ふわり、色鉛筆
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いつもより早めに起き出した。ちょうど午前六時。
手早く身じたくを済ませ、洗濯機をしかける。家の目立つ部分だけを片付け、軽く掃除しておく。残りは後だ。
濃い目のコーヒーを淹れ、ちびちびすすりながら夕べ描き終えた、漫画のネームを確認する。全部で35ページある。ごくラフな下書きだから、もちろんこれから清書をして仕上げる作業が待っている。
ぱらぱらとページを繰り、不備やおかしな点がないか確認する。セリフが足りない個所が二三、詰まった感のあるページも目についた…。他、大きな粗は、今の段階で、見当たらない気がした。
ここまでに一週間。我ながら、よくも描けたと思う。元来が、そう筆の早い方ではないのだから、今回は、驚異的な速さと言える。
「千晶は、早かったよな」
今はプロとなった旧友の、怒涛ともいえたネーム作りのスピードを思い出した。とにかく、早いのだ。ネタなどを思いつき、「こんな話描いてみたいな」など口にしていたと思ったら、翌日には、なんとラフが出来上がっているのだ。
そこから、推敲やペン入れがあるから、それなりの時間がかかるが、あの筆の速さは天性のものだろう。
今更に、そのセンスと才能に恐れをなす。売れっ子なのも当然といえた。
「恐ろしい子」
つぶやいて、ちょっと笑った。
小鳥の声に混じり、人声が届く。都市へのベッドタウンであるこの界隈は、通勤にまたは通学に、既に活動の時間だ。
時計を見て、まだ若干余裕があるが、腰を上げた。今、原稿でできることはない。
もう一杯コーヒーを飲みながら、総司の幼稚園に持っていくお弁当を作る。手まめで器用なママのように、おしゃれで凝ったものはできない。毎度、ハムや海苔を型で抜いたり、タコやカニにウインナーを飾る程度が関の山だが、お弁当箱がカラフルで可愛いから、それなりに映えるのがありがたい。
のぞかれて、総司が恥ずかしい中身ではないはず。
お弁当を仕上げたら、次は朝食だ。小さめのホットケーキを焼いて、それに夕べのポテトサラダを添えた。
「総司もパパも起きて」
二人を起こして回れば、七時半だ。
総司を幼稚園のお迎えのバスに乗せた後、洗濯物を干す。夫は、寝ぼけた様子でソファに寝っころがり、新聞を読んでいた。
そこで、気づく。今朝は生ごみの日だった。収集が八時までだから、どんなに慌てても、もう遅い。
「ああ…」
気候がいいから、臭いも気になる。溜めずに出したいのに…。口の中で舌打ちするが、どうしようもなく、庭のポリ容器に次まで納めておくよりない。
ま、いっか。
パートに出るまでのわずかな時間に、簡単に(適当に)リビングにだけ掃除機をかけた。昨日、総司がスナック菓子をぽろぽろこぼしていたのだ。
夫がソファから面倒そうに起き上がる。
「これ見よがしに、朝っぱらから掃除機なんかかけなくても…。嫌味かよ」
「そう見える?」
「…ああ、もうテレビが聞こえない。ニュースやってたのに、おい」
「新聞見てるじゃない、ニュースなら」
「新聞は古いんだよ」
普段、そんなにニュース好きでもないくせに。
出かける際、夫に回覧板を隣りへ回してくれるよう頼んだ。
「何で? お前が今、安田さんちにちょっと寄ればいいだけだろ?」
案の定、夫からは不満の声だ。こんな些細なことも、気持ちよく引き受けてくれないことに落胆するが、文句を引っ込めた。夫の言い分が、もっともなのもわかる。
じき仕事に出かける、隣りの奥さんに会いたくないのだ。
「玄関先に置いてくれれば、それでいいから」
「…わかったよ」
「お願い」
家を出ると、わたしは隣りとは反対に向け、自転車のペダルをこぐ。
安田さんの奥さんは、某保険会社のセールスレディーをしている。我が家がここに越し、間もなく、近所付き合いの延長で、彼女が勧める保険に加入した。それまでろくな保険に入っていなかったから、タイミングも良かった。
でも夫がリストラ。いい保険だったのだが、毎月の掛け金を払いきれず、解約してしまった。以来、どうにも態度に棘を感じるのだ。大したものではない。挨拶を返してくれない、無視される…、とまるで、いい大人が、中学生みたいなもの。
傷つくほど気にもしていないが、できたら会うのは避けたかった。
住宅街を抜ければ、パート先までおよそ半分。何も考えずに、ただ前を見て、風を受けていれば、そのうち着いてしまうほどの距離だ。気分はどうあれ、いつも無心で通ってきた。
通りを注意しながらも、ここのところ、知らず頭は、描きかけの漫画へ意識が向く。
計画を上回って、調子よくネームが進んだことが、気持ちよかった。既に、参加する予定のイベントの申し込みは済ませてある。
睡眠時間をやや削り、できるだけ効率を考えて家事をこなす。時間を節約して、漫画を描く時間を捻出してきた。その甲斐あって、思いのほか固まった時間が持て、割りとゆったり筆を進めることができた。
夫が、わたしが夜更にけちまちましている作業の「絵本を作って、フリーマーケットに出品してみようかと思って」(嘘ではないが、事実でもない)という言い訳を、鵜呑みに、理解を示してくれるのもありがたかった(「へえ、すごいな。出来たら見せてくれよ」との言葉をもらったが、見せられる訳がない。)。
ただ…、
商店街にさしかかった。そこからもう、程ない。スーパーの従業員用の駐輪所に自転車を停める。そこでぽつぽつと雨が降ってきた。ここには屋根がないから、急ぎ足で店内に逃げ込む。
ただ、どんなに時間を工面しても、仕上がったラフを清書する、ペン入れの余裕が、絶対に足りないのだ。
朝、苦いコーヒーを飲みながら。ここまでのペダルをこぐ間…。実は、考えは固まっていた。
鉛筆画で原稿を起こしてみるしかない。
 
