしを包んだ。それは、胸一杯に息を吸い込みたいほどの柔らかくて優しい匂いだった。
王とは違う。まったく違う。わたしは王に抱かれるとき、意識せず息を殺してしまっている。だから、行為の中息が辛くなる。それで上げる声が、しどけなく切なくなった。
「あ」
「君は、なんて美しくて愛らしいの? ねえ、サラ、僕は異国の君に、こんなにも夢中になってしまっている…」
暮れが迫っている。宵闇がほんのそばまで来ていた。その淡い気配の中で、わたしたちは必然の事故のように、唇を重ねた。
思いがけず、それは離れ難く続いた。背に回る彼の腕のほっそりとした力強さが、こんなときにも嬉しいのだ。
王とは違う。何もかも。
わたしの口内で残るキャンディーは、触れ合う口づけの熱に溶け出す蜜となり、互いの舌に絡んだ。
夢のように甘く絡んだ。



           

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