HALEM

23

 

 

 

腕が背に回る。大きな王の手のひらは、わたしの衣の背を滑り、長く垂れる髪を巻いていく。そのままきつくつかまれ、引きずられるように寝台に押し倒された。

先ほど、王の剣先が弄び、既にわたしの衣装は肌を隠す用をなしていなかった。その乱れた絹を、王の指が乱暴に引き裂いた。赤子の泣き声にも似た絹の裂ける音。

その音に、遠い過去を思い出す。最初の閨もそうだった。泣き出したわたしの頬を王は幾度も張った。その後で、衣を破り、剥いだ……。

そのとき恐怖に震えたわたしの心は、ときを経、今はどうであろう。

無残に衣を剥がれ、組み敷かれ、むき出しの肌を見つめられながら、燃えるように射すくめる王の瞳に、心を弾ませている。躍らせているのだ。

こんなにも違う。

自ら身体を開き、荒い愛撫をくれる彼へ、焦がれるような甘いときめきを覚えている。胸の中に湧き上がる、満ちた思い、歓び。

変化ではなく、まさか成長でもない。

違うのだ。

王の存在が、その何かもすべてが、女を別な者へ変えてしまう。草木を折るように容易く。脆い硝子を砕くようにあっけなく。

その変容に、うな垂れじゅんじゅんとなじんでいく者。気づかずに受け入れる者。また、それに痛みを覚える者……。後者は、わたしや婆やのような女たちなのだろう。

抗い、虐げられ、傷を負う。けれどもそれをいつしか飲み干すように浸透させ、肌に溶かしてしまっている。王の苛烈さ、峻厳さ、秀麗な美貌、猛々しさ、当たり前にそれらをさらし、振る舞うその姿に、どんな女をもが縛られてしまうのだ。

すべてを縛る、ささやかに抗うことで、更なる痛みを促す、それはまるでいばらのような結束。

 

逃れられない。

 

「あ」

触れ合う肌の熱に、脚の内腿に刻まれた印章が疼くように痛んだ。けれどもその箇所に王の指や唇が触れると、痛みはすぐさま別種の官能を呼んでくるのだ。這う舌に、わたしの吐息がしどけなくぬれた。

彼の髪を指に絡め、やんわりと、またきつく噛む愛の仕草に甘く耐える。

「美しく残ったな」

笑みを含んだ声が、傷痕の上に降る。「いい眺めだ」と。その声音は、気に入った馬の背を撫ぜてやるときのようであり、女に気紛れに似合いの衣を贈り、それを褒めるときのようでもあった。ごく他愛もないもの。

「わたしを恨んだか?」

執拗にその印章の痕を攻めながら、同じ唇が問うのだ。

「いいえ、一度も…」

「この痕を、あの男が目にしたら、どうであろう?」

「さあ…」

この場にいない、リーの思いなど、忖度できない。読む気もない。そして、こんな場で、王と重なりながら、彼の話をしていたくない。リーへ憚る気持ちではなく、あのときの冷酷な王を思い出すから。あの地下牢でこの焼印を押した、容赦のない酷薄さを、愛撫をくれる今のあなたに重ねてしまうから。

わたしは今、ただ愛してほしいのだ。

「サラ」と、王が呼ぶ。

「なあに?」

甘く答えれば、

「若く有望な男の将来を、お前は戯れに棒に振らせた。男の目に己がどう映るか、知り抜いているのであろう? 誑かすのは、容易いと…。この顛末は、さぞ本望であろう?」

「え…」

何か言葉を返そうと、思いは頭と心を探った。その入り口で、不意に乱暴に貫かれた。驚きと身体の反応に、悲鳴に近い声が短くこぼれた。

「危ない橋を、お前のみが楽しんだ。危険を冒す男の身など、思いやりもしなかったのであろう?」

返事を見つけられず、わたしの唇からは、いたずらに喘ぎ声だけがもれていく。

事実ではない。けれど、決して嘘でもない。しかしその中に、わたしの偽りのない初恋は含まれていない。王はわたしのリーへ抱いた、純な恋があった事実を、省いた。きっと、知りながら、省いた。