鉛筆画の同人誌は昔、作った経験がある。
粗い誌面の独特な風合いが、「好き」と言ってくれる読者の人もいた。あの頃は、それは遊び心で作ったものだった。でも今回は、明らかに時間がないための手抜きになる。
それでも原稿は丁寧に仕上げたい。
セリフは読みやすく、ワープロで打っておく。線画はぶれずにしっかりと。せめて表紙、扉絵は着色したい。水彩っぽくやってみようか…。
過去の記憶をくるくると手繰り寄せながら、あれこれ手順を練っておく。
懐かしく、細々したそれらに、今からわたしは、ひっそりわくわくしているのだ。
制服に着替えてすぐ、店長の机に来月の勤務のシフト表を提出に社員室に向かった。壁のホワイトボードに、「P高科さん、本社見学の都合。(弁当の種類 印・洋・中どれか?)至急要!! 社長室より」と店長の字で書かれているのが目に付いた。
本気だったのか、社長。
と驚きに、ちょっと愕然となる。
肩越しにひょいっと、山辺さんが(パート)わたしの用紙をのぞき込んだ。
「あ、お早うございます」
「あら、高科さん、第二日曜、休み入れたの?」
「何、勝手なことしてんのよ」、とも取れそうな嫌な響きの声だ。
普段なら、わたしは日曜日もパート仕事に入ることも多かった。他のパートたちが家族と合わせて休日をほしがるため、人手が足りない分の埋め合わせは、買って出てきた。夫が毎日家にいるから、わたしの留守を総司に我慢してもらえば、何とかなったから。
来月の第二日曜は同人誌イベントの日だった。この日ばかりは、どうにでも休みがほしい。
「この日だけ、用事があって…」
「困るじゃない。みんな、日曜はあんたが出るもんだって、期待してんのに。それぞれ予定もあるんだから、駄目よ。書き直してよ」
ほら、とシフト表を顎で指し、机のペンをわたしに突きつけてくる。
お願いでも、依頼でもない。この人に、一体どんな権限があるというのか。わたしと同じ、単なるここのパートでしかないのに。
身勝手に、呆れて、ちょっと二の句が継げないでいた。それでわたしが、怖じ気ているとでもとったのか、押しの一手だ。
「早くしてよ、社員の子に変に見えるでしょ?」
目の端に、ちょうど出勤してきた小林君の姿が映った。「やべ、いじめの現場に居合わせた」といった、気まずい表情をしている。
わたしは、山辺さんが突きつけてきたペンを、彼女の顔の前で払いのけた。
「ここ数か月、ずっと日曜に休んだことがないの。たまの一回くらい、優先させてもらいます」
こちらの反撃が思いがけなかったのか、やや口ごもるが、それでもしつこい。
「…何よ、リストラの旦那が家にいて、子供を見てくれるんでしょ? わたしたちに見栄張ることなんかないじゃない、馬鹿ね」
「それ以上、シフトの変更を強要するのなら、今度本社に行ったとき、社長に直談判しますから。いじめのある働きにくい環境だって」
そこでパールピンクに塗った山辺さんの唇が、ひきつるように歪んだ。社員も弱腰で、好き放題できる慣れたパート先を失いたくはないらしい。
絶句したままの彼女を放って、社員室を出る。出しなに、わたしが払いのけて落ちたペンを拾っておいた。
ちょっとすっとした。
 
