HALEM

2
 
 
 
男の声で、ハレムの女たちは急きたてられるように、房を出た。衣装の裾を白い敷石に擦りながら、女たちは大抵が裸足のしどけないなりのまま、男の声に従った。
王が狩りから帰還したのだ。
わたしは、ぞろぞろと列をなす女たちに紛れながら、腕に猫を抱いていた。ハレムにも、猫など小動物を飼う自由くらいはある。それは青い目をした灰色の毛をした可憐な猫だ。
名もない猫は、いきなりわたしの腕を滑り落ちた。着地するや、軽快な足でどこかへ行ってしまった。
猫の青い澄んだ瞳の色に、わたしはリーのそれを思い出した。
だらだらと女たちの列は続き、それは敷石の果てで終わった。門が見えた。
宮殿のある殿舎との境界に、その門はあった。門の姿はいびつで、暗緑色の厳しく恐ろしい形をしていた。剣を提げた男の手で、鉄の門が開く。天にそびえるかのようなその大きな門は、ハレムを閉ざすためにあった。外界から、他の場所から。
王の許しがなければ、女たちはこの門を出ることが出来ない。まるでかごの鳥ように、ハレムの女たちは自分たちに許された房に、華やかに閉じ込められているのだ。
心も、未来も、何もかもたわませながら。ただ王の為に。
門の向こうは、青空の下に砂地の広場があった。その中央に騎馬した王がいて、黒毛の馬を責めていた。
ひどいほどに鞭を使い、従わせようと、躍起になっている姿があった。肩を覆う長い黒髪、白のケープ。それらが馬の躍動に、生き物のように跳ねて見えた。
女たちは焼ける砂地に立たされた。影場もない。ここは王が馬に乗る馬場なのだ。熱い日が、燦々と注ぐ。履物を履き忘れた女は可哀そうだった、足の裏が熱砂に焼かれるようだ。
わたしも素足だった。堪らない熱さに、わたしは隣りの女の羽織物を剥いだ。それを破り、足に巻きつけた。自分のものを使わなかったのは、わたしが半裸に近い姿だったから。ちょうど湯殿にいたのだ。身につけているのは、乳房のうっすらと透ける薄衣しかない。
切り裂き、足を包み、余った絹を隣りの女に押し返した。彼女は恨みを込めた目で睨んだが、それ以上は何も言えないだろう。知らん顔でいた。
わたしの方が、王に愛されている。ハレムでは、王の寵愛の序列がすべてだ。
目を戻すと、王は馬を下りるところだった。責めるのに飽いたのだろう、荒馬がおとなしくなると、彼はそれで満足なのだ。思う様に責める、苛む、そして言いなりにさせる…。その過程が楽しいのだろう。
ふと、それは王が新しく気に入った女を得たときに似ていると思った。身体だけではなく、心まで従順に、己のハレムの色に染めるように、彼は貪るように、新たな女を責めるのだ。
寝室で、宵の始まりから、その夜が明け始めるころまで。または日の高い、王の私的なサロン。そこでは、明るい中身を任せることへの慣れない女の羞恥を煽り、捨てさせるためなのかもしれない…。
そんないやらしい姿に、馬を責めるときの王は、よく似ていた。立ち並ぶ女たちの顔がよく見える位置まで来ると、彼はいつ手にしたのか、布袋に入った大きな袋を砂に地面に放った。袋から、獣の足がのぞいていた。
「夕食に食べるといい」
獲物を下げ渡すその顔は、騎馬の後の上気した気配もない。薄く額際に汗が見えた。秀麗な顔をほんの少しだけ和らげていた。馬の具合がよかく、機嫌がいいのかもしれない。
それに、女たちの嬉しげに、媚びるような嬌声が上がった。ハレムの誰もが、毎日口にしている肉が好きであったし、さらに、わたしたちの主である王自らが仕留めた獲物のものとなれば、甘やかなものすら感じているのだ。かつて陵辱された恐ろしさなど、微塵もなく忘れ。
王は、わたしたちの前に睥睨して立っていた。結わない黒髪を、風に踊るに任せている。身の丈がとても高く、そして強くしっかりした長い手足を持っていた。ここにいる女など、その両脇に、簡単に抱えられる。さらに肩にも乗せられるだろう。
黒い瞳を微かに動かすだけで、彼は伽をさせる女を選んでいるのだ。並ばせ、女たちの露わな競争心をくすぐって煽ることを、楽しんでいるのだ。
女を移り、王の瞳がわたしに据えられた。しばらく動かない。
妙に胸が騒いだ。なぜこんなに長く見るのだろう。
「あ」
わたしは心で、声にならない小さな悲鳴を上げた。
リーとの口づけがこんなとき不意に甦り、それが恐怖になったのだ。王はあの口づけを許さないだろう。きっと激怒する。普通の接吻ではなかった。
どうしよう。王が知ったら。知っていたら……。
どうしよう、という恐ろしい不安が胸を占める中、そこに別の思いがあることにも、わたしは気づいた。
それは、大きな秘密の甘さだった。別な男への初めての思慕と、あのとろけるような、優しい口づけを。
わたしは知ってしまった。
それが、王を前にしても、どこかでほんのりと、女の根の部分でわたしは嬉しいのだ。ハレムにいながら、自由な心を持っていることが。
不安の影で、わたしは艶然に微笑んだ。少し小首を傾げ、彼の強い抱擁を待ち望むかのように、やんわり唇を開いた。
王の視線は、いきなりするっとわたしを逸れた。
「お前」
選ばれたのは、わたしの隣りに立った女だった。薄物を破られた腹いせか、選ばれた優越感かで、彼女はわたしの頬を思い切り張った。
その力に、わたしは熱い砂地に身を倒した。
そこに、王の嘲笑が降ってくるのだ。
 
