魔法の時間
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案の定、ガイがユラの身をふわりと抱き上げれば、いやいやと身をよじり、足をばたばたと振り抗う。「下ろして」と騒ぐのだ。
「放して、王子さま、意地悪。腐れ…」
そう罵りつつ、彼の緩くシャツの首に回したなりのタイを引っ張り放り投げ、盛んに腕をぶつ。
ガイは彼女の抵抗に構わず、そのままベッドまで運び、その上に身体を下ろした。
理由が何であれ、彼のことを「王子さま」などと意味不明に呼びかけ、おかしな振る舞いをやめない彼女を、このまま見ているのはちょっと悩ましいのだ。
途端に起き上がろうとするユラに、彼は覆い被さるようにして彼女の手首をシーツに押し付けた。
彼女が混乱しているのは間違いなく、とりあえず安静にさせるしかないだろう。そう決めた。今の彼女には、とても階下に降り、食堂で静かにきちんと座り、給仕される食事などのんびりとできそうにもない。
「無礼者」
自分を力で押さえつける彼を、ユラは遠慮なく下から睨みつけ、盛大なふくれっ面を見せた。
「僕の何があなたに無礼なの?」
ガイは声を落とし、やんわりと諭すように、少し休みなさいと言った。「僕がそばに付いていてあげるから」
その声音にどんな作用があったのか、いつものユラが目覚めたのか、不意に彼女は力を抜いた。おとなしく身体をシーツの上に伸ばし、ただ顔だけはつんと唇を尖らせる。ほどなくすると、それも緩め、
「ねえ、これは『幸せ』だということ? それがあなたのくれる意味なの?」
その言葉の意図が、ガイには十分に読めない。けれども、彼はそれにそれ「ええ」と易く返した。
いいではないか。彼女がたとえば何か、小さな不安の泡を心の中に浮かせていて、それが彼の言葉や慰めで消えるのならいい。
「ふうん」
ユラは満足したのか瞳を閉じ、うっすらと頬に笑みのようなものを浮かべている。自分が側にあることが、嬉しいのか。言葉ではなく、そんな心の様子をうかがわせる彼女の表情は、ガイに、ひどく可憐で愛らしい。
すっかり弛緩した彼女の身体に、彼は手首を抑えた手を外した。その空いた指先で、彼女の髪に指を絡め、ほんのりとばら色に染めた頬に滑らせた。
身を起こし、傍らに腰掛け、
「ねえ、お嬢さん、何かあったの?」
ささやいて彼女に目をやれば、もう既に、落ち着いて静かな呼吸で眠る彼女の姿があった。
 
 
目が覚めて、すぐに視界に入ったものに、わたしはふっと心が楽になった。見慣れた透けるレースを合わせたベッドの上の天蓋、それから身を包む優しげな夜着の肌触り、自分の垂らした髪にも触れ、夢の果てに笑みがもれた。
いつもの朝よりも、光の気配が濃い。自分は寝坊でもしたのか。身を起こしつつ、既に隣りにガイの姿がないこと、それからチェストの上の銀時計のとうに昼近い時刻にはっとなる。
なぜ寝過ごしたのだろう。おかしくて妙な夢のせいだろうか。早く着替えなくては。
どうしてガイは起こしてくれなかったのだろう。
初めてのことに、恥ずかしさと軽い焦れと、微かな苛立ちがない交ぜになる。
「あ」
ベッドを出ると、まったく意外なことに、テラスを背にした長椅子にガイが脚を伸ばしていた。肘掛に足首を乗せ、本のページを繰っている。
こちらの足音に身を起こし、「起きたの?」と問う。
「ええ、ごめんなさい。わたし、寝過ごしちゃって…」
腕を抱き、そのまま化粧室に向かうわたしの肩を、彼が引いた。「もういいのですか? 具合はどう?」
「え」
なぜそんなことを訊くのだろう。彼は口許を楽しげに緩ませ、何かおかしさを堪えているように、わたしを見つめる。
「大丈夫、なあに? ガイ」
怪訝で問うと、彼は「覚えていないの?」と、ちょっと肩を揺らして笑う。
「なら、いい。済んだことだし…」
その語尾の気配に、わたしをのぞくブルーグレイの瞳の加減に、堪えかねた笑いが露わで、わたしは居心地が悪くなる。
寝ている間に何かあったのだろうか。
「ねえ、ガイ」
何が済んだのだろう。ひどく気に掛かり、訊いても彼ははぐらかすばかり。
「着替えていらっしゃい。僕も朝食を食べ損ねた。一緒にこれから昼食を…」
「ねえ」と、彼のシャツの胸に指を置き、そこで気づく。タイがない。それに、なぜか襟元のボタンも一つなくなっている。
「脱いで、新しいのと替えましょう」
アリスに頼むまでもない。後で、自分で縫おうと思った。それにしてもボタンはどこに行ったのだろう。
急いでの身づくろいで、慌ててまとめた髪の様子を気にしながら、ガイに腕のシャツを渡す。
そのシャツに袖を通す彼の背に、もう慣れたあの傷が見えた。襟許からわたしがボタンを留めてあげる。
袖のボタンを留めながら、ガイは瞳に笑みを貼り付けたまま、ぽろりと妙なことを告げた。
「暴れん坊のお嬢さんより、僕は今のあなたがやっぱりしっくりくる」
何を言っているのだろう。
「なあに?」
「本当に覚えていないの?」
そう笑いに紛らせる彼に、ねだりながら幾度も問うと、とても信じられないことを教えてくれた。
わたしが寝坊をしていたと感じていた間、まるで別人になったようなわたしがいて、散々ガイを振り回したのだという。
裸足でテラスに出て駆け回り、暖炉の火に触れてみようとしたり、または制止する彼に「無礼者」と騒いだ……。
一番堪らなかったのが、わたしが彼をどうしてか「王子さま」と呼んだことらしい。
「いやはや、あれには正直参った」
くすくすと笑みをもらす彼に、わたしはぷっとふくれ、そのまま背を向けた。その背に「あなたは王子と親しいから、僕と間違えたの?」と、やはり笑い声が降る。
「ねえ、どこからあんな呼び名を持ってきたの? 僕はそれが知りたい」
「嘘ばかり。知らないわ。からかって、嫌なガイ」
恥ずかしさと、訳のわからない誤解が不快で、それきり口を閉ざした。
きっと珍しく寝坊したわたしを、面白がっておかしがって、あしらうつもりでそんな作り話をするのだ。
意地悪。
ふと、目を転じた先のテーブルの下、絨毯の床に、彼のダークブラウンのタイがなぜか落ちているのが目に入った。
 
