とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜
 
1
 
 
 
それは、やけに長く続いたに思いもした冬の気配が、ようやく遠のいた頃のこと。
朝な夕な、寝床の中の手足が伸びやかに、うっとりとなる春の心地よさ。悪い癖ではあるが、うっすらと目覚めつつも、わたしはそのまま易く身を起こすことをしない。
隣りで、彼が早々に起き、寝返りを打ちうつ伏せになって煙管に火をつける気配がした。かちり、とそれは音で朝の始まりを告げてくる。
寝間で、うつ伏せたまま煙管をくわえる、武家らしくないみっともない癖が伊織にあることを知ったのは、いつからだろうか。夫婦になり、すぐの頃は知らなかったはず。どれほど後のことだろう。
彼はお城に泊まりがちでもあり、よく覚えがない。案外あちらの御用部屋などでは、当たり前の姿なのかもしれない。
彼のその煙管の煙が不快なのではない。結い髪が乱れ、頬に触れくすぐったかっただけ。わたしは身をよじり、寝返りを打った。
そこへ、裸足の足先がこちらの膝裏を蹴ってきた。「おい」と、あれこれを省いた声で問い、その足が遠慮なく裾を割るから、当然に流れてくる煙の存在も、ちょっとしゃくになるのだ。
「起きてるんだろ?」
「ううん、寝てるの」
わたしの声に、伊織は欠伸交じりの笑いで返し、身体を起こした。煙管の灰を捨て、そのまま襖を開け出て行くのがいつもの倣いなのに、この朝彼はそうせず、
「しばらく、帰らない」
と言い置いた。
珍しくもない言葉が、このときは妙に胸に響いた。まだ、抱き合った数刻前の余韻が残るから、なのかもしれない。
そんなことを、ひっそり恥らいながら噛みしめてみる。
「しばらくって?」
「寝てるんじゃなかったのかよ」
伊織の軽い笑い声に、わたしは身を背けたまま。頭を布団ですっぽり包んで唇を尖らせる。
「今、覚めたの」
「ふうん」
気のない返事に、煙草盆に灰を捨てる、かんという金属の音が耳を刺した。
伊織がいないのはいつものこと。何ら、変わった出来事ではない。それでもわたしは、なぜだか常ない苛立ちを声に上せ、布団でくぐもった罵りを、彼へ浴びせていた。
「寝起きだとか、夜更けだとか、長子がぼんやりしているときを狙って、いつもいつも、そんな面倒なことを言う。言ったら、もうそれで仕舞いだと思ってるんでしょう? 言い返さないと思って。放ったらかしにして…」
言い募りながら、伊織が帰宅しても、幕僚連や来客が取り巻き、自由な時間を持てるのは、決まって夜更け頃からであるのを思い出してしまった。
あ、と思ったが、妙な気の昂ぶりに、浮かぶ詫びる健気さも、ごく小さな決まり悪さでしかない。
「あ?」
やっぱり、伊織からは嫌な問いが返ってくる。
そうであるのなら、と。
口で伝える暇がないのであれば、文にしてくれればよいではないか。彼の親友の沢渡俊輔殿は訪れに間が空けば、恋人の牡丹へ、即興の歌を添えて文を贈ると、いつか聞いた。
それを聞いた際、微笑ましさの他、取り立てわたしは羨ましくも感じなかったというのに……。
伊織が、わたしにそんな振る舞いをするはずがないと知っていたし、また、奇跡が起きてそんな文を彼からもらったとしても、嬉しさよりも奇妙な滑稽さが沸き立つような気がしたのだ。
なのに、そうであるのに、文をくれなどと、おかしなことを考えたりなどしている。
ちっと、わずかに苛立ったときの、彼の癖の舌打ちが聞こえ、わたしは惨めな気持ちになった。
朝っぱらから、寝間でのんきにこんな愚痴っぽいことを口にする、およそ武家の妻女らしからぬ、浅慮な長子に苛立っているのかもしれない…。
でも、そういう長子がいいと、妻にしたのは伊織ではないか。「そのままでいい」のだと…。
思いがけず涙ぐみ、しゅんと鼻をすすった。
いきなり、頭の布団を引っぺがされ、まぶしさに目を瞬かせる。中庭の日を、取り込んだ障子から、既に朝の日が部屋に差し込んでいた。
「起きたか?」
問いながら、傍らの彼は返事など待っておらず、顔を背けるわたしを、強引に引き寄せた。
手のひらで頬を押さえ、動かなくさせる。
「何が気に入らない?」
手の加減や仕草は乱暴であったのに、言葉は案外に優しい。伊織の折に触れたこんな不均衡に、わたしの気持ちはふわりと和み、ほんのりと華やぐ。
わたしは照れ隠しに瞳を泳がせ、彼の単衣の寛いだ襟元を見ながら、「好きにしたらいいでしょう」などと答えた。
拗ねた返しに、伊織がちょっと笑う。手のひらの中のこちらの耳を、ほぐすように弄ぶのがくすぐったい。
どうせ、御役目なのだ。彼の不在に長子が面白くなくたって、ふくれたって、敵わない。
けれどもこうして抗うように、気持ちを波立たせてしまうのは…、きっと知っていてほしいからなのかもしれない。
ただ、彼のいない空間に甘んじているのではなく。ふくれつつ、拗ねながら、味気なさにため息をもらし、それでも堪えて待っているのだと、長子は知っていてほしいのだろうか。
そうなのかもしれない。
「どうした?」
少女じみ、甘ったれた空想を知れば、伊織は笑うだろう。呆れるかもしれない。
それでも、そんなわたしの心のあり様を、知っていてほしい。やや笑みを浮かべ、こちらをのぞく彼の瞳を感じながら、しみじみとそう願う。
「なあ…」
返さないこちらの声を探るような口づけを受けながら、ちょっと貪るようなそれに、胸をとどろかせ、わたしは気づく。
あ。
わたしの思いなど、伊織はとうに知っているのだ。
きっとそう。
 
