小萩の恋文
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とうさまの言葉を引き継いで、今度は高彬が変に暗い声で、
「大納言さまのおっしゃることは、ごもっともだよ。将来の帝であられる東宮が、ご身分を明かしこうした御文を、何かの間違いでも瑠璃さんに贈られている以上、事は、個人の問題じゃなくなってくるんだよ。もちろん、この貴族社会で断ることなどできやしない。何かの間違いでも」
「失礼しちゃうわ、枕詞みたいに、「何かの間違い」だって、何よ。…とにかく、ちょっと待ってよ」
あたしにとって鷹男に文をねだったことは、高彬との初夜をつぶさせ、婚約の解消を目論んだものだった。それだけのこと。
入道事件に首を突っ込んでいた頃は、「東宮の女御に入内」することで、婚約を破棄することを、高彬にも小萩にもすんなり認めさせようと考えていたわ。
でもさ、わざわざ入内しなくても、鷹男に艶っぽい文をちょいともらうだけでそれが叶うと、ふと思いついてしまったのだ。
申し訳ないけれど、かたじけないけれど、東宮さまのそのありがたいご威光を利用させていただこう。
そう思ったわけよ。
命懸けのご奉公をしたんだから、鷹男だって、それくらいのあたしのかわゆい茶目っ気は、許して下さるだろうなあ、なんていう甘えもあったのだけれど。
だって、法珠寺では本当に怖かったんだから。死ぬかと思ったんだから。思い出すだけで、めまいがしそうなほどよ。
その辺の本当に事情も知らせられず、興奮冷めやらぬとうさまと、疑心暗鬼にあたしをじっと見つめる高彬の、四つの目に阻まれ……。
結局、
「…何かの間違いよ、きっと」
そんなことを口にしてしまっている。
「ともかくだな」
とうさまが高彬を拝むようにし、婚約の無期延期を申し出た。
「このような明らかな御文が参った以上、二人を結婚させるわけにはいかないのです。そうなれば、わしの身さえも危ない…」
「…ええ、わかります。大納言さま」
若輩といえどもさすが宮廷人。高彬はとうさまの言葉に、ものわかりよく頷いた。
「瑠璃や、くれぐれも早く、お返事を参らせるのでずぞ。くれぐれも!」
とうさまはそう念押しをして、足音高く部屋を出て行った。
その後を小萩が見送りに部屋を出、思いがけず、あたしは高彬と二人きりになってしまう。
高彬はもそもそ帰り支度をし出した。衣もろくに脱がないままだったから、それもすぐに終わる。
部屋は重く暗く嫌な雰囲気で、せめてそれを払いたくて、あたしは、へへと気まずいながらも笑い、
「ごめんね、なんかばたばたしちゃって」
と、詫びて見せた。
「女の人って、わからないね。男の知らない間に、何しているか。よくわかったよ」
と、生意気なそれを捨て台詞にして、あっさり身を翻す高彬の態度に、かっと頭に血が上るのを感じた。
冷静でいるつもりが、こんな感情を抑えきれないところ、あたしも今宵、かなりテンパッていたようだ。
それは認めるわ。
そして、愚かにも、つい言わないつもりの言葉を、浅はかにもぶつけてしまったのだ。
 
「小萩のこと、あたしが知らないと思ってるの?」
 
扉に向かう高彬の歩が止まった。肩先がぴくぴくと動いて見えた。動揺しているのがわかる。
しばらくの間の後、高彬がゆっくりこちらへ振り向いた。
「だから、東宮と文を交わしていたことを、ぼくに隠していたの?」
やっぱり認めるんだ。
否定やごまかしくらいはあって当然だろうと、その予想を裏切られ、あたしはしばし、返事を言いよどんでしまう。
同時に、胸の奥がかすかに痛んだのも、また想定外のことだった。
「えっ、違うわ。まさか、そんな仕返しみたいな…」
