HALEM

25

 

 

 

駕籠にいっぱいのオレンジを抱え、裏門をくぐろうとする際、もう見慣れた警護の男がやや顔を強張らせている。「マダム、お急ぎを」と、わたしへささやいた。

わたしは小さく頷いて応え、彼へオレンジを二つ三つ押し付けた。急げと言われたが、わたしの歩調は少しも速まらない。急いてなどいないからだ。

うっそりと木々の茂る林を、衣を揺らして歩き、広間の露台から中へ入った。

昼の光が柔らかく届いた室内は、外の明るさに慣れた目には穏やかに暗い。その辺の卓子へ駕籠を置き、そこでやっと日除けのヴェールを外した。

一つオレンジを手に取り、それを鼻近くに持っていき、淡い果皮の放つ香を楽しむのだ。

離宮に移って三年が経つ。

少ない使用人に囲まれて過ごす日々、わたしは外歩きを覚え、気ままに町を歩く癖を身につけた。随分前のようにも感じるが、地下の雑居牢にあったとき知り合った、ナジムの店を偶然見つけもした。

バザールでは鮮やかさに目を惹かれ、きれいな果実などを幾つも求める。一つを手に取れば、もう後は離宮の者に振る舞ってしまう。取立てほしかった訳でもないのだ。

優美ななりをした目的もない若い女の一人歩きは、目を引くのだろう。陽気な声を掛けてくれる知り合いが、ナジムの他にも一人二人と増えていき、いい気晴らしにもなる。そこではわたしは、ただのサラでしかない。

オレンジを手に転がしていると、ここに普段ない人の騒がしさが、届いてきた。王が到着したのだ。

彼は、手の空いた際や狩りの帰りなどにこちらへ立ち寄る。不意のときもあれば、予定立ったものもある。今日のように。

髪を覆った衣を煩わしげに解きながら、王が現われた。深い藍の色の衣を纏っている。剣を外し、衣とそれを近習の者へ見もせずに渡した。

不機嫌にわたしを眺め、苛立った声を出した。

「なぜ、出迎えに来ない」

「外歩きをしておりましたの」

王はわたしの手の中のオレンジを奪い、あちらへ放り投げた。顎を軽く引き、跪くことを求める。

跪いたわたしの肩へ足先を掛け、勢いよく王はそのまま蹴り倒した。肩と腕をしたたかに床に打ちつけ、鈍い痛みが尾を引いた。

「いい気なものだな」

吐き捨てるような罵倒が、幾つか降ってくる。

彼の怒りはもっともだろう。数日前より、王宮から王の訪れを知らせる使者がやって来ていた。二〜三日滞在することを知らせ、その準備を命じていたのだ。

知りながら、わたしはうかうかと外へ遊びに出かけ、王の到着を出迎えもしなかった。

敢えてしたことでもないけれど、忘れていた訳でもない。

そして、この失態は、今日が初めてのことでもない。

「下がれ、もういい」

王は低い声で控えた者を下げた。代わりに女どもが現れ、わたしへ酒の給仕を引き渡して出て行く。わたしは身を起こし、椅子に掛けた王の傍らに侍り、酒で満たした杯を差し出した。

彼が杯を干すと、わたしはまた酒を注ぐ。それが、互いに沈黙のうち数度繰り返された。ようよう焦れたのか、王は杯を払うように床に落とし、その手でわたしを力強く引き寄せた。

少しの液体を残して石の床に落ちた銀の杯は、静かな室内に、からんと大きな音を響かせた。

「まだ拗ねているのか?」

腰を抱かれ、わたしは彼の膝に落ちるように乗る。短く小さく、「いえ…」とのみ、わたしは答えた。

王が問うのは、半月ほど前に彼がこちらへ渡ったときのことだ。その際、わたしの弟のカノンを彼は伴うとの約束を、あっさり反故にした。詫びもそれらしい言い訳もなく、ただ、「気が変わった」とだけ。

