(4)


窓の外に、人がいたのだ。

その人は、しかもすぐ向かいに迫った壁に梯子をかけ、ペンキ缶を片手に提げ、葉を描き足している。
その葉が上手いんだか下手なんだか。
梢はイチョウのはずなのに、彼が描いているのは細長い葉で、植物として既におかしい。いや、あなたの存在からがもう普通ではない。
けれども、モスグリーンのユニフォームのすらりとした背中に見覚えがあり、何となく見ていると、描き終えたのか、その彼が振り返った。
絵筆を口に挟んだ彼は、やっぱり、『ヨグルトさん』だった。
彼はわたしを認めると、涼しげに笑った。
「三条さん、またお会いしましたね」
器用に体重を移動させ、梯子をこちらに傾けた。そのまま窓から入ってくる。何というか、流れるように、危なげない動きなのよ。
ヨグルトさんはペンキ缶を床に下ろし、
「藤宮、仰せの通り書いてきましたよ。あれなら散らないでしょう?」
しかし藤宮先生は彼の示した壁の葉を見て、頬をふくらませた。お気に召さないらしい。
というか、先生、あなたが描かせたの?!
「嫌ですわ、鷹男。あれではイチョウではなく、不作の紅茶の葉のようだわ。二番目のオレンジ・ペコーがしなびているではありませんか」
「最近のイチョウは、遺伝子組み換えで、ああなるんですよ」
『鷹男』と親しげに呼ばれたヨグルトさんは、藤宮先生の非難をあっさりとかわした。
彼はどうしてここにいるんだろう?
藤宮先生と親しいようだけれど、何?
部屋の中やヨグルトさん、そして藤宮先生へ。あたしのさまよう視線に、彼女が微笑を浮かべ、
「この者は、わたくしの雑役夫で、鷹男と申します。突然、るりさまの前に奇妙な現れ方をしてしまい、さぞ驚かれたことでしょう。鷹男に代わりまして、お詫びを申し上げますわ」
滑らかにそう結んだ後、藤宮先生は頭を下げた。
そのそばで、やれやれといったように、ヨグルトさんは、軽く笑っている。
大体『最後の一葉』を模倣させたのだって、彼女だ。「鷹男に代わりまして〜」、の件はおかしいだろう?!
仕えているはずの藤宮先生が頭を下げるその傍らで、『ヨグルトさん』兼『雑役夫』の鷹男さんは、腕を組み、悪びれた様子もない。
ううん……、何だか二人の関係って、上下関係というか主従関係のにおいがしないのよね。せいぜいが、姉と弟といった感じくらいで。
何だろう、この二人って。
藤宮先生は、融が純な片恋を捧げる人だし、気になるじゃない。
もしや、二人が恋人関係だったりなんかしちゃった日には、あの腐れホモから、ハートブレイク融をどうやって守ればいいのよ。
失恋の痛手に、思い余って、あの子、ホモの毒牙にかかっちゃうかもしれないじゃない?!
いつしかあたしは、どっか探るような目で鷹男さんを見ていたらしい。
「何か? 三条さん」
微笑を引っ込めた、ちょっとだけ厳しい表情で、彼がたずねた。
「いえ、別に…、あのヨグルトさんは、藤宮先生と、どういう関係なのかなって、ちょっと思っただけです。なんか、親しそうだし、恋人なのかな、なんて思ったりして」
「は?」
藤宮先生は、さっき大仰に涙を拭ったはずの浴衣の袖をゆらゆらと振り、困った子猫が、いたずらをしたかのようにあたしを見て笑う。
「るりさま、まあ、とんでもないことですわ。わたくしと、鷹男が…。
まあまあ、それはわたくしも夫を亡くして以来、夜更けに昂ぶりや火照った身体を、一人持て余すこともありますわ。
それは、手近な鷹男で処理を、と考えぬこともないことはないのですけど、やはりあの顔が覆いかぶさってきたところなど、想像すると、妙に照れ臭くおかしいのですわ。おほほ。
受けつけないのですわ、わたくしが。ありていに申しまして、あり得ないのでしょう、彼との性交渉など。
ボディトーク、失礼、セックス抜きの恋愛は、わたくし、ご遠慮申し上げる主義ですのよ」
「僕も、あなたには勃ちませんよ」
藤宮先生の明け透けな恥じらいのない告白に、ヨグルトさんも、あっさりと返す。
「混浴したって、その気にならない」
「まあ、言うじゃありませんの、鷹男。それは、わたくしの顔を見たあなたが、欲望の抑制をするだけでしょう? 顔を隠したわたくしの桜色の裸体には、きっと反応するわ。するはずです」
「なら、顔を隠した僕が、あなたのベッドに忍び込んでも、それは言えるのじゃないですか? きっとあなたも反応する」
何なのよ、この二人って。
こんなふざけた会話を交わせるほど親しいってことは、わかった。
それに、恋人じゃないってことも。

融、藤宮先生がこんな人だって、知ってるのかしらん? しかし、『ボディトーク』ってさ……。
ふう、やっぱりあたしのまわりって、変なやつが多い。いや、変なやつらしかいない。まともなのは、ここのナースステーションの小萩と、高彬くらいかな? あ、高彬もちょっとやばいか……。
ため息をついたとき、さっきヨグルトさんが入ってきた窓ガラスが、こんこんと叩かれた。
目をそこにやると、さっきの梯子を伝って、また一人男が入り込んできた。すらりとした身のこなしの肌の白い男性。
病院に出入りのボイラー関係の整備士のような、紺のつなぎを身につけている。キャップを目深にかぶった顔を、こちらに向けた。
一瞬女性かと見まがうほどの整った顔立ちの彼と目があった。うっすらと彼の瞳は淡い色をしている。その瞬間、ずきんと胸の底が鳴った。
また……。なにこれ?
あたし、この人も、なぜか知っている気がする。
ヨグルトさんに、整備士のつなぎの兄ちゃん……。
何なのよ?!
すぐに彼はあたしから目を逸らし、藤宮先生に軽く会釈の後、「兄貴」と、ヨグルトさんに話しかけた。
「追っ手らしい者が現われた。『Yogult』はまずい。もうばれてる。急いで」
ヨグルトさんはうなずくと、「すぐ行く。吉野、お前は先に行ってくれ」と、吉野と呼んだ彼を、窓ガラスへ促した。
それに従い、するりと吉野さんは部屋を出て行く。ガラス窓に消えかける彼の姿を、あたしはどうしてか、ずっと追っているのだ。
最後にちらりと、彼とまた目が合って、一瞬でそれは外された。窓の桟にかかった手が消える。
「では、失礼します。連絡はまたこちらから」
「ええ、わかったわ」
藤宮先生に別れを告げた後、ヨグルトさんは、あたしの手をつかんだ。
「つきあってもらえませんか? 一緒だと怪しまれない。あなたに危害は及びません」
あたしが返事をする前に、彼は強引にぐいぐいと手を引いて窓辺へ行くのだ。
何なのよ!! これって。しかも、「追っ手」って、何よ?!
やばいことなの? 危険なことなの?
嫌だ、怖いのは嫌だ。
藤宮先生を振り返ると、神妙な顔でうなずいて見せた。それって、行けってこと? もしかして、このためにあたしを呼んだ?
混乱するあたしの耳元に、不意にささやく低い声が滑り込んできた。
「どうしてだろう? あなたとこのままで別れたくない」
「え?」
「僕を、信じてほしい」
その声に、あたしはどうしようもない抗えない力を、頭の中に感じたの。



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