魔法の時間
〜番外編 『見つめるだけの』より〜
 
 
 
まぶしい夢だったと思った。
目が覚めて、すぐ自分の周囲が、見慣れた衣や、桟の細やかな障子の具合、金糸の織の畳の縁などを認め、夢が覚めたのを知った。
うたかたのようで、たっぷり宵の間続いたかのような。長子が長子でなく過ごしたあの世界は、輝くような目に珍らしいものばかりがあふれていた。
暖かな部屋の一隅では火が燃え、あまりの奇妙さに興が乗り、わたしは手を触れようとしたのだ。熱いなど、思えなかった。誠の火などとは思われなかったのだ。
だって、夢であるのだもの。
その長子の振る舞いを、あの瑠璃の瞳をした殿方は止めた。『危ない』と、どうしてか彼は慌てた様子だった。こちらを見る表情は、困っているような、どこか持て余しているかのような……。
何とはなしに、あの「王子さま」の瞳に映る、長子ではない長子は、いつものあり様ではなかったのかもしれない。そう思う。
普段の彼女は、彼の前で、女子らしく慎ましく、おとなしく振舞っているのだろう。それは決して装った姿ではなく、芯から自然ににじむ所作なのであろう。
だから長子の振る舞いに、あんなにも戸惑ったように瞳を細めて……。
そこまでをつらつらと辿り、覚めた夢のお話であるのだと思い出す。その確かな証拠に、枕辺には、長子が夕べひっそりと置いたなりの、『夢うら』に用意した人型の人形がある。
それを手に握り、ころりと寝返りを打った。時刻の頃は辺りの明るさと、障子を越して届く光の具合で、昼に近いのではないか、と思えた。
伊織はとうに寝間を出ていないし、きっともう出仕した後なのだろう。
長子は登城する彼を、見送りさえしなかった。珍しいことではないけれど、やんわりと後ろめたい罪悪感があるのだ。
別に具合も悪くなかった。ただ、起きられなかっただけ。夢を見ていただけで…。
伊織はそんな長子が気にもならないのか、これまで何の注意もない。確かに、わたしがきちんと起き出していたとしても、そうでなくても、彼には何の支障もない。どこか実際的な彼には、その事実だけで、長子の振る舞いはどうでもよいのかもしれない。
わたしを「大きな猫みたいなもの」だと思っているという伊織。意地悪な言い草であるけれど、その彼なら、寝坊したわたしのことも、「猫はよく寝るものだろう」などとけろりと流してくれるのかもしれない。
いつになくそんなことをくどくどと考えてしまうのは、夢の影響だろうか。何だろう。
置きだすため、人を呼ぼうとして、止める。何だかもうちょっと、こうやっていたいのだ。どうせ伊織はいないし、次、いつ帰ってくるかもわからない。双子も杏も乳母がある。様子は見に行きたいけれど、今でなくていい。
またころりと寝返りを打った。
そのとき、布団の中がもそっと動いた。生暖かなものが、長子の身体に沿って、くすぐったく動く。
驚きに小さな悲鳴を出せば、すぐにひょっこりと、他愛もなく杏が顔を出した。いつの間にか寝間に入り込んでいたみたい。
甘えた声でころころと笑いながら、わたしの首にしがみついてきた。仕草が愛らしく、抱えるように腕に包んでやる。
「母上、ごびょうき…?」
「え」
日も高いのに横になっているわたしが、幼い目にも不審なのだろう。誰彼がそう言い含めたのかもしれない。
「大丈夫よ」
杏の登場に、さすがに不貞腐れ気分も薄らいだ。おなかも空いた。そろそろ起きようと、身を起こすと、今度は襖が開いた。
現われたのはまったく意外にも、伊織で、彼は出仕姿の裃のまま片方の肩に尚を乗せ、誓を腕に抱いていた。
「あ」
もうとっくに出仕したのではないのか。なぜ、ここにいるのか。
ぽかんと、わたしは彼を見つめた。その間に、杏が父上の姿に興奮し、「きゃあ」と変に高い声を出した。それに呼応して双子もぎゃあぎゃあわめき始めるのだ。
一瞬で、賑やかな祭りのような家内を挙げての行事準備のような、そんな騒ぎになる。
耳元で、いきなりとんでもない双子の声を聞かされた伊織は、眉をしかめ、ひっぺがすように肩と腕から彼らを下ろした。
「うるせえな、お前ら」
伊織の声もものともせず、双子は這ってこちらへやってきた。膝にそれぞれ乗せ、抱いてやる。そこに杏がぎゅうと割り込んだ。
