小萩の恋文
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高彬が今宵やってくるのは、とうさまの肝煎りの「初夜のやり直し」のため。
あいつにも、婚約の状態でずるずる曖昧に延びるより、「済ませてしまいたい」気持ちはあるようだ。
あたしとしては、事を起こす願ってもないチャンスだった。
その夜、高彬がやってきたのはもう深夜も深夜、子の刻を回る頃。
あたしは緊張感もとっくに失せ、お夜食の団子をもぐもぐ食べ、そのままうつらうつらと仮眠を取っていた有様だった。
宮廷の忙しさは高彬の文にもあり、あの人の文も知らせてくれたけど、この夜の高彬の憔悴した表情には、「遅い!」の文句も引っ込んだ。
「あんた、病気なのを、無理して来たんじゃないの?」
聞けば、「疲れているだけだよ」と力なく返ってくる。
「なぜか、僕のところにばかり、今回の事件の後始末のこもごもの書類が回ってくるんだ。東宮直々のお指図なので、誰かに頼む訳にもいかないし…」
「まあ」
鷹男、いやさ東宮ってば、そんな子供じみた嫌がらせを。
あの人、あたしが高彬との婚儀を迎える気がないって、知っているはずなのに。
「ぼく、東宮よりご不興を蒙る覚えがないんだけどな…」
かわいそうな高彬。ヤキモチなのはわかるけど、彼をいじめてどうなるっていうのよ。
外は雨が降っているようで、高彬の肩先がしっとりと湿っている。部屋に控えた小萩が衣を寛がせるのを手伝い、温かい白湯を運んできた。
優しくまめまめしいその仕草を、あたしは扇をずらして眺めた。高彬はそれを諾々と受けている。
「ありがとう、小萩」
「もったいのうございますわ」
姉さん妻の甲斐甲斐しさに身を任せる年下夫、といった図だ。二人の慕わしさが、薄暗い中、ぼんやりとそこに灯っているかのように感じられる。
こんな風に二人が一緒のところって、あたしと高彬が婚約してから見るようになった光景だ。それまでも高彬は融にかこつけて、わがやにしょっちゅうやって来ていたっけ。得意の琵琶なんか弾いてさ。
小萩に文を渡すなり、話をしたりの時間なぞ、ふんだんにあったわけだ。
あたしはそんなこと、ちっとも気づかずにいたのだ。のんきと言うか、ぼんやりしていたというべきか……。
二人の仲を知っていたなら、別な展開だってあったはず。
あたしは婚約すら諾としなかったろうし、鷹男に関わって、あんなヤバイ橋渡ることは、絶対になかったわ。
「では、明朝参りますわ」
小萩が部屋を下がっていく。それちらりと見送った後で、高彬は御簾をからげ、もそもそと中に入ってきた。
げげーっ!!!
そのとき、説明のつかない生理的な嫌悪感が背筋を這った。
恋しい女が去ったと同時に、あたしのもとへいざり寄ってくる高彬の存在が、信じられなかったのだ。
そりゃ、立場もある。身分もある。名門貴族の子弟ゆえ、ベストを選べないその訳ものめるわ。あたしもそうだったもの。
でも、今宵はソレが目的とはいえ、思わず後ずさってしまうほど、あたしはこのときの高彬を許しがたく感じた。
夜明けには、(成らないけど)事成って、契りを結んだあたしたちの朝の顔を、小萩に見せることになる、その残酷さを、こいつは理解できているの!?
小萩はさ、身分柄、殊勝に、
『わきまえておりますもの。〜、これよりは瑠璃さまをお大事に』
なんて、許してあげているけどさ。ちょっとこわばった笑顔で下がっていったけどさ。
あたしは、そんなに優しくなれない。だから、高彬の鈍感さを許せない。
「どうしたの、瑠璃さん」
あたしの様子が不思議なのか、高彬は小首を傾げた。
こういう仕草は融と同じで、ちょっととっぽい年下の可愛さが出ていいな、と思っていたのだけど。
扇を持つあたしの手に触れた高彬の手を、ついさっと避けてしまう。
それをごまかすように、笑顔を作り、
「ほら、疲れてるのはわかるんだけど、いきなりソレって、せっかくの初夜にあんまり無粋じゃない? 下手でもいいからなんか、歌でも詠んでみてよ」
「ん…、そうだね」
高彬に歌才ないのは先刻承知。顎の辺りをかきながら、それでも何か捻っている。
「春過ぎて…、いや夏の風かな…」
高彬の苦吟の様子を横目で見ながら、あたしは手の扇をもてあそんだ。
心の中で、あの人からの便りを、早く、と念じている。
 
早く、きて。
 
「夏の風 声を聞くとも われしらず…」
どこかで聞いたことのあるような、盗作すれすれの歌を高彬が口にしたとき、それは起こった。
聞き間違えようのないほどどたどたと、おそらく小萩だろう、荒く廊下を走ってくる。
 
きた!
 