そうだ。帰りに、B4の鉛筆を買おう。
 
 
その日は快晴で、重いショッピングバックを持つ手がじわりと汗ばんだ。
会場となった市の○○センターは、イベントの参加者であふれていた。ざっと見、参加サークルも、百は超えていそうだ。
大ホールを東西に分け、オリジナルと二次創作系に分けて配置がされている。受付の後で、配置図に従って、定められたスペースに向かう。設営準備でごった返す会場は、むっとする暑さだ。
「『え‐38』…、ここか」
指定スペースの机に荷物を置き、息をつく。パーカーを脱いだ。二脚あるスチール椅子の一つに掛け、ペットボトルの水を飲んだ。
左隣りのスペースは空いたままだった。右隣りのサークルに「よろしく」と会釈をしておく。二人の女の子は、成人はしているようだが、どちらも学生風だ。
礼儀正しく挨拶を返してもらい、朗らかに問われた。
「お一人の参加ですか?」
「ええ…、久しぶりで…その…」
などと、我知らず赤面し、口ごもってしまう。ゴウツクバリのおばさまには強気でいられるのに…。
こういったお嬢さんと言いたいような若い子の前では、今更にこの場にいる自分に照れが出る。彼女らが、仮に二十歳だとして…、「世が世なら親子だよ」などと、つばの広い帽子の陰で、自虐に苦笑する。
一人の参加で、売る本もわずか一種。開場まで時間がないが、慌てることはない。ショッピングバックのコピー本を平積みに並べ、値札を置くだけ。
製本に時間を取られ、宣伝用のポスターすら用意できなかった。代わりにもならないが、B6サイズの名刺代わりのチラシだけは作ってきたから、それを、コピー本の扉にちまちまと挟む作業を始める。それもほどなく済んでしまう。
開場のアナウンスが聞こえた。それを潮に、フロアを徐々に喧騒が広がり、満ちていく。途端に人であふれ出す辺りの光景に、どきんと胸が鳴った。
期待がないと言えば嘘になる。
あの過去が財産だとして、その幾ばくかを引き出しあてにして、わたしはここにいる。頬をほんのり上気させ、心をときめかせているのだ。
 
でも、あの頃とは違う。時代も、自分も。
 
それをわたしは、よくわかっているはず。総司のおもちゃを買うお金がほしいと思ったのが動機だ。それが思いがけず、忘れていた漫画を描く楽しみ、興味や情熱を目覚めさせた…。
まず描きたくて、漫画に向き合ったのではなく、お金を得る手段にしようとしたのだ。昔とは違う。
ねえ、ちゃんとわきまえているから。
長く吐息し、気持ちを落ち着かせる。
気負わず、のんきにやろう。何も、彼らが全部うちを見てくれるはずがないのだから…。
そこで、ショッピングバックに忘れていた、例の物を取り出し、机にちょこんと置いた。ココットに少しだけ植え替えたビオラだ。ポスターもない、我が極小サークル『スミレ』の看板代わり。
昔、相棒の千晶とやっていた『ガーベラ』のときも、小さなグラスにガーベラを二本挿していた。
楽しかったあの頃をやはり懐かしみ、そして、今日のゲン担ぎに…。
 
ほら、過去の輝きをまた引き出している。
 
飲みかけのペットボトルの水を、ちょろりとビオラにかけた。そこで、スペース前に立つ人影を感じた。
顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
自然に声が出た。
とくん、と鼓動が跳ねる。
 
あの頃と本当に違うのだろうか。





          


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