小萩の恋文
5
 
 
 
三条のわが大納言邸の藤も、そろそろ咲こうとしている。
弥生も過ぎて卯月に入り、世間ははや、夏の気配である。
藤宮さまが先ほどお帰りになられた余韻が、まだあたしの居間に残っている。
女房らが片づけを行うのを御簾越しにぼんやり眺め、ため息をつく。憂いのものじゃなくて、あの入道事件以来の、あたしの癖のようなもの。
まだ芯の疲れがとれないのかしら。
人間、やっぱり、平和が一番だわ……。何の不安も恐怖もなくこうして安穏といられることこそが、大事なのよねえ。しみじみそう思う。
小萩が膝を進め、浮き立った声で、
「藤宮さまは、まことにお美しい、天女のような御方でございますわねえ。貴いご身分が、瑠璃さまのおかげんがご心配で、お気安く自らこちらまでお出ましになられるのですもの。あのような御方とご親交を持たれるなんて、小萩は瑠璃さま付の女房であることが、誇らしゅうございますわ」
小萩の声はうきうきと明るい。そして、どことなく、先ほどの藤宮さま付の女房らの雅さに、刺激を受けたと見える声音だ。
少し前なら、その小萩の親しげな声を、内心あたしはいらだたしい思いで耳にしていたはずだ。
バランスの悪い、いびつな三角関係に、あたしらしくなくうじうじしてさ。
それが、今はどうでもよくなっている。「そう?」なんて、返事を返したりして。
大きな危険を潜り抜けた後のあたしは、一皮剥けたというか、人間が大きくなったというか、妙に周囲に寛大な気持ちになれるのだ。
あたしの身勝手で、みんなに迷惑をかけたな、ってつくづく感じ入ってしまう。
事件の間じゅう、藤宮さまの二条堀川邸で臥せっていたことになっていたあたしを、それは身をよじらんばかりに心配させただろう、とうさまにも。継母の母上にも、融にも。
事件の後で、ご自身にはそんな責任ないのに、恐怖が去らずに泣き喚くあたしを、芯から同情し、済まながって下さった藤宮さまにも。
あたしの留守にも、みすみすあたらチャンスを逃し、恋する小萩に文すら付けなかったらしい、堅物の高彬にも(にやつからは、機嫌を伺う消息文が届いていた。あたしはそれに返事も書かずにうっちゃっておいたことになる)。
「藤宮さまも、ご安心のご様子でございましたわ。すっかり瑠璃さまがお元気になられて。こちらへお帰りのときの真っ青なお顔を見て、わたしも肝をつぶしましたけれども、もうご安心ですわね。ふふ、粥を二杯も召し上がるほど、朝餉も進むようでいらっしゃるし」
そして、小萩、あんたにも。
「やっぱり、うち朝餉が一番ね。あんたにも、心配かけてごめんね」
小萩は、一瞬耳を澄ますような仕草を見せ、その後で、小さく洟をすすった。あたしの言葉の何かが、小萩の涙を呼んだようだ。
「構うものですが、お帰りになり、ご無事にこうしていらっしゃるのですもの。心配かけて下さるのが、瑠璃さまのお役目ですわ」
「ありがとうね」
「瑠璃さまは、ご病気をなされた後で、本当にまろやかなご気性に変わられたようだ、と朋輩とも話しているのございますよ」
「その前は、とんがっていたみたいじゃない」
「いえ、とんがるというか、丸まらない餅のようで…」
「何よそれ?」
「餅は人が掌で転がすと、まあるく形が整うでございましょう。瑠璃さまは、転がしても転がしても丸まらず、手が餅でべたべたとするばかり…、あ、これは、わきまえもせず失礼を」
あたしは小萩のたとえに腹も立てずに笑い、
「転がして形を整えてやろうとした側が迷惑する、って言うの? ひどいたとえね、まあ当たらずとも遠からずだろうし、いいけどね」
「それ、そのおっしゃりようが!」
「ちょっとね、人生観が変わったみたいなのよ。あの土壇場では、精も根も尽き果てた心地がしたのよ」
「あの土壇場とは?」
小萩が「はて?」といった目を向けたので、扇で口元を隠しながら、苦しくもとりつくろう。危ない、危ない。
「病気のさなかよ。高い熱が出て、長いことうんうん唸っていたときのこと。あれは経験した者じゃなきゃ、絶対にわからない境地よ」
「そうでございますか…」
殊勝なあたしの言葉に戸惑うのだろうけれど、大病の後の人間とはこういうものか、とでも納得したのか、頷いてくれた。
几帳をずらしながら、「瑠璃さま」と言う。
「今宵は、念願の高彬さまのご来訪ですわね。準備怠りなく、皆で気を入れておりますから」
その小萩の声が、さっきまでとは違い、どこかこわばってあたしの耳に入るのは、あたしの勘ぐり過ぎだろうか。 
そして、あたしはこの子のこんな声に、初めて気づいた。そのことにはっとする。
これまでも幾度もあったはず。
その一々を、思い出すことなどできないけれど、あたしはそれらを、内心の嫉妬と苛立ちで、まともに感づくことさえできなかったのだろう。
辛いのは、恋を譲られたあたしの方じゃなく、譲った小萩の方。そして、そのあたしのそばから逃れられない、小萩の方だ。
あたしは、扇の陰で唇を噛みしめた後で口を開いた。
「久しぶりだわね、高彬に会うのも。忙しいらしいわよ、宮廷の方は」
「まあ、それほどお忙しかったのですか?」
「…うん…、謀反に関わる大きな事件があったようなことを、とうさまも言ってたし……」
「まあ、謀反、ですか?! では家司や男衆が集まって何やら噂していたのは、そのことでございますわ。使用人でも殿方は宮廷のちなんだ話題には耳ざといものでございますから。それにしても謀反とは、恐ろしい!」
「あたしじゃよくわからない。でもその関係よ、きっと、高彬が忙しくしているのは」
適当なところで空っとぼけておいた。
入道の陰謀事件を、あたしの立場で細かに話すのはまずいだろうな。「どこからそれを知ったのか?」なんて、誰だって不審がるに決まってる。
鷹男は文で(あの人からはたまに非公式な文が届くようになっている)法珠寺の後の事件の流れについて知らせてくれていた。
東宮の最初のお考えでは、諸々の影響を憂い、すべて隠密に、と事を進められていたらしい。
けれども加担した者の多さに加え、陰謀が思いの他手の込んだ悪辣なものであったことが許しがたく、すべてを公表し、謀反に準じた厳罰に処すことにしたのだという。
鷹男の言葉通り、首謀者の入道は都を払われ、他の者も佐渡や隠岐に流されることとなった。
その件で、宮廷は処理に大わらわらしい。高彬が御所に缶詰になっているのも、きっとこれのせいね。
 