 

「サラ、お前は、とても、悪い女だ…」

 

組み敷かれ、荒く欲望のまま抱かれながら、わたしはその最中、彼らしい嗜虐性と共に、王の消えない嫉妬の香を嗅いだ。いまだくすぶり、わたしをなぶり、虐げることで癒やす、王の中の見えない傷だ。それはわたしが彼へ残した。

わたしの肌の印章とそれはきっと対になるだろう。

王が達した気配に、共に昂ぶり浮かされたように、意図せずわたしは唇を開いた。

「カイサル、あなたが愛してくれたら、わたしは満たされるの……。何もほしくない」

ただのハレムの女でいられる。

「愛?」

問い返され、熱くわたしの頬に朱が上った。ほんの傍らに横たわる彼が、こちらへ視線を流すのを感じる。わたしを見ている。閨に侍り、王に仕え、愛をねだる行為に恥じたのだ。芯の願いではあっても、わたしの素の部分が、それを恥じさせるのだ。

衣や宝石、または猫…、それらを甘えに乗じて王へねだるのはごく容易い。おそらくわたしは、ハレムで一番その種の事が上手い。怖じずに媚びずに目的を達せられる。

それは、芯からそれらを欲していないから出来ること、叶うことだ。だから簡単に口に上せられる。

けれど……、王の心は、王のものだ。気紛れに移ろい、変化し色褪せるのは、王の自由だ。誰も侵せない。

そんなものを言葉で容易くねだることが、どうしてか、場違いに面映く思われた。露わな肢体を投げ出し、王の好むまま乱れている女なのに。

ただ、わたしは証がほしいだけ……。

「お前はわたしの女だ…」

それ以上でも、それ以下でもない……。

後に続きそうな言葉が、頭に浮かび、気持ちが瞬時萎え、わたしは王の瞳を避けた。

「お前でなければ、殺していた」

「え」

「これでは答えにならないか?」

思わず、逸らした瞳を戻し見つめ返す。その先にあるのは、変わらずに鋭い王の黒い瞳だ。唇の端に浮いた、癖の冷たい嗤いは、口づけに消えてしまう。

絡む口づけは深く溶け合い、わたしは瞬きを避け、すっかり瞳を閉じた。まなじりがもう、喜びにぬれていた。

「ほしがるな、わたしから与えてやる」

 

あ。

 

王の心を捕らえた紛れもない事実。

その重さが、わたしの心の奥、魂に近い部分を奮わせるのだ。

「サラ」

つながる言葉は、命だ。それは、返事を要さない。

「わたしから逃げるな」

声は、抉るように心の奥に届き、今、わたしをみずみずしく満たしていく。同時に、全身を強く、あのいばらの結束で縛られるかのような、感覚的な肌触りを覚える。そのどこか甘い痛みさえ、感ぜられるほど。

 

これが、王の愛……。

 

どれほど願ったか。どれほど焦がれてきたか……。

あふれるのは涙ばかりではない。追憶だ。これまでの、わたしの心の軌跡だ。

迷い、憤り、絶望、甘え、逃げ……あきらめもあった。様々なそれらが、渦になり胸を一時満たした。

本当は、堪らなく辛かったはず。心の奥で、わたしは渇き飢えていた。あの砂漠の旅でのように、からからに渇き、途方もない暗い前途に前を見ることを躊躇っていた……。

「カイサル」

声が聞きたくて、わたしを呼ぶその声が聞きたくて、触れ合う口づけの狭間に、彼の名を呼ぶのだ。わたしだけに許された、その名を。

「カイサル…」

 

わたしは傍らの王の胸へ頬を当てて眠っていた。眠りを妨げたのは、王の声だ。

「サラ」

幾度か続いただろうその声に、わたしはうっすら瞳を開け、すぐに覚醒した。目覚めたものの度重なる求めに応じた身体は、やはり気だるい。それでも髪をかき上げ、やや身を起こし、王の声に耳を傾けた。

