小萩の恋
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五条邸の庭の桜が、はらはら風に散っていく。
「春雨の散るは涙か桜花……」
大伴家持の名歌がふっと口をついて出てしまったけれど、何も教養のある女房を気取っているわけじゃない。
しみじみそんな心境なのよ。
梅の花が咲き初める頃に高彬から、求愛のお歌をもらった。まんざらでもないくせに、迷った振りをして見せたりしてさ。
気持ちが固まった頃には、とんとん結婚話が進んでしまっていた。
小萩との仲を知ったのは、そんな時だったなあ。
そして、紆余あって今、女スパイとして五条邸に潜入しているなんて。
「まあ、風流だこと、三条さん」
不意に、ここでの偽名を呼ばれ振り返れば、少納言という先輩女房が立っていた。
彼女、婆さん女房の多い中、若いあたしが来たことがすごく嬉しいらしい。何かっちゃ、親しげに話しかけてくる。
普段なら相手にもなってあげたいところだけれど、何しろあたしは女スパイ。身辺には気をつけなくっちゃね。
その少納言が、今宵宴があるのだと告げた。
「古参の丹後さんが、宴の準備しろって、呼んでるの。行きましょ」
「…ええ」
ぼんやり返事しながら、胸がどきんと鳴った。
潜入して十日。
これまで、入道はのんきに読経三昧だし、来客もない。何の動きもない日々に倦んでいたところだ。
宴は、夜、しかも亥の刻を過ぎてから始まった。
宴といってもお客はたったの二人、左馬頭という、従五位ってところの男と、もう一人は観如っていう坊さんだ。
あたしは、丹後に頼んで宴席の受け持ちにしてもらったから、お酌をしながら三人の話は聞き放題だった。
少納言は酔客が苦手らしく、あたしに任せっ放しで、台所に下がっちゃってるので、万事都合がいい。
と、僧侶が話しかけてくる。
「三条といったな、花の盛りといったところか」
「はい、十七です」
「ふーむ、しかし、花の盛りとて、いつかは散るもの、そう心得られよ」
「はあ…」
「はかなきものよ。移ろいは、世の常なればこそ」
いきなり仏法なんて説き始めるから、面食らったけれど、こんな身の上だけに、坊さんの言うことには、へえ一理ある、と感じ入ってしまった。
何か、今のあたしって、散っちゃった気分だもの。移ろって、人生の春の部分は過ぎたわ、きっと。
それどころか何の因果か、こんなところに潜入したりしてさ。そりゃ、邸で小萩の顔を見て、鬱々イライラしているよりは、よほどマシだろうけど。
「そうですね…、人生って、何があるかわかんないものですわ」
思うさま、そんなことを返したら、何が受けたのか、三人とも喜んじゃって、あたしに変な連歌状を見せてくれた。
「ほら三条、眼福じゃぞ、見よ」
「は、はあ…」
とうさまたちも、酔った勢いで風流ぶってやってるやつだ。
広げられた巻紙には、春を待つ気持ちをしたためた歌が、十首ほど署名と共に並んでいた。
すべてが、今の苦しみの後には春がやってくるだの、暖かい春が楽しみだの、そんな内容。捻りも何もない、単調なだけの春の歌だ。
墨や紙の具合からそう古いものではない。せいぜい一月ほど前かな。だったら、季節は同じく春ではないの。
春に春が待ち遠しいって歌も変よね。
そこで気づいた。春は、東宮をかけたもの。方角でいえば東は春よ。春宮と書いて「とうぐう」と読ませるくらいだ。
もしやこれは、陰謀に加担したやつらの連判状……?!
これを鷹男に渡せれば、すんごい証拠にならない? なるわ。絶対になるはず。
ああ。鷹男、今夜来てくれないかな。
あたしがここに潜入するための手はずから、わが大納言邸への、瑠璃姫不在の言い訳のあれこれを練ったのは、やつなのだ。
頭一つで、すべてそつなく運んでしまう鷹男の切れ者振りには唸らされたものの、あたしを敵地に送り込んで以来、報告に簡単な文一つしか寄越さないのだから、不安にもなる。
「あら、お酒足りませんね。持って参りますわ」
あたしはそう言って立ち上がり、台所からお酒をじゃんじゃか運び、三人にどんどん飲ませてやった。酔った隙を狙って、灯台でも蹴倒してやるつもりだった。
えいっ。
頃合を見計らい、手近の灯台の脚を爪先で蹴ってやった。芝居っ気たっぷりに叫ぶ。
「あれ〜。灯台が。火が回ります〜。あれ〜、お早くお逃げ遊ばして!!」
 