高彬は「ううん」と首を振った。あたしの返事など、どうでもいいというように。
「ごめんね、瑠璃さんを傷つけるつもりはなかった」
「…わかってるわ」
つぶやきながら、明かさず胸にしまっておくべきことを、怒りのはけ口にしてしまった軽薄な自分を、涙がにじむほど悔やんでいた。
「瑠璃さんと縁談が決まったとき、二人で、おしまいにしたつもりでいたから…」
ほっそりとそんなことを言う高彬の背中は、あたしの目に妙に切なく見えた。
じき小萩が戻ってくる。急がなくちゃ。
あたしは背を向ける高彬の袖をつかんだ。つかみながら、開いた扉を気にしつつ、早口で、小声で喋った。
「小萩を幸せにしてあげて。好きなんでしょ? 一番なんでしょ? お願いよ」
「瑠璃さん…」
何でだろう、あたしは自分の切なる願いを伝えながら、泣いてしまっている。こうあってほしいと、ずっと願ってきたくせに。
胸の奥を、ずきんとちょっと疼かせたまま、
「小萩には、あたしが知ってるって、気づかせないで」
知れば、あの子は傷つくわ。あたしを傷つけたことで、きっと自分も傷つくのよ。せっかく身を引いたのに、あたしのためにあきらめたのに。
おかしいじゃない、そんなの。
邪魔者のあたしは消えるから、小萩と二人幸せにやってよ。
簡単なせりふのはず。
楽しくて、嬉しい言葉のはずなのに。
高彬はそれに返事をせず、あたしの手をそっと外した。
「帰るよ。下手したら、ぼくは東宮の思い人のもとへ通う不埒なやつ、ってことになりかねないからね」
嫌味なやつ。
鷹男とは何でもないんだから。
ある事件で関わって、その流れで文をもらって、返事をせがまれ、あたしが無視していれば、今度は恋文に爪と髪を気味悪く同封してくるような、ごくあっさりとした清い仲でしかないんだから。
「お願い、小萩をあんたの一番に、ずっと一番にしてあげて」
ほしい言葉を返してくれない高彬へ、あたしはせめての願いを託した。
それに高彬は、こっちがいらっとくるような、軽い頷きを返しただけだった。
あたしは焦れて、その背をばんと平で打ってやった。
「何か言いなさいよ」
なぜか、そこで高彬はにこっと笑った。目じりに幼さの残る、お坊ちゃんぽい可愛い顔を笑みで歪めつつ、
「そばの誰かのために、たやすく必死になるね、瑠璃さんは。覚えてる? 子供の頃、ぼくが池に落ちたのを、助けてくれたね。そのときと、ちっとも変わらないよ」
「な、何よ、急に昔話なんかして」
「東宮は、瑠璃さんのそんなところに強く惹かれておられるのだろうと思う。何かの間違いじゃないよ、きっと」
あたしは返事をしかね、黙り込んでしまった。
「…それに……、これは、瑠璃さんだから言うのだけれど、他言は絶対に困るよ」
高彬は意味ありげに前置きした後で、「公子女御との御夫婦仲も、畏れながら、あまり、その、うまくは…」、と言い辛そうに、消え入りそうな声でぼそぼそと付け加える。
公子女御さまは、高彬の姉君でいらっしゃる。女御のお里の右大臣家だから、こんな裏話もちょろちょろ耳に入るのだろう。
愛妃でいらっしゃると、噂に言うけどね。へえ。真実ってわかんないものね。ふうん。
「返事は、早くお返しして差し上げるんだよ。東宮はきっとお待ちかねでいらっしゃる。ぼくはお側近くに仕え、そう推察申し上げる」
何よ、偉そうに説教なんかして。
あれは、仕込みの文なんだから、返事なんか要らないってば。
まあ、ありがとうの礼くらいは届けてもいいか。
そうね、それくらいなら。いっか。
高彬が部屋を出て行ってほどなく、小萩が戻ってきた。
あたしは、今夜は疲れただろうから、もう下がるように言った。
「では、お着替えをお手伝いいたしますわ」