「杏も」と言う声が、誠にかわゆらしい。
伊織は床の傍らに腰を下ろし、わたしの頬に手を伸ばした。てっきりいつものように、頬をぷみっとつままれるか、ぺちりと叩かれると思った。
けれども彼はそうせず、膝の双子と杏を抱いた腕にちょっと触れただけだ。
「もういいのか?」
「え」
何がいいのかわからない。寝過ごしたわたしを、きっと体調が悪いとでも思っているのだろう。案の定伊織は、まだ寝ていればいいと言う。
「あまり、俺を心配させるな」
「え」
単純に夢身がよくて寝過ぎただけであるのに。恥ずかしいので、彼の誤解のままにしておいた。
ぶっきらぼうに言葉は少ない。
けれども気遣ってくれるその気持ちが、言外ににじむ。長子には、それが甘いくらいに嬉しい。そしてこんな日の高い頃合に、彼が出仕をせずにいることも、珍しくも、やはり嬉しい。もしや伊織は、わたしが具合が悪いと思い込んで、出仕を遅らせてくれたのかもしれない。
「平気。ねえ、伊織はお城に出仕のはずじゃないの?」
「ああ、じき行く。人を待たせてある」
「ふうん」
そう言い、袴の片膝を立て、立ち上がりかけた伊織の姿に、微かにきゅんと胸が痛んだ。
あの夢の中で瑠璃色の瞳の王子さまは、長子ではない長子に、こうささやいてくれた。
『僕がそばに付いていてあげるから』。
じんわりと、今頃それが長子の耳に切ないのだ。伊織は、そうわたしにそうささやいてくれたことはない。
まず時間が許さないのだろうし、そんなことが長子を嬉しがらせると、もしかしたら、思いも寄らないのかもしれない。
きっとねだっても、軽く笑うだろう。「出来ない約束がほしいのか?」とも、冷たく返すかもしれない。
腐れ老中め。
伊織はふと、中腰の姿勢でわたしにぽんと手のひらの何かを投げた。それは白い小袖の胸に当たり、双子の頭に落ちた。『夢うら』の人型だった。
「何のまじないだ? それで俺を呪うつもりだったのか?」
そんなことを、からかいを交えて笑うのだ。
やっぱり意地悪老中め。
「じゃあな」
そのまま彼は立ち上がり、当たり前のようにあっさり長子に背を向ける。
肩衣からのすっきりとした伸びた背中。凛として、余計なものを払うように厳しいその背中。
それはわたしの目に、今でもまぶしい。大好きな、凛々しい伊織の姿だ。
けれども、それと同じほどの量でときに、長子の胸にある寂しさを呼ぶ。
『僕がそばに付いていてあげるから』。
あの声は言ってくれた。長子ではない長子に。その言葉を当然に受ける人を、どのような女子かとも思う。そしてひどく羨ましいのだ。
伊織がその背を向けたのであれば、もう振り返りはしない。手にした重責と、抱えた御役目の事柄で、きっと伊織の周囲はすっかり埋められてしまう。それは袖を引けば、何か文句を言ってやれば身を翻しはするだろう。
でも、自分からは踵を返してはくれない。
いつ帰ってきてくれるのだろう。
そんな言葉にならない、出来ない、わがままと甘えと、それから焦れた切なさの混ざり合った気持ちで、遠くなる彼の背中を見つめる。
襖を開ける手を止め、本当に不意に伊織が振り返った。その仕草に、長子の胸が、驚きと喜びで弾んだ。
「今夜帰る」
 
「あ」
 
唇が半分開き、何か告げようとした。それが言葉にならない。
それで、わたしはせめて見送ろうと、膝の子供たちをどかせ、寝間のままでははしたないかとも思いながらも、膝をそろえ、その前に手をついた。
「ああ、止めろ。止めてくれ」
「頼む」と、なぜか見送りの挨拶を、彼は止めさせるのだ。何が気に触ったのだろう。「そのままでいろ」、「それ以上動くな」と誠にうるさい。
おかしな伊織。
それでも襖の向うに彼の姿が消え、いつもなら、ぽかりと空いた自由な時間と空間に思いを馳せるのに、今朝は違った。
伊織が帰ってきた、宵の二人の時間を思うのだ。
何を話そう、何を伝えようか。
そして、一つ二つの甘いねだりごとを思う。
嬉しい。
その気持ちに、頬がほろりと緩む。
それぞれ布団の上で転がり始めた子供らを腕にかき集め、抱きしめた。わたしを包むのは、優しい甘い匂い。





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