小萩の恋文
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あたしは縁の下で恐怖のあまり、気を失ってしまった。
目が覚め、ほどなく自分のいる調度の整った美々しい部屋が、あろうことか二条堀川邸であることを知った。
続いて、主である藤宮さま自らがお出ましになり、あたしがここに運ばれるに至った顛末を聞かされた。
融じゃなくたって、目が吸いつくような麗しい御方だ。親しみやすいお優しいご気性も知れる。
あたしもつい嬉しくなって、余計なことまで、ぺらぺらとしゃべっちゃったみたい。
藤宮さまは顔色を変えられ、
「では、瑠璃さま、あのお邸でのお話、みんな聞かれたのですか?」
「え、あ、まあ…、その、みんなって…」
口ごもっていると、藤宮さまが人払いをし、
「鷹男、聞いているのでしょう。おいでなさい」
そのお声に、すっと襖が開いた。
長身ですっきりとした身のこなし、整った目鼻立ち……、はっきりいって、すごい美男子が現れた。
藤宮さまは、どこか傲然とした様子の雑色というこの男を、「鷹男」と紹介した。さる高貴な御方よりお預かりの、機密特別捜査官といった感じの立場の者らしい。
「何も説明せずにこのまま帰しては、あなたのことだ、あれこれ調べ回りますね」
「当り前よ。あたし、好奇心は人一倍だもん」
「では、一通りを…」
そこから鷹男が、あたしへ政治的な陰謀の話をし出したから、驚くじゃない。
あの入道邸が、盗み聞きした通り、現東宮を廃そうと企む輩の根城であるという。その首謀者は、もちろんあの入道ジジイだ。
ときどき「わかるわ」と相槌を打つと、なぜだか鷹男が、ちょっとだけ嬉しそうに微笑むのだ。
「あなたはなかなか頭がいいですな」
スケールの大き過ぎる、突拍子もない話だった。
それに飲まれそうになりながらも、質問もし、あたしは何とか頭の中を整理し、鷹男の話を理解した。
「恐ろしいことを考える輩があったものねえ。はあ…」
「事が、機密を要する重要事であることが、おわかりいただけましたね」
説明の後で鷹男は、あたしへ凄味を効かせ、「決して他言は無用」と念を押した。
「あなたの許婚の左衛門佐殿にもです」
「高彬にも?」
「ええ」
「どうしようかしら」
ぎろりと睨む。東宮から密命を拝するだけあって、この人、なかなかどうして、迫力がある。
ふん、でもそんな顔したって怖くないから。
あたしは、ついっとあちらを向いて、鷹男の鋭い視線をかわした。
「姫…」
焦れた様子の鷹男の傍らで、藤宮さまが彼の衣へお手を軽く置かれた。「鷹男」と、そっと苛立ちをたしなめる所作が親しげで、お優しく、美しい。
あたしはそれを目の端っこで認め、融の完璧な失恋を知った。
あちゃ〜、無念。
この二人、デキテル。
高貴な藤宮さまと、雑色っぽっちの鷹男じゃ身分の差があんまりにひどいけれど。
この陰謀の任務を解決の暁には、彼は立身が約束されているのかもしれないし。
藤宮さまの、彼を見る目には、いたわりもしっかり愛情もうかがえるもの。
鷹男の方はやや年が下なのか、少年のように唇を噛み、「ですが、宮」などと憤懣を隠しもせず、ぶつけている。
「瑠璃さまは、か弱い姫の身で、いきなりの事の大事に、動揺しておられるのですよ。しばらく我慢なさいませ」
「面白がって、こちらの足元を見ているようにしか受け取れませんが…」
「これ、お言葉が過ぎましてよ」
藤宮さまが握られた手を、何気なく彼は振る。
「ですが…」
「あなたがそう怖いお顔をなさるから、姫が怯えられているのですわ」
「怖い顔だなんて、まったく」
「ほら、その目」
「宮、あなたときたら…」
デキテル。
間違いなく。
年上のしっとりと美しい藤宮さまに、わずかな甘えをにじませて抗うやや年若の鷹男の様子は、目に美しくある。
あるのだけれど……。
けれど、ちくんとあたしの気持ちを刺激するのだ。
正直、雑色の鷹男と藤宮さまの身分違いの恋なんて、対岸の火事、他家の夫婦喧嘩。どうでもいい。
けれど、そのいちゃつきっぷりは、何となくあたしの胸に迫るものがあって、ぎゅうっと目をつむった。
高彬と小萩の姿が、目の前の二人に重なるように感じられ、きゅんと胸の奥が痛いのだ。
そりゃ、あの二人は、この二人のような美しさも洗練された様子もないわ。
けれども、高彬と小萩の二人にはまた別の、慕わしさが感じられる。まるで農村の男女のような素朴なそれは、むき出しなだけ、リアルなのよ。
 
