(3)


一応は約束だからと、気は進まないまま、あたしは夕飯のとき、融に帥之宮さんから頼まれていたジムの話を向けてみた。
ちなみに今夜彼は、あたしと入れ違いの夜勤シフトで留守だ。
そんな晩に、あたしたちに作っておいてくれる彼の手作り料理は、かなり旨い。趣味もあろうけど、確実に融を餌付けにかかっている感じよ。
「行ってもいいのよ。帥之宮さんが勧めるんなら、費用も甘えちゃっても。あんた、ほら彼のこと、実のお兄さんが出来たみたい、とか喜んでたじゃない?」
食堂のダイニングテーブルに掛け、帥之宮さんお手製のアイルランドシチュウを頬張る融が、あれ、とでも言いたげな顔をした。
「どうしたの? 姉さん。いつもなら、たとえ帥之宮さんでも、お金の貸し借りはよくないって…」
あたしは、お皿のきれいに面取りを施されたジャガイモを口に運び、その『ホモシチュウ』の美味を味わいながら、
「家族…みたいなもんじゃない。一つ屋根の下でさ…」
慌てて咀嚼中のジャガイモと一緒に、恐ろしいことを口にしてしまったための悪寒を飲み込んだ。ぎゃあ、酸っぱいものが込み上げてくる〜〜。
うう、くわばら、くわばら。
融は根っからの疑うことを知らないぼややんとした性格からか、あたしの言葉にうなずいて、「そうだね。何かの縁だよね、これも」とにっこりと笑った。
ああ、姉ながら、その無垢な笑顔が可愛いわ。
ホモに捕食されていることも知らず。
後ろめたさに、顔が上げられない。
「そうだね、姉さんがそう言ってくれるんなら。行こうかな」
純粋に、帥之宮さんと姉のあたしの好意の言葉だと信じて疑わない融のきらきらした目が見られず、あたしは罪悪感にさいなまされ、ひたすらビールで煮込んだシチュウを食べ続けた。
くそっ。散々こき使ってやるから、帥之宮め。
「帥之宮さん、僕に水泳用の水着も選んでくれるんだって。そのジムは特別の決まったタイプのものじゃないと、プールに入れないらしいんだ。ちょっと、変わった水着みたいなんだけど…」
ぶっっ!!
すんでのところで、シチュウを吐きかけた。
どんなの着せる気なのよ、あいつ。
そして、そこは本当に真っ当なトレーニングジムなのか?!
何を言う気力もなくして、あたしはスプーンを放り出した。いつだって食欲を失わないあたしが、毎度おいしいホモ食をお替りすらしていない。
「ジムに通ったら、細い僕も、少しは筋肉が付くかな? 帥之宮さんみたいにかっこよくなれたらいいなあ。そうしたら、……藤宮先生とも、少しは進展が……」
「え?」
最後に、融のぼそりともらした言葉に顔を上げると、色白の頬をほんのり赤らめなどしているのだ。
藤宮先生というのは、融の研究室の指導助教授だった。それにすごい和風美人だったわよね。弟を介して何度か会ったこともある。
「ふ〜ん。あんた、藤宮先生が好きなの?」
「止めてよ、高嶺の花だよ、僕なんかじゃ」
恥ずかしいのか、融はそれっきり口を噤み、そっぽを向いてしまった。
あたしはその様子に、俄然食欲が戻ってきた。
いいじゃない、いいじゃない。
あの腐れホモが、どれだけ舌なめずりして融を見ようが、肝心の融は美しい年上の女性に恋をしちゃってる。
あの外道も、さすがに自分に気持ちの向きようがない融に、無理強いはしないだろうから、ひとまずは安心していいんじゃないかな?
あれだって、人の子。犯罪まがいの非道なことはしないはず。
いいわよね?
うふふ。
あたしは融に空いたお皿を突き出し、胸のつかえがとれたかのように、
「お替りちょうだい」
と大きな声で言った。
 