『あのような子供がいては、煩い』と。

久し振りにカノンに会えるのを、わたしは随分と楽しみにしていたのだ。聞きたいことも問いたいことも、指を折るほどにあった。ただ顔を見るだけでもよかったのに。

あっけなくその期待を破られた腹立ちもあり、王への軽い恨みもあった。そのとき彼の口許に浮かぶわずかな嗤いに、怒りの琴線がふと刺激されたのを覚えている。

彼はわたしが何にこだわり、何に弱いかを知り、ときにそれらをもてあそび、感情を踊らせることを楽しむ癖がある。これもいい例だった。

その後、嫌がるわたしの頬を打ち、突き倒し、無理矢理に犯した。数日身体の節々が痛むほど執拗で、また乱暴な愛し方だった……。

日を置き、王宮から衣や宝飾などが数多届いた。王から何のことづけもなく、わたしへ贈る理由すら添えられない。

これも、初めてのことではない。

離宮へは、月に一度、多いときは三度ほどの王の訪れがある。数日滞在することもあれば、ほんの短いひとときの逢瀬もある。その時間の中で、些細な事象に互いに気持ちを掛け違うことが間々あって、それらの拙い答えが、王の嫌らしいまでのわたしへの責め方や暴力になり現われるのだろう。

そして、わたしを置き去りに、身勝手に離宮を去った後で、決まって、何の言葉も添えずに、美々しい贈り物の数々を届けさせる。

それはまるで不器用な愛の発露に似ていた。けれども彼は不器用なのでもない。それがそのまま、素の王なのだ。そして、そのままをわたしに愛することを強く求めてくる。

訪れがあり、再び会うときは、わたしは先だっての気後味の悪い別れを忘れ、変わらずにごくあっさりと王に侍る。また贈られた品で機嫌よく身を飾り、王の目を楽しませもする……。

これが、繰り返す、わたしたちの紡ぐ愛の形だ。

滑稽で、不恰好で、歪で、ひどく迂遠でもある。どうであれ、休暇のような非日常の二人の時間を、王が好むのをわたしは知っている。だから、無理をしてもわたしに会いに来る。またわたしは、彼との濃密な逢瀬を身体と心で味わい、一人の日々に孤独に待ちながら、待つことさえ愉悦にすることを覚えた。

 

三年の月日をかけて、緩やかに、こんな風にわたしたちは寄り添っている。

 

「まだ拗ねているのか?」の問いに、否やを返したが、そう答えながら、心の中でまだほのかに、王のあまりのやり様に、拗ねた気持ちがあったのかもしれない、と自問してみる。

だから、出迎えもしなかった……?

ほろりと導き出たものに、わたしの気持ちがうっとりと潤んだ。知らずわたしは、あらゆるとき、態度で仕草で、王に甘えと媚態をさらしているのだろう。何をしても、彼がわたしになら最後に必ず赦すと知っているから。

 

赦すと、知っているから。

 

気持ちをなぶって愉しむのは、彼だけではない。互いであり、わたしもそうなのだ。

「サラ」

始まった口づけは、ひどく甘い果実の香りがした。

 

瞬く間に過ぎた休暇の果てだ。

王は眠るわたしを、軽く叩いて起こした。王宮の朝より少しだけ遅い、離宮の朝。

無意識にわたしは彼の首へ腕を回した。もう一度、帰る前に抱いてほしくなったのだ。

「止せ」

そう、あっさりと王がその手を払うのはいつものことで、それを知りながら、わたしも懲りない甘えをさらしている。

こちらでは、朝の仕度はわたしが務めることになる。用意させた衣を、湯を使った後の王へ差し出すのは、わたしの仕事だ。

まだぬれ髪が肩を覆う、逞しい彼の背へ衣を回す。剣を渡す。ぽつんと雫が落ちる髪を拭う。

衣装を纏った王は、夕べしたのと同じ問いをまた口にした。その返事をわたしはまだしていなかった。この種のことを問われたのは、これが最初ではない。それをこれまでわたしは曖昧に流し、避けてきた。