『お文はこれを最後に。
小萩のことは、影とも風とも。
お見捨てください。
身をわきまえておりますもの。
これよりは、瑠璃さまをお大事に』
 
いつかの雨の夕。融のもとを訪れた高彬を、小萩が車宿りまで案内したことがあった。
あたしは、彼から贈られた、遠国の荘園の産だという絹の礼を言わなくっちゃ、と出来損ないの歌を手に、追っかけていった。渡殿を過ぎ、先を行く二人を驚かせようと、足音を忍ばせて。
十歩も距離もないとき、その声は聞こえた。
不思議と、小萩の言葉は、文にしたためられたように、しっかりとあたしの頭の中に美しく残るのだ。
高彬のそれへの返しは、確か、
『わかっている。わかっているよ、小萩、君以上にね』。
やっぱりそれは、鷹男が藤宮さまにするような、ちょっと甘えた少年っぽいものだったっけ。
あたしは驚きと衝撃に、そのまま馬鹿みたいに固まって、二人が去るのをやり過ごした。手の中の歌を書いた料紙を握りしめながら。
あのときの歌は、今もよく覚えている。語感がいいだけの、深味もない歌だったけれど、自分ではよく詠めたと心がはやり、嬉しかったはず。
 
心ざしあらば見ゆらむ わが宿の
花の盛りの春の宵夢
 
とうさまや周囲がやいのやいの勧める、幼馴染の高彬との結婚を、ようよう受け入れる気持ちができたときの歌だった。
長女である身や両親のことを考えれば、いつまでも初恋の吉野の君に殉じていられる訳でもない。
あたしはこれで、お転婆で性格破綻者のように言われるけれど、決してモラル破綻者なんかじゃないのだ。
大事な人や周りの人のこと、あたしなりに考えている。そのつもり。
高彬は、家柄よし、性格よし、見た目もかわゆくてちょっとよし。
その彼のくれる、下手っくそな恋の歌に頬を緩ませてしまう自分が、あたしは恥ずかしながら、ふふ、と嬉しかった。
でも、あたしの知らないやつの心には、先客があったのだ。
よりによって、小萩。
あたしにだって、大好きで大事な腹心の女房だ。
政略結婚、条件大事の結婚が主流の現代の貴族社会で、高彬があたしを選んだことへ、怒りはない。
あいつにだって事情も理由もあるんだろうし。あたしだって、ベストじゃなく、ベターな高彬を選んだ訳だし。
文句は言えた筋じゃない。
却って、初恋の君吉野の君への思いが募ったりなんかした。一番はあの人。いつか迎えに来てくれると言った、あの人だ、って。
死んじゃってるけどね。
まあ、高彬のベターで賢明な選択はいいとして。
でもさあ、そうなると小萩の気持ちはどうなるのよ。
主家の姫の婿君に秘めた恋するあの子の気持ちは、どうなるの? 両思いなのにさ。
目の前のこの鷹男と藤宮さまみたいな、身分差や逆境を乗り越えるような逞しさや無謀さを、あの子に求めるのはどだい無理よ。
小萩の親代わりの叔母や叔父は、わがとうさまの権勢でもって人並みの暮らしを営めている、そんな背景がある。
そんな恩の縛りを持つ小萩が、主家の姫の婿君への恋を、自分に許すわけがない。
あきらめるしかない。
高彬も。
小萩も。
 