『あの者共が、瑠璃姫、恋しいあなたを傷つけんとしたことが、わたしにはとても憤ろしいのです』。
 
そうさらりと綴られていた文を思い出し、ぽっとあたしは頬が熱くなった。
こんなのもある。
 
『わたしの衣に移ったあなたのあの血を目にするたび、清げでかよわく、可憐なあなたに負わせた恐怖を思い、己を恥じ強く自責してしまうのです』。
 
だから、あれは猫の血……。
「目にするたび」って、どんだけ見直してるのよ! ばっちいからあんまり触るなって、言ってやろうかしら(多分言ってやらないけどさ)。
まあ、ともかく、
こんな直筆の文をいただいて、心証が悪かろうはずもない。
てっきり、鷹男、藤宮さまと恋仲で、すっかり出来上がったもんだと思っていたのに。
違うだなんて、今更よ。
なんか、ずるいじゃない。ずるい。そりゃ、あたしの勝手な思い込みだったけど、ちょっと騙された気持ちよ。
先ほどの会見で、さりげなく鷹男からの文に返事を促す(あたしは鷹男に返事を書いていない)藤宮さまのお言葉に、あたしはこの腹立ちを軽くぶつけてみたのだ。
それには、「まあ」と驚きの後で、あの御方はふふっと可愛らしく微笑まれ、
「わたくし、身よりなく幼い頃から宮廷で育ち、寂しい思いもしましたとき、東宮には常にお優しくお心をかけていただきましたの。ですから、あの御方がご無理をおっしゃられても、嫌とは申せませんわ」
お二人のあの親密さは、長く慈しみ合う血の通う者同士の親愛の情。そういう訳か、と肩透かしを食った気分だった。
てっきり、デキテイルと……。
麗しい高嶺の恋人に見合う自分になりたいがため、危険を顧みず任務を遂行する、若干のちゃちさがにおう野心的な男、といった鷹男のイメージは、あっさり崩れた。
それはそれで、あたしの知らないタイプの男で、素敵ではあったのだけど。
でも、あの人がやったことは、そんな小さいレベルの話じゃなく、宮廷と都の安寧と平和を守るといった、無私でスケールの大きなことだった。
貴いご身分におわす方は、桁違いに器が違う。
急にそびえるように荘厳で大きくなった鷹男の印象に、実のところ、あたしは面食らって、ぽかんとしちゃっているのだ。
「まあ、瑠璃さまったら、東宮におかれましては、わたくしは姉のような妹のような叔母。わたくしには、東宮は兄のような弟のような甥、でいらっしゃるのですわ」
はあ。
うちの融なんかは、かわゆいのが取り柄の、幼い弟のような不甲斐ない弟、でしかありえないんですけど。
二人が恋仲と思えばこそ、密偵していた間も、雑色っぽっちの鷹男に点を稼がせてあげようと、あれこれ気を使ってあげていたのにさ。
それが東宮ご本人だなんて。嘘みたい、夢みたいな話よ。
お帰りになられる際、藤宮さまは御簾内のあたしへ膝を進められ、扇越しにひっそりと、こうささやかれた。
「敢えて鷹男と申します。鷹男は、瑠璃さまがお好きなのですわ」
案外、そのお声が、ドスが効いていたのを今思い出す。
そのとき、あたしは一つ、藤宮さまにお願いを申し上げておいた。それを耳にしたあの御方の嬉しそうなお顔は、ぱっと輝いてまばゆいほどだった。
「瑠璃さまのおねだりに、鷹男は、きっと喜びましてよ」
叔母・甥、血の通う近親とはいえ、この美しさにくらりとこない鷹男の美意識って、大丈夫なんだろうか。
何で、あたし?! 疑問が渦巻くわ。
東宮の御身でありながら、夜陰御所を抜け出し、日々暗躍されるような思考の持ち主であられるのだから、ちょっと、かなりその…変人、なのだろう。
まあ、いいや。
問題は、夜。高彬がやって来てからのことだ。
あたしは夜に備えてと、ちょっと人疲れしたのとで、御簾の内で脇息を枕に横になった。
 
 
 
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