 
午後から大学に出かけた彼は、そのぎりぎりまで、ときに淡い笑みを引きずってわたしを見た。
それが恥ずかしく、気まずく、意味もわからず嫌で、気持ちをほんのり尖らせてしまう。
夕暮れから降り出した粒の小さな雪が、ふわりとガラス窓をまだらに染める。一人の晩餐を済ませ、書斎で編みかけの小さなバックを仕上げた。光沢のあるそれは、愛らしく仕上がり、ささやかな苦心がすっかり報われる。
ガイへのおかしなわだかまりも消えそうになる。ジュリア王女にも、一つ編んであげよう。彼女がくれた香水のお返しに…。
それでも、あなたのからかう顔を見たら、唇に乗せた彼にもどうしようのないおかしさを感じたら、またわたしはひっそりとふくれてしまうかもしれない。
軽い腹立ちに、ひっそりと唇を噛んでしまうかもしれない。それはガイが嫌いな癖だ。
そんな仕草を見せたくないと思い、それでもやはり彼のせい、とやり場のない思いが、重くなくけれどもしっとりと胸に広がっている。
たとえばそれは、腕をつねることで、やんわりとあなたの肩に歯を立てることで、癒されるかもしれない。
 
バスタブに、枕辺に置いたきりのあのおまじないのブーケを入れてみた。身を浸すとほのかに湯気と相まって、清々しい緑の香りが上ってくる。
その香りのするお湯にシャボンの泡が混じり、手のひらにすくい、息を吹きかけると小さなシャボン玉が飛んだ。
それがきれいで楽しくて、幾度か繰り返した。儚く消えてしまうシャボン玉は、今朝見たあの不思議な夢を思い出させる。
夢の中で、そのどこか遠い時代にわたしの意識があって、側にはわたしを「姫」と呼ぶ彼がいた。こちらを見る瞳は、その表情も涼しげで、癖のように凝らすと、少しきつい印象になる。
そんな彼はうたかたの「妻」のわたしに、優しさを見せてくれた。気遣う気配も、言葉の端にもれる愛情も、それはこちらの心に伝わった。
夢であるのに、少々胸がどきりと鳴るほどに。
素敵な彼の、視線の先の知らない自分の名が知りたくて、「何でも叶えてやる」と言ってくれた彼に、わたしは願い事をした。名前で呼んでほしいと。
「ながこ」と彼は、わたしを呼んだ。ごくわずかな、多分彼にも感じない含羞を瞳ににじませて。
「ながこ」とはどんな字をあてがうのだろう。祥子、長子、なが子……。
そんなことを思い巡らせると、ふっと音がした。扉を開けるような、閉じるような。
着替えの用意で、アリスが忘れたものがあったのかもしれない。カーテンの向うの気配に、わたしは慌てなかった。ほどなく「奥様、失礼致します」とでも、声がするはず。
その前にわたしは、彼女に髪を束ねるタオルを取ってもらおうと、声をかけた。
「ねえ、アリス」
甘い香りと湯気が舞う、オレンジ色の柔らかな照明の満ちたバスルーム。そこにその声の返事は返らない。代わりに、じゃっと軽い滑りで、あっさりとカーテンが引かれた。
首に回ったシャツの腕に、弾むように胸が鳴った。
「あ」
今帰ったのだろうか。問うとして、肌の上のくすぐったさに別の小さな声がもれた。
ガイはわたしの背後から手をお湯に浸した。乳房の辺りで浮いている海綿を取り上げ、緩く水を絞り、わたしの肌にあてがった。
恥じらう気持ちと、ときめきが、瞬時に身体をしんなりと染める。
「ねえ、お嬢さん」
頬に寄せられた彼の唇。そしてキスは首筋に流れてつながる。暖かな手のひらが、ふうわりと乳房に触れて包んだ。
