小萩の恋文

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変に冷える宵だった。
洟をすすったあたしへ、ほんの側で小萩がひそひそと問う。
「あのオクテの融さまのお相手って、どんな方でしょうね。瑠璃さま」
好奇心を押さえられないらしい。
ふん、どんな女だろうと、あたしは気に食わないわ。気持ちがざわめき、ついつい返す声もとがる。
夜更け、邸を出る弟の融を追い、つけてきた。
事の起こりは、女のもとへ通うらしいあの子が、刃傷の沙汰に遭ったこと。ほんと大したことない小っさい傷よ。舐めときゃ治るようなね。
間が悪いことに、融の事件はちょうどあたしと高彬の初夜の真っ最中のことだった。お役目大事のあの人は、初夜の続行をあっさりあきらめ、急ぎ参内してしまった。
そんな私的な事件を、どこをどうお感じになられたのか、時の東宮さまがいたくお震え遊ばされちゃった。
そのまま高彬は、東宮さまの梨壺の警固を命ぜられてしまったのだ。
足止めもいい処遇で、当然、当分初夜はお預けの形となった。
肝心の融は、高彬やあたしの追及にも屈せず、「苦しい恋は、人をエゴイストにさせるんだ」などとぶって、頑なに女の素性を隠すから、頭にくる。
でも、日を置いて冷静になれば、あたしにとっても時間が出来たのはありがたいことだ。
このままなし崩しに高彬との結婚へなだれ込むのは、気が引けるというか、気が乗らない、というか……。
いけない、と思うのよ。女の勘が。
とにかく、気になって、目につくのよ。
小萩の存在が、ね。
今宵、張っていた融がのこのこ邸を出るのをつけてきたのは、もちろん、姉としてあいつの恋への心配もあるけれど、雰囲気を変え小萩と話したかった、ということも大きいのだ。
袿を重ねた腕を抱き、「ねえ」と口火を切ったとき、
「瑠璃さま、車は二条のあたりに向かっているようですわ」
簾を透かして外を見ていた小萩が、緊張した面持ちでつぶやくから、その意外な言葉に、あたしも声が引っ込んだ。
「へ?」
二条界隈といえば、名家権門の邸が立ち並ぶのだ。
どっかの怪しい下賎な女が融の相手とばかり思い込んでいたあたしは、すっかり驚いてしまう。
「二条堀川と申せば、よもや……」
続く小萩の実況に、あたしは絶句した。
二条堀川邸といえば、先の帝の第八皇女にして麗人の誉れ高い、藤宮と愛称される御方のお住まいだ!
融ごときの恋の相手には、あまりにも桁違い格違い。
とんでもない成り行き!
外をうかがいつつ、小萩と驚愕に身を硬くしていると、簾の影から融の姿が見えるじゃない。
あたしは小萩が止めるのも構わず、車を飛び降りた。
 
 
どうして、こんなところに潜むことになったのか。
じめじめした縁の下の気持ちの悪さに震えながら、あたしは目の前に見える侍どもの足が消えるのを待った。
別に悪いことしてるんじゃ、ないんだけどなあ。つい、行きがかり上、こんなとこに隠れる羽目になっただけだ。
あれから車を降り、つかまえた融は、ありがたい姉の心配も知らず、のんきにはにかみながら、藤宮さまには懸想しているだけだと言い切った。
「お邸の外をうかがうだけで、麗しいあの御方の気配なりと感じられるような気がするんだ」
馬鹿。
馬鹿丸出し。
それじゃあ、怪しい徘徊男だってば。
鼻で笑ってあきれたものの、所詮わがぼんくらの弟、出来ることはたかが知れていたのだ。
そうよねえ、確かにあの高嶺の花の藤宮さまが、この融ごとき若輩公達を恋人になどするはずがない。
「姉さんは、帰るからね。大概にしておきなさいよ」
安心したのも束の間、今度は融が、いきなり現れたすらりとした影に斬られたのだ。実際はそう見えただけで、当て身を食らったに過ぎない。
影は、あ然とするあたしの前から、見事なほどさっさと消えた。融は小萩に任せ、あたしは単身、その影を追ってきたのだけれど……。
五条、西桐院あたり。
「この邸じゃなかったのかしら」
夜目にも整った大貴族の、敢えて華美を押さえて造らせた、といった趣の邸宅だ。車宿りには、影の乗った牛車がなかった。
間違いだろうか、とそろりと身動きしたとき、「入道さま」と侍の一人の声が聞こえた。
「たぶん、近くの女のもとに隠れて通う者でしょう。この邸を探ろうとする者が、あんなところに堂々と車を止めておくはずがない」
あ、うちの一郎の牛車のことだ。
でも、「この邸を探ろうとする」とか言ったわよね。ここって、探られるような場所なの?
洩れ聞こえる声から、この邸の主が、「入道さま」であり、その入道さまが侍を使い、邸を守らせているのは、夜盗が現れたためだという。
ふうん。
「左衛門佐が梨壺の警固をなどと〜」と、高彬の名が出たのだから、その夜盗は融が斬られた、あれだ。
「そのうち目にもの見せてくれようぞ。われらの正良親王がめでたく東宮におなり遊ばされた時こそ……!」
入道ジジイは、興奮したのか、どんと床に何かを打ちつけた。「落ち着かれて、入道さま」と、若いとりなす声が聞こえる。
「見事東宮ご廃位の折には、われらの正良親王が!」
なんか、ヘンよ。
まだ五つか六つの正良親王さまが、どうして東宮におなり遊ばされちゃうの? お年の離れた今の兄東宮がおられるのに。
ご廃位って、何?
あれ。
え、何か、気持ちが悪い。おかしい、ここ。
あたしの危険を察知する本能が、「半端なくヤバイ」と訴えている。
危険だわ。長居は無用。
逃した初夜のだの、高彬と小萩の秘めた恋の雰囲気がどうの、それが面白くなくてむしゃくしゃがどうの、といった普段の悩みも、このとき霧散した。
早く逃げなくちゃ。
そろりそろりと進む。数歩も行かず、目の前にきらりと光る刃が目に入った。
ひぃっ。
呼吸も凍る。
「静かに」
あたしと同じく四つん這いになり、片手に小太刀を握る男が、こちらへ押し殺した声を出した。
それが、鷹男との出会いだった。
 
 
 
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