魔法の時間
2
 
 
 
自分の目の前の光景が、まるで信じられなかった。
それは、あたかも想像すら難い不思議な異国の風景で、ほんの側で長子の頬を挟むその殿方は、誠に珍しい瑠璃に似た色の瞳をじっとこちらに向けている。
驚くのか、そのきれいな瞳をただ凝らすように、瞬きもしない。
けれども、驚くのはこちらの方ではないか。
不意に、まったく不意に、この見知らぬ殿方は、寝覚めのまだぼんやりとしているわたしに、破廉恥に口づけたのだ。
それを感じるや、すぐに頬をぶってやった。なんて無礼なのだろう。長子は歴とした人妻であるのに。
「…お嬢さん?」
目の前を、彼の立てた指先が、ちらちら左右に行き交う。「これが見える?」と、そんなことを問う。
「見えるわ」
「ねえ、妙な夢でも見たの? あんまり僕を驚かせないでほしい」
ちょっとの嘆息の後で、彼は額にかかる髪をかきやり、困ったように、それでも少しおかしがっているように笑った。
彼の髪はほのかに光を受け、長子の目にまぶしい。きれいなその顔立ちに、うっとりするような淡い瑠璃色の瞳を宿している。
そして、長子に注ぐ視線は、どこまでも優しい。
はしたないけれど、目がぴたりと吸いつけられたようになる。
彼はわたしをなぜか「お嬢さん」と呼ぶ。まるでよく知る親しい人に対してのように、温かみのある声音で。
それから彼は、「妙な夢」と言った。それらに、昨日の出来事が鮮明に思い出され、そして今につながるのだ。
「あ」
大奥の女方に密かに流行っているという『夢うら』。
先だって御台様よりお聞きし、ふっと思い立ち、微かな興味で試してみたのは昨日だ。
人型の布を綿を入れ縫い、小さなお守りを作る。そしてそれを枕辺に置き、その晩に現れる不可思議な夢よって、吉凶やこもごも占いを立てるというもの。
長子のこしらえた人型は、紅葉のようにかわゆくて、ぷっくりと肥えた双子のようななりだった。その出来がとてもよかったのかもしれない。
だから、こんな素晴らしい夢見が叶うのだろう。
そうだ、ここは不思議な夢の中の世界だ。
そしてこの目の前にいる殿方は、わたしも知らないきっと不思議な異国の王子さまなのであろう。
その彼は、わたしに親しく口づけたのだ。まるで睦まじい夫婦であるかのように。
長子はおそらく、夢の中で彼の奥方になっているのではないかしら……。
目を転じると、誠に目に新しい物ばかり。第一、長子いるこの柔らかい場所は何だろう。気づくと、身に着けている物もぴらぴらとした白い風変わりな薄衣だ。そこから出る二の腕が露わになっていることに今頃気づき、恥ずかしさに腕を抱いた。
「お嬢さん、寒いの?」
抱いた腕をまたすぐ解いた。どうせ、ここでは本物の長子ではないことに気づいたのだ。きっとここで、彼の見つめる先の女性は、このような衣装を着て、火の燃える部屋に住まう異国のお姫さまなのだろう。
そんな思いつきが、わくわくと気持ちを躍らせる。
夢の中であるのに。夢の中でだから、この奇妙な出来事が、おかしくて楽しい。
どんな夢うらの見立てであっても、ひどくおめでたい夢に違いない。そうに間違いない。
たとえば、伊織の御役職に暇が出来、ゆるりと過ごすことがかなうとか、たとえば、遠くなく、わたしが、また伊織の子を授かるのであるとか……。
きっとこれはそんなおめでたい卦なのだ。
わたしは立ち上がり、ふかふかするその布の上で、とんとんと飛び跳ねてみた。誠によく弾み、面白いように幾度も跳躍できる。
上へ下へ、長子の身体が跳ねるたび、まとった白の優しげな衣装が、ふうわりと風を抱いてふくらんで広がる。
それを素肌の脚に感じるのも、心地がいい。
「…お嬢さん……」
ふと、こちらを眉根を寄せて見ている、硬い表情の王子さまと目が合った。機嫌のよさの流れで、にっこりと微笑んであげると、どうしてか彼はため息をつき、手を額にやったまま、軽く首を振った。
 