「何が気に入らない?」

王は不機嫌な表情と冷たい声で、はっきりと答えないわたしを責めた。

彼はわたしを、王宮へ迎えようとしていた。

ハレムではなく、空いたままであった夫人格の女を置く部屋に迎えてやるという。

名誉で、誇らしいことではある。驕慢な部分のわたしが、王の求めにじゅんと疼くように昂ぶるのも感じている。けれども、そではあるが、どこかで気が進まないのだ。

ここでの生活にすっかりと馴染み、居心地のいいそれを手放したくないという気持ちもあるが、それだけではない……。

「わたしのような者が、あなたのお側にあれば、人は何を言うかしら……」

「お前のような女でも、そのようなことを気にするのか?」

王はやや目を細め、わたしを見た。唇の端に、もう嘲笑がうっすら浮かんでいる。

それにわたしはゆらりと首を振り、

「いいえ、ちっとも」

王が軽く舌打ちをし、指の節でわたしの額をわずかにぶった。

わたしは彼の腰へ手を置き、その辺りの衣を指でやんわりいじりながら、微笑んだ。

「わたしをここへ置くと命じたのは、カイサル、あなたでしょう」

ふと、離れたくなくて、王宮を出されたくなくて、彼へ涙で縋った過去を思い出した。そのわたしが、ときを経、王宮へ戻ることをやや拒んでいる。

そして、わたしを離宮へ遠ざけ、距離を置かせた彼が、今わたしをほんの側に取り戻そうと、苛立っているのだ。

きっと、彼の中で、わたしへのある何かが消え、またわたしの中では、別な何かが生まれたのだ。

きっと、そう。

その変化は、わたしの心を強くしなやかにし、またわたしたち二人の関係を、滑らかに密に、過ぎゆくときに馴染ませていく。

彼は鋭く睨みながらわたしの髪を束でつかみ、痛むほどにぎりぎりと手のひらに絡めた。その力に、わたしはやや首をのけ反らせた。

「わたしから、無駄に脚を運ばせる気か?」

「そうしては…、下さらないのですか?」

「口の利き方に気をつけろ、サラ」

痛みに「あ」と顔をしかめれば、ほどなく髪をつかむ手が解かれた。じんと地肌の痛む乱れた髪を、わたしは無造作にまとめ、そうしながら、強く見つめる彼の瞳へ視線を沿わせた。

「あなたが、他の女を抱くのを、側で知りたくはないの」

「…いつもそういう可愛げのある口を利いていろ」

王はちょっとだけ笑い、わたしの頬を、指先で機嫌よく撫ぜた。甘えを見せ、口づけをせがめば、易くそれに応じてもくれる。先刻、首に回した腕を、邪険に払ったというのに。

王がハレムの別な女を求めるのは、ごく日常的なこと。ふわふわと移ろうその寵愛も当たり前の些事だ。そして、その些事に、ちくんと妬みの痛みが疼くのは事実だ。

けれども、それが王宮へ戻ることを拒む主たる理由ではない。彼の日常へ埋め込まれるのをどこかで厭う最も大きな理由は、別にある。

王はわたしを生意気だと叱るだろう。怒りを見せ、傲慢だときっと罵るだろう。

生意気でも、傲慢でもいい。

わたしをほしいときは、王自らに、煩わしさを押してその腕で求めてほしいのだ。側にあり、手軽な情欲の気紛れなはけ口でありたくない。距離を省みず、または時間を作り、訪れてほしい。

そこに紛れもない、王の真摯な愛の側面を、わたしは見出すから。訪れごとに、それを知ることが、わたしには芯の意味で嬉しいのだ。何の言葉がなくても、ひどくてもいい。ただわたしのために、敢えての無理を冒してほしいのだ。

 

わたしを、ただ一人、あなたが愛を捧げる女にして。

 

口にしない、できないわたしの心の本音の声であり、もしくは王への意地に近いかもしれない。せめてもの、王の女としての矜持だ。

待つのはいい。寂しくても、退屈でも、もうわたしは構わない。町を歩くことでそれは紛らせるし、また簡単で粗末な絵を描く楽しみを覚えたわたしは、時間の潰しようもあるのだ。

その密やかな趣味は、リーの真似事だ。彼が革の手帳に事細かに記していた素朴な鉛筆画を、わたしは今も忘れかねているのだ。その一枚に、印象的に描かれた自分の姿があったことをも。

「お願い」

甘えに逃げたわたしを、王は咎めず責めなかった。ただ、「考えておけ」と返事の先延ばしを許し、祭礼の日の後に催される宴には出るようにと、こればかりは命じた。遠来の客もあるという。

「迎えをやる。お前が舞うのを、久し振りに見たい」

 

 