 
狩りにはリーも供をしたらしい。彼の頬から鼻の頭の皮膚が、乾いてめくれそうになっていた。彼の肌は、白いから日に弱いのだ。
庭園の梢の影間を歩きながら、何でもない話を聞いた。
わたしは黙ってただ聞いていた。わたしには、彼に話すほどのことがない。
今日の午後の馬場での無様など、仮に話したところで、リーは喜ばないだろうから。
ハレムの話を彼は好まないのだ。だって、淫らだから、いやらしいから。
けれども、
「サラは不思議とそんな雰囲気がない」
と言ってくれる言葉だけで、満ち足りた気持ちになった。そう、こんな幸せな心の躍動を、わたしはハレムに来て以来、持ったことがあっただろうか。
王が、猫をほしいとねだったわたしに、のち、投げるように渡してくれた子猫を見て、嬉しくは思ったことはある。けれども、それは猫の姿が可憐だったからだ。飼える自分が嬉しかったからだ。
王へのものではない。
彼を見ていると、接していると、知らない自分が覗けるようで、妙な気がした。振りではなく、真に彼に好ましくありたいと願うわたし。彼を通じて、彼の話から、見知らぬ遠い異国にさえこの手が届く気がするのだ。それは自由の香りをしていた。
ハレムの生活に慣れてしまったわたしに、不満も不足もない。でも、幸せではない。心が躍らない。
木陰に隠れ、わたしたちは束の間の口づけを交わした。何度目かのそれは、初めてのときより長くはなかったけれど、深くなり、気持ちが熱くぬれるようになった。
触れてほしくなったのかもしれない。わたしは背に回った彼の腕を身をよじって解き、その手のひらを、衣装の上から自分の乳房に押し当てた。
リーの長い指先は、そこで一瞬留まると、すぐに外れた。口づけも止め、わたしの両肩に手を置いた。
「サラ、こんなことはしなくていい、僕には」
「ごめんなさい」
わたしは彼の伏せた瞳に、気に障ることをしたのかと、びくびくした。彼にはわたしのことで不快になってほしくない。ハレムの女であるという事実以上に。
「君は悪くない」とリーは首を振り、抱擁と口づけの代わりに指先を絡めた。
そして、どうしてわたしがハレムに入ることになったのかを訊いた。その問いに、わたしは覚えている範囲で答えた。捨ててしまった五年も前の過去など意味がなく、定かではないのだ。
あれは、飢えた弟のパンを求めて、市場で盗みを働いたのがきっかけだったはず。パンではなく、金だったかもしれない。おかしなことに、ついでにオレンジを盗ったのはよく覚えている。ひどく、口にしたかった。堪らなく、ほしかった……。
あっけなく捕まったわたしは、牢に入れられた。そこからがまた漠として曖昧だ。数日間ろくに何も食べずに、不潔な牢にいたためかもしれない。けれども、生家とどれほども違わない。
引きずられるように、王の前に連れて行かれた。そのときは目の前の黒髪の優美ななりをした大男が、王だとは知らなかったけれども。
器量を見た看守が、王への媚びに、ハレムに入れるようわたしを売ったのだろう。
そうして、今のわたしがある。
リーは、その途切れ途切れの上手くないわたしの身の上話を黙って聞いていた。「それで?」、「それから、君はどうしたの?」…、などと上手に相槌をくれるのがこれまでだったので、わたしはまた彼の機嫌をうかがった。嫌な話をしてしまったと思った。
紳士のリーに相応しくない、厭わしい穢れたわたしの話を。
「リー」
彼の顔を覗く。ちょっと厳しい表情が、そこにはあって、わたしへ強い瞳が注がれた。わたしの好きな、彼のきれいなブルーの瞳。猫と同じ色。
再び腕が身体に回された。彼のまとう匂いに、腕の力に、ほろっと頬が緩む。彼は清潔な気がする。汲みたての冷たい清水のようであり、夜明けの白々とした中の空気のように。
わたしは胸に、ぴたりと頬を預けた。
 
「サラ、僕と一緒に、ここを出よう」
 
「え」
意外な言葉に、わたしは顔を上げた。
「君は、ここにいちゃいけない」
リーの凝った瞳が、わたしを見るのだ。逸らさずに、ただひたすら。
とっさに、言葉の意味を量るより何より、彼の瞳にただ一人映る自分が愛おしかった。
それだけで、ただ満たされていると思った。



             

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