あたしがいる限り。
 
だから、今にも接吻しそうなほど顔を突き合わせ、何やらささやき合っている鷹男と藤宮さまを見て、妬けるんだ。
くそ、何の障害もない身分差って、ウザイ。お似合いなのに、何か、腹が立つ。関係ないのに。
それは、あたしもやっぱり高彬が好きだから、一番じゃないけど。背の君にしてもいいかな、ってくらい、好きだからだ。
でもさ、通い婚が通例の現代、実際あいつとあたしが流れのまま結婚して、新婚のあたしたちのそばに小萩がいるのって、どうよ。
逆に遠ざけたり、異動させるって、どうよ。
あたし耐えられる?
平気でうきうきと新婚気分に浸れる?
 
そんなの嫌だ。
 
「瑠璃さま…?」
「姫?」
あたしの沈痛な面持ちに気づいたらしい、藤宮さまも鷹男も、怪訝そうにこちらをうかがう。
思いがけず、あたしは涙ぐんでいたらしい。ぐすんと洟をすする。
涙の気配に、藤宮さまより鷹男が慌てた。「申し訳ない」と妙にそわそわと詫びるのがおかしい。
この人、これで案外な紳士らしい。雑色っぽっちで、ヒトの物だけど。
あふれた涙をひとしきり袖で始末し、あたしはしゅんと洟をすすりながら、藤宮さまに聞いた。
さっき天啓のように思いついた、あの方法をとるには、藤宮さまのお力が必要になる。
「藤宮さまは、東宮の叔母宮に当たられる御方ですわよね」
「ええ、それが…?」
あたしの言葉が意外なのか、頷きつつも、鷹男の顔を見たりして不審なご様子だ。
「お親しい間柄でいらっしゃいます?」
「まあ、それは…、折々御所には参内もいたします…」
と、また鷹男をうかがう。雲の上の東宮とはいえ、殿方の話にはいちいち鷹男への許可を得るかのようで、微笑ましく見えなくもない。
「では、瑠璃のお願いは、藤宮さまにお伝えすれば、東宮のお耳に入るのですね」
「ええ、でも、瑠璃さまは、何を東宮へ?」
あたしは、畏れながらその問いに返事をしなかった。代わりに隣りの鷹男へ向き、「ねえ」と、言葉を発した。
「あんたさっき、敵地に潜入する密偵が必要だって言ってたわよね。絶対にほしいって」
「はあ、それは…」
「あたしがやる。やらせて」
「はあ?!」
「瑠璃さま、それは」と、藤宮さまの制止も入った。あたしはそれに首を振る。「平気です」と。
「さっきあんた、あたしを頭がいいといったでしょう? そんな頭のいい女の密偵、絶対にほしいはずよ。図星でしょう?」
「…それは認めますが、子供の鬼ごっことは違うのですよ。姫、おわかりですか?」
「わかってるわよ」
つんと唇を尖らせるあたしへ、鷹男が短いため息をもらした。その彼へおっかぶせ、
「いいもん、手伝わせてくれないのなら、一人で勝手に調べて回るから。それくらいは自由よね」
あたしがこう言えば、鷹男が弱るのは、読めている。百も承知。
「どうしてそう駄々をこねられるのですか?」
弱ったように小さく舌打ちをした彼の肩に、ちょんと藤宮さまが手を置かれた。「鷹男」と制するお声は、やはり慕わしくお優しい。
ラブラブカップルに、ちくんと胸が痛むけれど、それを脇に置き、べえ、と鷹男へ舌を出してやる。
権門の姫に舌打ちをするとは何だ。
雑色っぽっちの分際で。
藤宮さまはあたしへ、
「瑠璃さまは、先ほどわたくしに、東宮へのお頼み事がおありのようなことをおっしゃいましたが、それは?」
あたしは、「べえっ」と鷹男へ出したままの舌を引っ込め、藤宮さまへ直り、澄ました様子を取り繕った。
実際この御方にはお口添え願う訳だし、きちんとしたお姫さまっぽさをアピールしておかなくっちゃ。もう遅いかしら?
「瑠璃は、東宮の女御になりたいんですわ」
なぜか、そばで激しく鷹男が咳き込んだ。
 
 
 
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