灯りを受け、つるつると光り輝く大理石の床には、幾つもの大甕が水を張り置かれている。そこには皿に浮いた蝋燭に火が灯り、そして可憐な花びらが散っている。

宵の始まり、既に宴の催された大広間には、多くの人が詰め、楽の音が緩やかにときに高く響き、踊り子たちの妖艶な舞が繰り広げられていた。

仕度に手間取り、思いの他遅くなった。

中央の玉座には、王が厚いラグの上に肘を付き身を横たえ、寛いだ姿でいるのが見える。そのまわりを、ハレムの着飾った女たちが、競うように侍っている。彼はそれを疎ましがりもせず、望むときに酒を求め、風を送らせるなどしていた。

わたしは衣を揺らして人の波を縫い、王の側へ歩を進めた。今宵の衣装は、王より贈られた白く艶やかな意匠のものだ。脚の動きによって、肌が大きく露わになる。王が好んでわたしに着せる型の衣装でもある。

「サラよ」

そんな女の声がざわめきに混じり、幾つも飛んだ。

「サラだわ」

名前の前と後、何の言葉が続くのか、悪戯にちょっと知りたい気もする。

わたしは構わずに王の側まで進み、しどけなく侍る傍らの女たちへ、手の扇子を軽く振って見せた。

粘つくような棘のある視線を感じたが、頓着しない。彼女らは渋々と、わたしに席を譲り背後へ下がった。決して適わぬことを、理屈ではなく知っているからだ。特異な境遇のハレムの女の中で、わたしはその最たる者である。また、敵にしたい相手でもないはずだ。

異国の男とハレムから逃げ、それを王より赦された女であり、そして今も尚、王の寵愛を受ける女なのだから。

一人、あらぬ方を見、わたしの視線をするりと避けながら、今も王に手を重ねたままの女がある。鮮やかな紅の衣を着ていた。見覚えがないから新しい女であるらしい。

「どいて」

わたしは彼女の前に立ち、声に出して言った。その場所は、わたしの座る場所なのだ。

「どうして…? 嫌よ」

度重なり王の伽を務めたのだろう。きつい瞳で見返す女の顔には、勝ち誇った者の彩りがある。けれども、ハレムの女であるなら、噂ぐらいには知るはずだ、サラという奇異な境遇の女の事柄を。

きらきらと妬みに燃えながらも、紅の彼女の瞳には、こちらへの隠せない怯えがちらちらとのぞいている。

王は女同士の小さな諍いに関せず、杯を傾けながら、舞に目を向けたままでいる。

王の手が、目の前へ手近に飾られた花の束をつかみ、前へ放った。みっしりと花びらをつけた花々が、床にぐしゃりとその肢体をさらした。無礼講騒ぎを許す、宴での決まった王の仕草だ。

それを合図に、わらわらと男たちが中央に進み出る。楽の音に和し、盛んに陽気な声を発し、扇情的な踊り子に混じり、嬌声を上げる彼女らに絡むかのように解放的に交じり、賑わしく楽しげに踊り出す。

「嫌よ」

女は再度、拒んだ。怯みながらも、わたしを前にした女の、他とは違う、といった鼻に付く傲慢さに、ほんのりかつての自分を垣間見たような気もして、ふとおかしさが込み上げた。自分のその過去を振り返るかの追想がおかしいのだ。この女とは、そう年も違わないのに。

違うのは、どちらが王により近いのか、互いのその立ち位置だけ。

「いいわ、どうぞ」

ハレムという女の群れに、明らかに個であるわたしの居場所は、既にないのかもしれない。

わたしはあっさり引き下がった。席を争う馬鹿馬鹿しさに倦んでもいた。そして空腹でもあり、宴を下がり、気楽に何か食べていたい気分にもなったのだ。のち、王は勝手を叱るかもしれないが、気にならない。

身を翻すと、そこでこれまでのちょっとした経緯を、聞くとはなしに聞いていたであろう王の声がした。その声に振り返る。

「どけ」

傍らの女を払う。

「サラ」

呼び掛けに、女と入れ替わり、わたしは代わりに王の側へ腰を下ろした。

「もう下がろうかと…」

「誰が許した?」

「でも…」

こちらも見ずに手首を捕らえ、ぴしゃりと抗弁を塞ぐ。

わたしは身を横たえたままの王の立てた膝へ、しんなりと身体を預けた。横様に座り、そのせいで膝も裾も割れ、内腿に刻まれたあの印章が露わになる。滅多と人目にさらしたことはないが、だから敢えて隠すつもりもない。