 
初めて足を踏み入れた芝居小屋は、思っていたより小規模だった。区切られた席がひしめくように並び、そこにはぎっしりと人々が詰めている。
桟敷の席などは長子には珍しく、目を見張ったけれど、それも幔幕や壁の掛け物などの効果であるように思えた。
小屋よりも、思い思いの衣装をまとった観客の居並ぶ景色の方が、かえって華やかに、ちょっと壮観にも映る。
「お姫様、こんな物で、よろしゅうございますの?」
わたしの隣りに、この日は遠慮がちに座る牡丹の姿がある。町方風の控えめなこしらえで、どこかの大店の品のいいお内儀のように見えた。
「急ぎのことでしたので、人づてにこちらの花邑座のを取ってもらいましたけれど、お好みに合いますか…」
芝居など目にしたこともない、といういつかのわたしの言葉を覚えていた彼女が、急遽芝居見物を思いつき、こうして連れ出してくれたのだ。
牡丹の言う「こんな物」が、最前配られ膝に置いた、まだほんわりと温かい塗りの箱を指すのには気づいたが、それが、どうしてこんな物であるのかがわからない。
早く蓋を開け、中に詰まった弁当をのぞきたかったが、周囲の人を見れば、話しながら扇子を使ったり、煙草を呑んだり。早々に重の蓋を開けている人など見えない。
「お弁当のない人もあるわ」
重の蓋を叩きながら他の人々をうかがう。きょろきょろ落ち着かないわたしがおかしいのか、牡丹はくすくす笑い、
「豪勢な仕出しを長々運ばせるお大尽もあるのですよ」
「ふうん」
牡丹は芸妓の身で、これまで芝居小屋には来たことも多いのだろう。今日の演目の話や、役者のこと、あれこれと説明してくれた。
「ことに、高嶋円之助は今話題の人気役者でして、出てきたらおわかりになりますけど、それは歓声がすごいものですよ」
彼女が話しながら、わたしの手に袖から出した飴の包みを握らせる。それを口に含んだところで、木を打ち叩くような音が聞こえ、いきなり舞台の幕が上がった。
一斉に、耳に突き刺さるような悲鳴めいた声が小屋に響いた。思わず身をすくめ、辺りを見る。それが牡丹の言った「高嶋円之助」への歓声であると知り、舞台のその人に目をやる。
どれほどの美男子が登場するのかと思えば、火消しだろうか、何やらに扮装した白塗りの華奢な男が、しなしなと見得を切っている。
「ふうん」
芝居はともかく、円之助への興味をすっかり失ってしまい、わたしはもうよいだろう、と膝の重の蓋を開けた。
 