「いい匂いがする。あなたの香りだ」
「嫌だ、ガイ…」
瞳を合わせるのが恥ずかしいのに、強くない優しい抱擁の仕草に力に、わたしは抗えないのだ。
「こっちを向いて」
「シャツがぬれるわ…」
「構わない」
ぬれた素肌を抱きしめられ、重ねたキスは、恥じらいと瞬きとともに、吐息に混じり、わたしを溶かしていく。温かなお湯に、彼の腕にとろけるようになる。
嬉しいと思った。今満たされた自分を、確かに幸福だと思った。
ささいなこだわりも、彼のくれる注ぐ幸せに、なじんでほどけて、お湯に溶かしていく。
「何かあったの? 聞かせて」
わたしの浮かない表情を、どこかで気にかけてくれていたのだ。それでいい。そのあなたの気持ちだけで、凪ぐから。大したことではないもの。
「ううん…」
「隠さないで」
言葉に、そして彼がやんわり首筋に歯をあてがったから。そんな愛撫に、閉ざした唇が動いた。
「あのね…」
ガイの渡してくれた不思議な懐中時計のこと、次にその鏡に映った誰かを、彼ではなくわたしが迎えに行きたいと、ほんのり勇気を込めて願ったこと。それを彼はあっけなく、あしらったこと。
「駄目ならいいの。…あなたがわたしには無理だと思うのなら…。ただ、笑わないでほしいの」
「…行かせたくない」
「え」
「あなたにもう二度と、あの列車に乗ってほしくない。あなたが、それを僕のエゴだと感じてもいい」
ガイの言葉に、わたしは声を失った。わたしの願い、それに感じた彼の思い。それは今このとき、重なるように触れ合って、わたしの胸を、つきんと刺すほどに響いて届く。芯を甘く震わせる。
「ええ」
それにようやく返したのは、そんなありふれた答え。彼の「新聞を取ってくれますか?」の問いや、煙草をくわえ「お嬢さん、火を点けて構わない?」と断りを入れる、そんな簡単な事柄の返しのよう。
味気のない自分の言葉に、歯痒くなる。
彼の首に腕を回したまま、わたしは頬を、もうぬれたシャツに押し当て、心に秘めていた、まだはっきりとしない、けれどおそらくそうであろう、あることを打ち明けようと決めた。
告げるのは早いと、繰り延べしていたけれど、どうしてだろう、今伝えたい。彼に知ってほしいのだ。
 
「ねえ、……あなたの赤ちゃんが、いるの」
 
そのささやきに似た秘め事を乗せた声は、湯気に絡み、甘い香りに一瞬に消えた。
わたしの声は届いただろうか。返事がない。
繰り返すのは恥ずかしく、ためらわれ、聞きもらしたのだろうか、言わなければよかっただろうか、とくるくると思いが巡った。
「あ」
ふわりと腕が肌を滑って解かれ、ガイの手がわたしの頬に触れた両手で挟み、わたしの好きなブルーグレイの瞳を据えて見つめるのだ。
ほんのりそれは細められ、その端に優しさとくれる愛情をのぞかせて、わたしに注ぐ。わたしだけを見ている。
「ありがとう」
堪らない、込み上げる嬉しさに、不意に目を涙がにじんだ。それは視界をぼやかせる前にあと言う間に嵩を増し、瞳をあふれ、彼の指先をぬらす。
「愛している」
その彼の間違いのない声に、わたしは重ねたくなった。自分の声と心を。
「ガイ、あなたを、愛しているわ」




長らくおつき合いをいただきまして、誠にありがとうございました。



     『魔法の時間』番外編へ♪ 長子&伊織サイドです。     
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