高彬は歌を途切れさせ、あたしの顔を見た。
「何だろうね、瑠璃さん。ぼくに宮廷から急ぎの知らせだろうか」
妻戸から大きな声で小萩が問うのが聞こえる。
「お召し物は、きちんと着ていらっしゃいますね?」
「大丈夫よ、入りなさい」
あたしは御簾を出た。
声をかけてやると、おずおずと扉を開け入ってくる。入るなり、尋常じゃない様子の彼女は、
「い、い、一大事、一大事でございます!」
と、上品で躾の行き届いた、いつもらしからぬ声を張り上げた。
「まずは、こ、これをご覧下さいまし。間もなく、大納言さまもお見えになられます」
「どういうことだい? 大納言さまは、今夜のぼくらのことをよくお含みのはずなのに…」
「と、とにかく、これを…!! 瑠璃さまへ、東宮さまからの御文でございます!!」
「何だって?!」
東宮の名に、高彬も遅れて御簾を飛び出してくる。
震える小萩が捧げ持つ結び文を、あたしは取った。規定路線だけど、何だかどきどきするわ。
結びを解いた薄紫の美しい料紙には一首、
 
夢路だに きみに通へるものならば 
   うつつに見んと思はざらまし
 
「おお…」
思わず感嘆の声が出た。
高彬のさっきの盗作もどきの歌に比較するまでもない。高度なテクニックを盛り込んだ、恋のお歌だ。
恋を秘めた切なさと求める激しさのアンビバレンツが、歌を贈られたやわな乙女の心を、ときめきドキュン! と貫いてくる。
こんな引き出しを、鷹男ったらいつの間に……。
「瑠璃さん、これは一体……!」
後ろからのぞき見していた高彬が、低い声で言った。心なしか語尾が震えている。
「どういう意味なの? あなたと東宮は…」
料紙を開ききると、中に包んであった物がぱらりと下に落ちた。
「ん?」と足元を見れば、指の長さほどの数本の髪と、切った爪の先が三つ四つこぼれている。
ああ!!
あたしは急いで屈み、手のひらで床を掃くようにして、禍々しくて生々しいそれらを拾い集めた。
まさか鷹男の?  
これでどうしろと?!
こんなものを美しいお歌に包んで寄越すなんて。
『夢路だに〜』の素敵なお歌も、その輝きを消し、あたしの頭の中で黒々と『黄泉路だに〜』に変換されてしまうじゃない!!
 
藤宮さまのお話じゃ、あたしが一向に鷹男の文に返事を寄越さないものだから、あの人、相当焦れていらっしゃるとのこと。
ああ、嫌な余韻が胸でざわめくわ。
あたしはその髪だの爪だのを、料紙で包み畳んだ。突っ返してやる、馬鹿。
「ご直筆の手蹟でいらっしゃるし…、この御文のご様子じゃ、初めてじゃないね、瑠璃さん」
押し殺した声が背後からする。高彬だ。
振り返れば、その表情は硬く青ざめ、疲れもあいまって、いつもの子供じみた様子が吹っ飛んでしまっている。
かなりショックなようだ。わかるわ、あたしもショックよ。違う意味で。
「ぼくは今日、報告で御前に参上した際拝した東宮のご様子を、よく覚えているよ。何かをお読みになりながら、その書面の上で、小柄で爪を切っていらっしゃった。それで指をちょっと傷められて、白絹で指を包んでおられた。そう、御髪も、落ちた中に混じっていたように思う」
やっぱり、鷹男のか!!
何の嫌がらせ!? こんな余計なオカルトオプション、頼んでないぞ。
あたしはただ、藤宮さまにお願いして、今宵の夜更けに、嘘でも何でもあたしへあてて恋文をほしいのだ、と伝えていただいただけ。
高彬との今夜の初夜は、鷹男からの恋文により頓挫し、あたしたちの婚約も無期延期から、解消になるのを見込んで仕組んだこと。
当の鷹男だって、あたしが畏れながら東宮の権威をちょこっと拝借しようと考えていたことは、あの五条邸で話してあったし、ご了解のはずだ。
そこへ、息せき切って、深夜着物を調えたとうさまが駆けつけてきた。
「と、東宮ご直筆の、こ、恋のお歌は、紛れもない、る、瑠璃への入内をご希望なされてのこと!! 事は政治を絡めた、わが大納言家の、ふ、浮沈に関わる重大事ですぞ!」
大息つきながらまくし立てるとうさまの言に、高彬が大人びた顔で、小刻みに頷いてやっている。
「やめてよ、興奮してさ」
思いも寄らず激昂してきた部屋のムードをクールダウンさせようと、あたしはヤバイ文を違い棚にしまい、とうさま、高彬、そして今に至っては心配そうにあたしを見守る小萩に向け、
「たまに御文をいただくだけよ。ほら、藤宮さまのお邸にお邪魔した折に、ちらっと、その、ちらっとお会いすることがあってね、物の怪憑きの噂高い瑠璃姫に、おかしなちょっかい心を刺激されていらっしゃるだけだって」
と、努めて冷静で何気ない口調で、真実混じりの嘘を並べた。
「事はそんな単純なことではないぞ。今回の入道事件に端を発し、長らくお患いであられた帝がご病状の悪化に伴い、われら側近に、しきりに近い譲位のご意思をお洩らしになられているのだ」
「は? だから何よ、とうさま」
「だから、ではない!! 近い未来の帝さまが、何かの間違いでお前を望んでおられるのだ。何かの間違いでもし瑠璃が入内し、何かの過ちで皇子を生み参らせば、わが大納言家は安泰が約束されたようなもの」
「はあ?! 皇子って、入内って、何を寝ぼけてるのよ、とうさま!」
 
 
 
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