 
あたしの勤務する氷室医療センターは、ある篤志家によって運営されている総合病院だ。
スタッフや施設の充実、無利子の医療費ローン制度など、儲けを度外視した経営は、本来なら立ち行かないはず。
けれども、大きく足の出る病院の経費は、決算ごとに気前よく補填されてきているのだという。
そのトップはアラブの石油王だとか、実は○ル・ゲイツなのだとか、パリス・○ルトンの気紛れなのだとか、超法規の独立行政法人なのだとか、いろいろ噂があるけれど、事実はあまりよく知られていない。
オーナは誰であれ、患者さんはもちろん、福利もいいし、勤務のスタッフにもありがたい病院なのだ。
その謎とされる経営者の一族が入院患者となった場合、利用する特別フロアがある。そしてフロアすべてをなぜか『清涼殿』と呼ぶ。
特別室がずらりと並ぶ、VIP専用のフロアだ。普通の特別室とは違い、清涼殿は一族のみの利用になるという。
だからか、ここ付きのナースには、あたしたち一般病棟のナースを見下した、お高くとまっている者が多い。容姿が選抜の基準にあるらしいって噂もあるくらいで、確かに美人ぞろいだと、男のドクターには人気がある。
あたしがこっちに配属されなかったのは、まあ仕方がないとして、煌は間違いなく美人なのに弾かれたのは、やはりあの性格が災いしたのかしら? あれはVIP向きじゃないわよね。性格はしっかり庶民派だし。
普段はあんまり用がないから、滅多にこないけど、この日は仕事明け、知り合いが入院したためやって来た。
大きく取られたロビーの窓からは、沈みかけた太陽がオレンジ色の光を柔らかく注ぎ込んでいる。その辺りの椅子や雑誌をなんかを並べた棚も、コーヒーテーブルなど調度類も、ぱっと見ただけで、値が張るのだろうと見当が付く代物が置かれている。
はっきり下の階とは雰囲気が違う。高級ホテルのエクゼクティブフロアって、こんな感じなんじゃないかしら。
清涼殿の高級感あふれるナースステーションで、つんと澄ましたナースの中に知った顔を見つけて、彼女を手招きした。
「小萩」
「あ、るりちゃん」
小萩は、看護学校時代からのいい意味での仲良しだ。ちなみに煌とも仲がよいけど、あたしと二人になると、「煌ちゃんって、ちょっと怖い」ともらす。
煌のあの凄まじいまでの玉の輿へのガッツには、誰だってたじろぐ。損得勘定が、彼女の人生の指針だもの。
小萩に目的の部屋を訊き、礼を言ってそこへ向かった。
どうでもいいけど、小萩よりあたしって、きれいさで劣る? そりゃあの子も可愛いけど、ここに振り分けられるほどきれいって訳でも……。
まあ、どうでもいいんだけど、さ。いい子だし。
引き戸になっているドアをノックし、返事があったのでゆっくりと引いた。
そこには、融の憧れる助教授藤宮さんがゆったりとベッドに横になっていた。彼女は最近、盲腸の手術でここに入ったのだ。
勤務中にここのナースを通じて、後で来てくれと連絡があった。
融を介しての知人で、特に親しい訳でもないけれど、藤宮先生の方が何くれと声をかけてくれるのだ。
どうやら、あたしを気に入ってくれているみたい。何でだろう?
ここのフロアを利用できる身だとは、これっぽっちも知らなかったけれど。
「まあ、るりさま。お忙しい中お運び、申し訳ございませんわ。わたくし、あなたのお顔が見たくて、無理を申し上げました。お許し下さいませね」
さすがにVIPフロアにいるだけあって、おっしゃる言葉が違いますわ。
髪をゆったりとお下げにし、術後で浴衣姿の彼女は、化粧っけもないのに、女のあたしが見とれるほどきれい。
世間話を交わしながら、ああ、これはうちの融ふぜいじゃ、とてもとても無理、と純情な片思いを捧げている弟が不憫にもなる。だって、あの融じゃあまりに分不相応というか、位負けしているというか……。
そんな美しい藤宮先生が、不意にあたしの手を取り、じっとこちらを見つめた。
「本当のことをおっしゃって、下さいませ」
「はい?」
「わたくしの病気は、本当は盲腸などではなく、もっと恐ろしい病なのでございましょう? ねえ、るりさま」
「え、何を言ってるんですか?」
「お隠しにならなくってよろしいのです。予感がするのですもの……、そう長くない命なのだろうと…」
「はあ?」
ナースステーションでは確かに小萩から、病名は『盲腸』と聞いてきた。設備の整った瀟洒な個室内には、重病患者を治療するような用意もない。
血色もよく、やつれもないきれいな顔は、健康そうに見える。
藤宮先生の専門って、融と同じ近代日本文学よね? 演劇じゃないわよね?
ふっと彼女が、カーテンを引いた窓を指差した。したたるほど抒情感たっぷりに、
「あの窓から見える梢の葉が、わたくしの命を模しているかのように思えてなりません。毎日見ているのですけれど、風になぶられ、もう葉は、あとわずかに……」
そこで彼女は浴衣の袖で目を押さえた。
O・ヘンリーっすか?
あれ〜〜。返事に困るって。
「まさか、そんなことある訳…」
あたしはとりあえず立ち上がり、窓のカーテンを引いた。そこにありえないものを見て、腰を抜かしそうになった。
「ぎゃっ」



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