空が白み始めている。天蓋から降りた衣を通し、朝の始まりが、寝台にも入り込んできている。

王は半身をすっかり起こし、腰へ衣を巻きつけ、すっきりとした身ごなしで寝台を降りた。そのしなやかな背が、やんわりと王の彼の影を宿している。

「下がれ」

その声は言う。「お前はハレムに置かない。離宮へ戻れ」と。いつか聞いたものに似た、嫌な響きをはらんだ声だ。

すぐに身を起こした。肌を覆うことも忘れ素肌のまま、凍ったように王の次の言葉を待った。けれど王の言葉は続かず、そのまま背を向け、続きの間へ向かっていく。

わたしは寝台から降り、急ぎその背を追った。そのとき、足裏にちくんと鋭い痛みが走った。昨夜の硝子片が散っていたのだろう。

「あ」

声に振り返った王が、傷の片足をやや浮かすわたしに気づいた。「切ったのか?」と、問う。頷きながらも、そんなことはどうでもいいと思った。

彼は無言で屈み、小指の腹を切ったのを検めた。大した傷ではないことを見ると、彼は立ち上がり背を向ける。

その珍かな優しさが、わたしを彼の背へ縋らせた。放たれた言葉の衝撃に、膝に力が入らない。しばらくすれば折れ、ありふれた愁嘆場の女のように、王の腰に縋る形になった。

「わたしを、棄てるのですか?」

歩を留めた王は、振り返らず、「そうではない」と、答えた。

「お前をハレムから出してやるのだ。嫌なのであろう? 異国の男と逃げ出すほどに」

最後に、嗤いが混じる。

ハレムの女でなければ、わたしは一体何だというのだろう。何も知らない、ハレムの外の世界を知らない、何も持たないわたし。何もかも奪い、そんな女にしたのは、誰でもない王ではないか。

「そう距離もない。行ってや…」

あっさり事にけりをつけようとする王のやりようが堪らず、わたしは王の言葉を遮った。再び彼に、自分の心と共にわたしを放り出す、あの狡い逃げを許したくないのだ。夕べからの熱い抱擁に、愛の証左をつかんだ喜びに、普段の律する心もたわんでいた。

そこから、ふき出すように、涙と共にあふれ出した声だった。

 

「離れ離れでいるのなら、死んだ方がまし」

 

腰に回った腕を解き、王が振り返った。わたしの涙にぬれる顔をしげしげと見下ろし、薄く笑った。

「女の泣き顔は、やはり見れたものではないな」

愚かな猫でも捉まえるように、王はわたしの脇に腕を通し、抱き起こした。わたしは涙を隠すため、顔をそむけた。王が女の涙を好まないのは、ハレムの誰でもが知る重要事だ。

背けた顔を、王の指が顎を捉えて戻し、自分の前に据えた。

「お前を、ただのハレムの女にしておきたくないのだ。離宮でわたしを待つ暮らしを与える」

「え」

「わたしが命じるのだ。お前はハレムの女ではない、今から…」

呆然とするわたしを前に、王はそこで言葉を区切った。そして、やや強くまだ涙のにじむ頬を打った。

「死ぬのは許さない。王の命だ。逆らうな」

わたしは瞳を王の喉元へ落とした。打たれた熱い頬に、何気なく手のひらを持っていく。大して痛くもないのに。ただ打たれたことにはっとしただけだ。

落とした瞳が、驚きに泳いだ。

嬉しさも、喜びも、また落胆も悲しみも、わたしの中で、惚けたように感情だけが何も浮かばないのだ。

そこへ、不意に王の口づけが額に降りた。軽く触れ、ささやきを残す。

「これ以上、わたしに何をさせたい?」

 

 

王の冷めた声が、甘やかに額に降るのだ。「逃げさえしなければいい」と。

「好きに過ごせばいい。リーの与えられなかった自由とやらを、わたしがお前に与えてやる」




             

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