 
あたしは咳き込みながら、自室に戻った。
小女に盥のお湯を持ってきてもらい、それで煤に汚れた顔を洗う。すっきりしたところで、まんまと盗んだ連歌状を胸から取り出した。
そのとき、声がした。
「何を読んでいるのです、恋文ですか?」
押し殺した凄味のある声にぎょっとして振り返ると、几帳の影から鷹男が現れた。
「鷹男!」
その姿に、安心して肩の力が抜ける。
あんた、今、確実に癒し系だったわ、間違いなく。小火騒ぎに疲れた乙女の心を癒したわよ。
「ああ、よかった〜」
「何です? 親を見つけた迷いの幼子のようですよ」
「馬鹿。それより…」
しばらく前に来て、ここに潜んでいたのだという鷹男に、あたしは事の次第をうきうきと語った。連歌状を見せ、得意になって説明したのよ。
その間じゅう、何だか鷹男は不機嫌で、面白くなさそうにうつむいたりなんかした。
相槌すら打ってくれない。
「証拠にならないの、これじゃあ」
「そんなことはない。確かな証拠になりますが…」
てっきり喜んでくれるとばかり思っていたあたしも、「何よ、それ」とカチンときた。が、そこで、思い至った。
「あっ」
悔しいんだ、鷹男。
あたしにこんな大きな手柄を奪われて、出る幕がなくて、女の部屋の几帳にめそめそ隠れてた、惨めな自分が悔しいのね。
そんな不甲斐ない男じゃ、富士の嶺のように気高い藤宮さまとの恋が叶わない、と自虐的に半ば拗ねているのね。
「右大弁までが…」
それでも余裕を見せたいのか、連歌状に目を落としながら、切なげにため息をついたり、演技などしてる。
ぷっ。
愚かな鷹男。
切れ者の仮面の下に隠した、傷つきやすい普段着の鷹男をうっかり見てしまったようで、若干後味悪いわ。
でも、ちょっとそんなところが可愛かったりもする。あたしって、つくづく慈愛に満ちた女よ。
何だか優しい気持ちになって、連歌状を彼の衣の内側に押し込んでやった。
「とっときなさいよ。あんたが自分で手に入れたことにしておきなさいよ。藤宮さまには、自分が手に入れたって言うのよ」
「はあ?」
「いいから、いいから」
と、衣のその部分をぽんと叩いてやる。
鷹男は、あたしの慈母のような寛大さにか、毒気が抜かれたような顔になった。「小火騒ぎの件ですが」と前置きし、
「どうしてこんな危険なことをなさったのですか? 姫のお話を聞いている間じゅう、心臓がいつ止まるかどきどきしていましたよ。一つ間違えれば、焼け死んだかもしれないというのに…」
そこで鷹男は、あたしの手を取り、睨むように見つめた。
「姫の身に何かあれば、わたしは…」
「え、そんな…」
な、何?! 
にわかに男女を意識させる、このアヤシイ雰囲気。
そんなに見つめないでよ。あんたには畏れ多くも藤宮さまがいるじゃない。
へんに熱のこもった視線で、あたしにまで、こんなコナかけるような…。
そこで、はっと気づいた。
万が一、藤宮さまとの恋に破れた際、大納言家の瑠璃姫に乗り換えようと……。
こいつ、自らの魅力を武器に、将来の保険を。
雑色っぽっちが、恐ろしい野心。
あたしはぺちりと鷹男の手を跳ね除け、「藤宮さまに言いつけるから」とべえっと舌を出してみせた。
その手に乗るもんですか。
「なぜ、宮の名がここに…?」
鷹男は意味がわからないといった顔をしていたが、小さな嘆息を一つ。
「あなたに何かあれば、衛門佐殿に会わす顔がない」
「高彬の事なんか、全っ然気にしなくていいわよ」
素気無く返してやる。
「許婚なのではないのですか? 姫と衛門佐殿は。都でも噂に…」
「あたし、女御になるのだもの。この任務を見事成し遂げて、東宮に「あっぱれな姫よ」と褒めていただくの。藤宮さまにもお口添えをお願いするつもり。そうすれば入内もきっと叶うわ」
「なぜ、東宮の女御に?」
「どっちでもいいんだけどさ。でも、帝は御年を召していらっしゃりすぎるから、どっちか選ぶんなら、若い方がいいかなって」
「どっちでもいい、とは…」なんて、あたしの言ったせりふを繰り返しぶつぶつつぶやいてから、鷹男は呆れた口調でつないだ。
「そういう意味ではなく……。姫、申し上げておきますが…」
鷹男か言うのは、東宮にはご寵愛になる梨壷女御の他、愛妃がいらっしゃることだ。
「知ってるわ。確か梨壷の御方は、高彬のお姉さまだったはず」
その公子女御の他、後宮にはあまたの美姫があふれている、とお話くらいは、深窓のあたしだって聞くわ。
「そのあまたの中の一人になるのですよ。目立たず埋もれ、ときめくことはないかもしれない。姫はそれでよろしいのか?」
目立たず埋もれ、だと?!
ときめくこともない、だと?!
こいつ。
遠回しに、あたしをブサイクだと言ってるの?!
雑色っぽっちの分際で。
藤宮さまを見慣れた目には、あたしなんかカスにしか見えないだろうけど。
あたしは扇子の要でぱちんと鷹男の頬を打ってやった。
「痴れ者」
「痴れも……?」
「だから、あんたは痴れ者だと言うの。聞きなさいよ、最後まで」と、あたしは頬をふくらませ、鷹男に詰め寄った。
あたしは断じて、寵を競いたいがため、入内したいんじゃない。
そこを得体の知れない雑色っぽっちとはいえ、第三者に誤解されては、何だかみっともないというか、瑠璃姫の矜持に関わると思うのよ。
何となくね。
「お目通りすら叶わなくてもいいのよ」
「え?」
入内が叶っても、ご寵愛をいただく女御はほんのわずか。その中に入りたいなんて、ちっとも思わない。
ただ、お偉い女御の身になるのであれば、高彬も、そして小萩もあたしが去るのを納得してくれるだろうから。
どうしてだろう、あたしは秘めた心の内を、この鷹男なんかに話してしまっている。
何となく、この鷹男ならば、あたしの打ち明け話を、そっと胸にしまっておいてくれるような気がした、からかもしれない。
「それで、里下がりをお願いして、吉野の山荘でのんびり暮らすのよ。ふふ。鮎や山菜を採ったり、里娘みたいに気楽にね。ほらご寵愛が薄ければ、療養のため、とでも取り繕えば、きっと簡単にお許しも下りるでしょう?」
東宮には、その女御のお立場を利用させていただくだけで、本当に申し訳ないけれど、とつぶやいた。
「だから、せめてあたし、密偵として東宮のお役立てるよう、頑張るつもりよ」
この任務を買って出たのには、せめてもの罪滅ぼし、みたいな意味合いもある。
どういう意味か、鷹男はちょっと首を振り、額に手をやった。
「どうして、そこまでして身をお退きになる?」
「え?」
「どうであれ、衛門佐の選んだのは、許婚は瑠璃姫、あなたなのですよ」
「う〜ん…」
一番の者同士のため身を退くのは、自明のことなんだけどな、あたしにとって。
それに、あたしは小萩の主だ。
「下の身分の者が同じ何かを耐えるのなら、上の者より辛いわ。きっと惨めよ。そうじゃない? 身分とか、出自とか…、自分じゃ選べない、どうにもならないものを恨んでしまうかも」
「姫…」
「ふふ。それにね、あたしの小萩はね、いい子よ。あたしより、高彬のそばが似合うのよ。悔しいけれど、よく似合うの」
ひどく困った顔をしてしまった鷹男へ、あたしはにっこりと笑ってあげた。
麗質珠の如き大納言家の瑠璃姫は、小萩より恵まれていて、いろんなものをたくさん持っている。
女御になる道もあれば、さらに大好きな吉野で初恋のあの人を偲んで暮らす、夢みたいなことも選べる。
失うものは、高彬だけ。たったそれだけ。
蚊に刺されたような失恋の傷心など、あっと言う間に癒えてしまうから。
だから、何も恨まないでいられるもの。
「誰も恨まないわ」
 
