魔法の時間
1
 
 
 
本の背表紙についた小さな綿埃や、目の前の煙草の紫煙、そんなものを、ちょっと何でもなく払うようなガイの仕草に、どうしてだか、わたしは妙に引っ掛かった。
ほんの少しのざらりとした苛立ちと、「さあ、好きな場所で遊んでいらっしゃい」とでも、笑みをにじませた声で背を軽く押されたかのような、軽い寂しさと。
そんな気持ちの揺れが、わたしの心を揺さぶる。
大したことではない。
わたしがほろりと口にした、それでも勇気をひっそりと込めた言葉をガイに告げたときの、止められない笑いをやんわりと持て余しているような楽しそうなあなたの瞳。そのブルーグレイの瞳は、一瞬だけ瞬く。
「おやおや、何を考えついたの?」
たとえば、彼にとっては他愛のない数式を、目を閉じて解くかのような造作のなさで、さらりと流してしまうのだ。
「さあ、もうよいでしょう? あなたは僕に任せておきなさい」
その言葉が、微かに切なくて、そしてあっけなくいなされた自分の思いにはにかんで、結局わたしは、それきりそれに関した言葉を封じてしまった。
 
 
ぼんやりと書斎で、手紙の束を選別していたとき、お茶を持って現われたアリスが、お喋りに紛らせた言葉だ。
「…お庭の花のついた野草を、何でもよろしいのですけれども、ほんの少し束ねておくだけよいそうでございますわ。それを枕元に置いて眠るとよろしいそうでございます」
わたしは彼女の話を、焼き菓子を割りながら聞いた。口に運び、また一口熱い舌の焼けそうなお茶を味わった。
「何なの、それは?」
「おまじないでございます。楽しくてとってもよい夢が見られるって。アリスの幼馴染も試して、それは愉快な夢が見られたのだと聞きもますもの」
「あら、アリスは試していないの?」
「それは何度もやってみたのですけれども、こう目を閉じますでございましょう。すると、夢も見ないで、次に目を開けるともう朝なのでございます」
「それは残念ね」
うきうきとつなぐ彼女の言葉は、わたしの心をほのかに和ませた。いつしかほろっと自分でも思いがけない声がこぼれた。
「面白そうね、試してみようかしら」
お茶の後で、わたしは庭へ出てみた。シンガポアがドレスの裾にじゃれ付き、それを、人を呼んで邸の中に連れるよう頼んだ。あの子はふらりと庭へ出て迷子になり、二日姿を現さなかったことがあるのだ。
蔓ばらを這わせたバーゴラの側でしゃがみ、その辺りのハーブのような野草を摘んだ。
「奥さま、厄除けでございますか?」
庭師のジョンが、わたしの手の野草に目をやり、そんなことを訊く。
「厄除け?」
アリスはそんなことは言わなかったけれども。
彼は野草を束ねて枕元に置くのなら、厄除けだと言う。おまじないなのだ。夢見がよくなるほか、そんな効果もあるといわれるのかもしれない。
とりあえず、摘んだ幾つかの花を咲かせた野草を、邸に持って入り、ミニブーケのようにあしらってみた。りぼんで結わえ、それをやり直して麻紐に変えてみる。こちらの方が雰囲気のような気がする。
おまじないだなんて、まるでほんの少女のよう。
ささやかな気紛れな気晴らし。そんなことで、頭を不意にかすめたあの出来事がふっと軽くなるような。
それを寝室に持っていき、こっそりとわたしが休む側の枕辺に、他のサシェや何かに紛らせておいた。
 
 
この日、ガイの帰りは遅くなりそうだった。
わたしは一人の晩餐の後で、しばらく書斎で過ごし、マントルピースの火の側で華奢なバックを編んでいた。光沢のあるパールピンクのそれは、手のひらを広げたほどの大きさしかない。けれども小さなコンパクトとハンカチ、それに口紅が1本入ればいい。
きれいに編めたら、次の夜会に持って行こう。新しいあのドレスにも案外合うかもしれないから。
時を忘れて、けれども息をつめるように編み目をつなぎ、時計が深夜を告げ、手首が少しくたびれた頃に、わたしはそれをそのまま長椅子に載せたかごに置き去りにし、寝室へ上がった。
バスを使い、いつものように夜着に着替える。途端に襲う眠気に誘われ、ベッドに入った。
低く焚いた暖炉に火の優しい暖かさ。時折はぜる火のやはり心を潤すような音。それにつるつるとかかとを滑るシーツの心地よさ。それらにどこかうっとりと瞳を閉じた。
ガイが、早く来てくれたらいいのに。
 
 
不思議なことがあるものだと思った。
いつもなら絶対に自分より先に起き、こちらに朝のティーカップを差し出してくれるユラが、彼が目覚めた気配にも気づかず、ただ寝返りを打っただけで、こんこんと眠っているのだ。
化粧室から出たガイは、ジャケットを腕にし、片方の手首のシャツのボタンを留めながら、いまだベッドのユラを眺めた。
ぽんとジャケットをベッドの隅に放り、彼女の傍らに腰掛けた。半分横を向き、顔の付近で手のひらをシーツにぺたりと当てて眠っている。
髪を手に取り、それを指に絡ませ、そのまま背に滑らせた。しっとりとした首筋に唇を寄せ、口づけてからささやいた。
夜更け、既に寝入った彼女をそっと抱きしめて、可哀そうに思いながらも、それでもやはり何かささやき、起こしてしまう自分のおかしな癖を思う。
しどけなく無防備な、自分だけに見せる彼女の無垢な肢体に、彼はうっとりとなる。どんなことでもいい、自分へ何か言葉を言ってほしくなるのだ。
「ねえ、お嬢さん、まだ眠いの?」
彼の気配に、ユラが身じろぎをする。まだ言葉にならない音のような声がその唇からもれた。
「ねえ、具合でも、悪いの?」
普段と変わらない温さを持った頬に、指を這わせて撫ぜるガイの目の前で、唐突に彼女はぱっと瞳を開いた。
まぶしいのか、目を細めている。
カーテンはレースを残して厚い織り地は開け放たれ、そこから午前のさわやかな日が注ぎ込んでいる。
「もう九時になる。スープが冷めると、ハリスがやきもきしているでしょう」
瞬きを繰り返し、ほのかに唇を開いたまま、ただ自分をじっと見つめ続ける彼女を眺め、まだ十分に熱いお茶をその手に渡した。「ほら」と、彼が手を添えてやらなければ、ユラはうっかりとティーカップをシーツの上に取り落としてしまいそうだった。
「どうしたの? ぼんやりとして。まだ眠いの?」
何か言おうとして唇を開き、それから迷うようにまた閉ざしてしまう。瞳ばかりがうろうろとあちこちを行き交う。
「寝ぼけているの?」
ガイは、ユラが少し口を含んだなりのカップを取り上げ、ソーサーごとベッドの隅に置いた。
いつもの自分たちの間にある親密さや愛しさや、日々あるべき当たり前の仕草だった。彼女の頬を手指で挟み、紅茶の香りのするぬれた甘い唇に、口づける。
それほど眠いのなら、このまま眠らせてあげようか、とも思う。
不意に自分の左頬を打ったものに、ガイはまるで唖然となった。
「え」
唇が離れた。その刹那、きっと、こちらを睨むきつい二つの瞳が向けられたのだ。
ユラと同じ顔で同じ声が、告げる。
「無礼者」
その言葉に、彼は言葉を失った。




          


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