あたしの着替えを手伝う、てきぱきと手馴れた様子はいつものもの。だけれども、明らかに様子がおかしい。
小萩はあたしの顔を見ないのだ。顔を伏せがちにし、決して目を合わせない。
瞬時、高彬との話を聞かれたことを悟った。長々と、小声とはいえ、興奮しながら話していたのだもの。
主人の日常に気を配る、早耳が特徴の女房に、気づかれぬ方がおかしい。あたしは単衣の腕を抱き、ほぞを噛んだ。
嫌だな、今夜は自分を悔しく思ってばかり。
「ねえ、小萩…」
「もう遅いですから、お疲れでございましょう。おやすみなさいませ」
あたしにそれ以上の言葉をつながせず、日々と変わらず挨拶をして、下がっていく。
その姿は、まぶたの裏になかなか消えずに残った。今宵起こったこもごもも連なって浮かぶ。もやもやが、嫌でも頭を去らない。
結局、東宮までを巻き込み、あたしが仕組んだことは、無駄だったのだろうか。
一番の者同士が一緒にいるべきだと、小萩のため、高彬のため、頭を捻り知恵を絞ったつもりでいた。
あたしが、少しだけ我慢すれば済むこと。
そう割り切って、二人が傷つかず、納得して一緒になれる方法だと信じていた。そうすることが正しいのだと。
ほんの少し前まで。
そうだったのだろうか。
黙っているつもりが、つい憤りを抑えきれず、高彬に小萩のことを問い詰めてしまう失態。
あれは冷静さを失ったのじゃなく、あたしは単に高彬へ、自分を裏切り続けた怒りを、ぶつけたに過ぎないのじゃないだろうか。
黙ったまま、高彬に東宮との仲を隠していたのだと、誤解させたままいれば、すべてがきれいに片付いたのに。
そうしていれば、小萩に高彬とのあんな会話を聞かれずに済んだのだ。
横になりながら、自分の至らなさに、悔しい涙がにじむ。
馬鹿、あたしの馬鹿。
ぐすん。
洟をすすりながら、とにかく、と頭を整理する。
高彬との婚約は解消、晴れてやつはフリーの身になれた。小萩との仲も、自由。けれど、最初に戻っただけだ。
元々、家柄・身分、それらが重石になって、高彬はあたしという権門の姫を選ぶことになったのだ。
そのお坊ちゃんの彼に、婚約を解かれた今、果たして周囲の反対を押して、一度は別れた小萩を取ることができるのだろうか。
そもそも高彬、ちっとも嬉しそうにしていなかったし……。
自分の立てた計画の大穴に、情けなくなる。
ぐすん。
「お願い、高彬、お願いよ…。小萩を幸せにして。二人で幸せになってよ…。今更、小萩を忘れてどっか宮家の姫と、なんて薄情者じゃないわよね、あんた…」
結局は、洟をすすりながら、高彬の誠実と純情を祈ることしかできないなんて。
むなしい。
あたしのしてきたことって、何だったの?! 五条邸での緊張や、法珠寺での危険や恐怖や、あれこれ、何だったの?!
藤宮さまという高貴なお友達を得て、鷹男に気に入られただけではないの。
はあ……。
鷹男はどうだったんだろう。
あの人は、貴い身をやつし、ほぼ単身の御身一つであの陰謀事件に当たられていた。
それもひとえに世を騒がせず、犠牲者を増やさないお志のためだ。
なのに、蓋を開ければ意外な裏切りに遭い、世情は動揺し、宮廷は大揺れ。断罪後多くの宮廷人を遠流にすることになっている。
平和裏に穏便に、といった切なる目論見から、大きく外れた結末になってしまった。
もちろんそれに彼の罪はないわ。けれども、ショックは大きかったはず、辛かったはずだ。
そう思う。
精一杯の努力の結果に、むなしくなったりしなかったのだろうか。
鷹男は、どうだったのだろう。
「ねえ…」
 
 
 
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