きっとね。
 
目の前の鷹男の姿が、瞳の涙でにじむ。
「本当に?」
すっと、鷹男の指がわたしの頬を伸びた。気づけば、あたしははらはらと涙をこぼしてしまっている。
悲しくなんてないのに。
辛くなんてないのに。
意の染まぬ結婚から逃れ、あまつさえ女御の身分まで手に入れ、憧れの吉野で優雅なスローライフを手に入れられる身だというのに。
鷹男の指が、あたしの頬の涙をぬぐい、ゆっくりと引き寄せた。優しい仕草は、何となく抗いがたいものがあったのよ。
「あたしは…、あんたの、保険になんかにならないんだからね」
「はあ? 相変わらず訳のわからないことを…」
くすり、と彼は笑い、涙の引かないあたしの背をぽんぽんと軽く叩きながら、
「瑠璃姫、もう一度お約束してくれますね。決して危険なことはしないと」
「約束するけどさあ…」
「あなたにもしものことがあったら、わたしは自分を責めなきゃなりません。あなたをこの事件に引っ張り込んだのは、わたしなんですから」
鷹男のせいなんかじゃない、と口の中でつぶやきつつ、代わりに文句を言った。
「あんた、衣が抹香臭い」
「先ほどまで、法珠寺にいたのですよ。だから、こんなに遅くなった」
法珠寺?!
そういえば…、観如って坊さんがその寺の名を言っていたわ。東宮のお建てになったお寺だとか何とか……。
「衛門佐殿が…」
今は、こういうことをのんきにしている場合じゃない。
高彬がどうかとか、何かほざきかけた鷹男を、あたしはどんと突き飛ばした。
「ねえ、その法珠寺ってお寺、さっき観如が口にしてたの!」
 
 
 
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