 
頭の後ろに当たる硬い物が障り、わたしは目が覚めた。
その途端、きゅっと髪束を縛られている、妙な感覚があった。手をやると、おかしなことに、わたしは髪を垂らしていない。覚えもないのに、ぽっこりと結ってあるのだ。
薄く日を通す部屋に身を起こして、そこで目の前がまっ白になるほど、驚いた。胸をぎゅっと搾られるような、恐怖に近い驚愕。
一瞬、恐ろしい過去に紛れ込んだのかと思った。
「まさか…」
大丈夫、絶対にわたしはあのロイヤルブルーの列車に乗ってなど、いない。知らない。大丈夫。
それから、わたしはいつもの寝室ではなく、どこか知らない和風のお座敷にいる。これはおかしい。
上を見れば、見事な欄間が目に入り、背後を見ると、赤い山茶花の描かれた四角い軸と、磁器の花器に活けられた桃色の花のある床の間が見える。
まず第一、自分の姿がおかしいのだ。白い浴衣を着、髪を結っている。そして、わたしは延べられた布団に身を起こして、それで……。
「…何だ? 早いな」
不意に側で声が聞こえ、小さな悲鳴が出た。声の主は、ちょうど今、床から身を起こしたところだった。欠伸をもらし、片膝を立て、同じく白い浴衣の腕を伸ばし、伸びをしてからわたしを見た。
「どうした? そんなびっくりした顔して」
「ほら」と彼が伸ばした指で、わたしの顎をつまんだ。すっきりとした鼻梁のハンサムな男性だった。髪は黒く、そしてそれが、おかしなことに髷に結われている。まるで江戸時代の人のように。
「何だ? まだ寝ぼけているのか?」
「え」
「そんな顔をしている」
ゆらりと身体が傾いだ。引き寄せられ、ぽんと彼の白い浴衣の胸に、わたしの頬が当たる。わたしの首筋にほのかに残った後れ毛を、彼は指で弄ぶようにし、
「姫はまだ寝ていればいい」
「あ」
「姫」と彼はわたしを呼んだ。
漠とした思考で、うろうろと今の自分を考えている。あり得ない場所で、あり得ないものに包まれたわたし。
そしてガイではない、見知らぬ男性に、こうして親しげに抱き寄せられている。まるで彼の愛する妻であるかのように。
これは…、
夢?
そう辿り着いた思いに、わたしは昨日のおまじないを思い出すのだ。
『楽しくてとってもよい夢が見られるって…』。そうアリスは言っていたではないか。
これは夢だ。
儚くて、すぐに果てる夢。だからわたしはこんな不思議な場所にいる。
そう確信に近く思うことで、やっと気持ちが凪いだ。落ち着いてくる。怖くなくなる。
「あの…」
腕の温もりと優しさにはにかんで、わたしは少し身を離した。顔をほんのり背け、何となく条件反射のように、彼の声に「大丈夫」と応えていた。
きっとわたしはこの夢で、この素敵な彼の奥方であるのだろうか。
ほどなく、襖の向うで女性の声がした。
それに彼は身を離した。ぽんと頬を指の背で撫ぜるように軽く叩き、「無理しなくていい」とつぶやく。
きっとこの人は、奥方にとても優しいのだろう。そして彼女は、彼のいたわりを必要とするかよわい女性なのだろう。
彼が立ち上がり、襖の向うへ出て行った。わたしはそのすんなりとした背中を布団の上に座ったまま見送り、部屋へ声をかけた女性が、彼を「ショウショウさま」と呼ぶのを耳にした。名前では変であるから、この世界の階級の「少将」だろうか……。
きっと、今奥方の役目のわたしも、そう呼ばなくてはいけないのだろう。当たり前にそう合点した。
 
 
珍しいこともあるものだ、伊織はそう思った。
朝は彼が起き出すその気配で、ころころと何度も寝返りを打つ。そうやって布団を抜け出すのを繰り延べしている長子が、今朝は彼が目覚めるよりも早く身を起こし、床の上にきちんと座っていた。
稀にはそんな日もあるだろう、そう思いはするが、では今の目の前の光景は何であろう。
彼の早い朝餉の間は、眠がりの彼女は、いまだ布団でころころしている時間のだ。そうやって過ごし、そろそろ出かける、と言う頃合になってようやく見送りに出てくる。子供らの事もあり、来ないこともある。
なのに、今朝は一体何の先触れであろうか。
既に身を整えた長子が、今彼の傍らに座り、慎ましやかな挙措で茶を用意したり、彼の手にきれいに盛ったご飯茶碗を載せてくれるのだ。
(おいおい…)
普段彼女の振る舞いに、取り立て何も思わない彼も、この朝の長子にはいつにない違和感を持つ。ほんのり風邪引きの先触れかのように、背中をちょっと寒いものが撫ぜたような、落ち着かない心地がする。
何のねだりごとかとも思う。
たとえば、彼女がまた町道場に剣術指南にでも行く気であり、その許しが彼からほしいのであるとか、懇意の橘家の当主とどこかに出かけでもしたいのか……。
おかしな無理難題を胸に抱えての、今の奇妙なばかりのしとやかさではないか。
(気味が悪い、口で言え)
食事の後で、彼が出仕の仕度に衣装の裃を身にまとう間も側に控え、いつ習得したのか、女中の手を借りながら、そつなくその着替えを手伝った。
ここにいたって、伊織はちっと舌打ちをもらす。
女中を手振りで下げ、襖が閉まるのを待って、彼女に向き直った。扇子を握ったまま腰に両手を置く。
「俺に、何か言いたいことがあるのか?」
「は?」
彼女はきれいに膝をそろえたまま、立って自分を見る彼を見上げた。
いつもの長子とその姿や形が、どこか違うといえば、見つけられない。表情にほんのり元気のない程度か。
けれども、やはりおかしい。可愛い唇からぽんぽんと飛び出す、おかしな言葉も今日はない。
「何でも聞いてやる、だから言ってみろ」
彼が見守るそのほんの側で、長子はしばし瞳を泳がせたのち、膝の指を絡め、それから彼を見上げた。
迷うように唇を開き、まなじりに初々しい妻の恥じらいをにじませ、
「…行ってらっしゃいませ、少将さま」
その声に、彼は手の扇子を畳に取り落とした。
「あ?」



          


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