「あ」

と、息を飲む、先ほどの気強い女の気配がした。そして熱い視線を感じる。ハレムの女たちも見ているのだ。鮮やかに肌に残る王の印章を、罪の証を。

 

王とわたしの、これは、すべてを刻む証。

 

わたしは、ちらりと紅の衣の女へ瞳を向けた。彼女の側には銀の盆に山と盛られた鮮やかな果実があるのだ。

「ねえ、その赤い果実を頂戴」

目を見開き、わたしを凝視する彼女へ、手のひらを差し出した。「ねえ」と。ハレム一と言われ、王の心を蕩かすとも言われた、あのしっとりとした笑みを浮かべながら。

 

 

宴の翌朝、やや遅寝をしたわたしは、傍らに既に王の姿がないことを知った。

ここは、かつてカノンが、王がわたしのために用意したと言った部屋だ。そうであったのか、そうでなかったのか、真実は知れない。けれど、結果的にわたしに許された部屋になった。望みもしないのに。

寝室に続く控えの間の奥に湯殿があり、サロンまである。それらには女が主に似合いの柔らかな設えが施されていた。

露台からは遅い朝の風が運ばれてくる。身づくろいの後、涼しげな露台に出れば、その欄干にわたしの飼う猫が飛び乗っていた。

青いきれいな瞳をしたその猫は、数年前の王よりの頂戴物だ。囚われた期間を除いては、ほぼずっとわたしと共にある。もちろん離宮に連れていたが、しばらく王宮に留め置かれることから、慰みに今回伴っていた。

長く名がなかったが、最近思いつき、ひっそりと名を付けた。

女官の用意した甘いお茶を口に運びながら、欄干に座る猫の背をちらりと撫ぜる。

不意に、猫が下へ飛んだ。

「あ」

名を呼び、急いで目で追えば、猫は手近の梢に移り、そして器用に枝を伝い、庭へ降りてしまった。

おかしなほどにうろたえた。どこかへ逃げてしまったらどうしよう、このまま帰ってこなかったらどうしよう、とわたしはひどく慌てた。わたしを慰め続けてくれたあの猫を、とても大切に思っているのだ。

そのまま部屋を出、猫を追い、庭へ降りた。

「リー」

朝の清掃の済んだ、整った庭は葉の一枚も落ちてはいない。裸足のままうろうろと、わたしは猫の名を呼びながら探し回った。幹と幹の陰に、ちらっと猫のグレイの毛が見えた。

「リー」

少し声を大きくし、呼んでみる。小さく、鳴き声が届くような気がする。外に慣れないため、降りてはみたが、あの子は怯えているのかもしれない。殊に王宮の庭園など馴染みがない。

「リー」

そのとき、木陰から大きな影が現われた。影は青年で、一目で異国の人間とわかる姿をしていた。濃茶の髪、うっすらと青い瞳の色。肌はやはり白い。すっきりとした身ごなしに、ちょうどあのリーと似た装いをしている。

一瞬、目にしむ梢の緑を背景にした、淡い一枚の異国の絵画のように映った。

彼のグレイのジャケットの腕には、わたしが逃がしてしまった猫のリーが抱かれていた。

「恐ろしげに、うずくまっていましたよ、あちらで」

差し出された猫を、わたしはおずおずと受け取った。優しく微笑みながら、「リー、という名なの?」と、気安く言葉をつなげる彼に、わたしは戸惑っていた。かつてのリーの影を、目の前に立つ彼に、露わに思い出してしまいそうになる。

頭にちらり、王が昨夜の宴に遠来の客があるとほのめかしたのを、思い出す。青年が、名と外交使節の身分告げたが、大方聞き流した。

鼓動が速くなる。少しだけ、息が苦しい。

「お嬢さんは、こちらの姫なのですか?」

同じような問いを、あのリーも、わたしへ投げた……。

あふれ出す堪らない数々の追憶に、眩みを覚え、彼の瞳を避けた。

どこかまぶしげに目を細める彼へ、わたしは小さく答えた。

 

「王の女よ」

 

それきりで、身を翻した。

宮殿から、わたしを探す声がする。側仕えが使う、「マダム」と既に耳慣れた自分の呼称に、わたしは歩を速めた。

 

 

あなたの肌の色を、わたしはよく覚えている。

今も。













             

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