頬が緩むほどに美味だった重の弁当を平らげれば、牡丹には申し訳ないが、芝居を観続ける根気がない。
質実であることが武家の美徳であるが、柚城でも女中らが非番の際には、芝居見物に出かけることもあったように思う。
奥を取り仕切る母上ご自身は、茶会や歌会などに風流を感じられるお人で、興味もおありでなかったが、彼女らのたまの気散じに眉を寄せられることはなかった。
女中らの持ち帰った芝居の興奮に、へえ、と心が動くこともあった。けれども、それは知らない外の世界への珍しさでしかなかったと、今は気づく。
長く思えた芝居の幕が上がり、幕間を知らせた。
「仕舞いにして、外で出ましょうか?」
蓋を開けたなりの長子の前の重を自分のそれにきれいに重ね、牡丹が問うた。
「だって、途中でしょう?」
「退屈でいらっしったのでございましょう? 大きな欠伸をなさって…」
「まあ、見てた?」
ちょっと気まずく、頬が熱くなった。
牡丹はのほのぼのと笑い、
「近くの天神さんが、縁日ですから、のぞいて帰りませんか? そちらの方が、お楽しいかも」
「ええ」
すぐに気が向き、立ち上がった。巻く間の休憩で、客の行き交う通路を歩くとき、人々の視線を感じた。すぐにそれらが自分ではなく、わたしをかばうように背に手を回し歩を運ぶ、牡丹へのものであると知る。
伸びた背筋の、流れるようなしなやかな身体の動きは、ちょっと目を奪われる。そして、やんわりこちらうかがい傾ける横顔の美しさは、見慣れた目にもまばゆい。
町方の妻女風の彼女といかにも武家風に装ったわたしとの組み合わせは、傍にはどう映るのだろう。そんなことをちらりと思ったが、どうでもいい問いは、戸外の明るさに、すぐに消えた。
往来へ出た途端、背後から声がかかった。男のもので、振り返れば、小腰をかがめた小屋の裏方の者に見える。
牡丹を知った顔で、「牡丹姐さん」と彼女へ、ちょっと楽屋へおいでいただきたい、と言う。声を落とし、
「円之助が特に会いたい、と…」
円之助とは、先ほどの名物役者ではないか。役者からの声がかりに驚き、牡丹を見れば、迷惑げにも彼女はあっさり男の前で手を振った。
「困りますよ、円之助さんに言っておくんなさいな。何の道理で会わなきゃならないのか」
それで彼女は男から背を向け、わたしへ詫びるように頷いた。
円之助に興味はないが、人々があれほど歓声を送る人気役者の申し出を、今日は長子の共とはいえ、こうもすげなく袖にするのはちょっともったいないのでは、と思った。
そこへ、再び声がかかった。
「そうつれないことをお言いじゃないよ、知らない仲でもあるまいに」
別な声に、わたしが先に振り返った。
派手な芝居宣伝の幟に身を隠すように、そこにはいつの間にか、あの円之助が現れていた。厚塗りの化粧を布巾で覆うように隠し、着流しをゆるく纏った姿は粋な女に見えた。
「あんたが来ていなさると、舞台からでもすぐに気づいたよ」
近くで見れば、舞台ではなよなよとばかり見えた姿も、目を引く美しさがある。
「嫌ですね。芝居役者と、それを見に来た客、それ以上の何の仲でもありませんよ」
「万座楼では、飲んで騒いで派手に遊んだ仲じゃないか。官十郎兄さんがばら撒いたご祝儀の小判を、芸妓衆で皆競って裾をからげて拾いまくったねえ…。たった数年前なのに、やれお偉い堅気でございます、と澄ましてさ。つれないねえ」
牡丹は声を返さず、冷ややかに円之助を見ていた。
その目を受け、円之助は優しいけれどもいやらしい笑みを浮かべる。徐々に集まり始めた人々の視線を気にしつつ、反応のない牡丹の手を取った。
「ここじゃ、ゆっくり昔語りもできないからさ…」
わたしの頭にも、二人の間の事情がおぼろに見え出した。
彼女の過去はどうであれ、目の前のこれは、女子に理不尽な難癖を付ける気持ちの悪い男でしかないではないか。
「いい加減に…」
牡丹が男の手を振り払うより早く、わたしの腕が伸びた。柔術などのたしなみはない。が、剣術の要領で、優男の手首を押さえ捻りあげることは、容易い。
一旦こちらに引き寄せた相手の手首をねじり、返す。
「うわあ」
上ずったうめきにかぶせ、低く脅しつけてやる。「痴れ者」。
「恥を知りなさい」
男の痛みが呆け顔に変化する。
「三位少将榊伊織の妻長子です。連れに以後の手出しは許しません」
突き飛ばすようにつかんだ手を解放し、牡丹を促した。
そのまま、語らずに往来の詰めの橋まで歩いた。
彼女の歩みがちょっと遅れる。振り返れば、数歩後に、牡丹は放心したように長子を見ていた。
「牡丹?」
声をかければ、ゆらりと牡丹は首を振り、膝を折る。手を合わせ、わたしを拝むような仕草を見せた。
彼女の仕草のその意味も、理由もよく理解ができた。けれどもそれは不要のことだ。
たとえば、この市井のどこに、長子が食べ散らかした重を当たり前に始末し、また掌に好みの桜飴をさりげなく握らせてくれる優しさをくれる女子が、彼女の他にどこにあろうか。
「牡丹」
わたしは彼女へ手を差し出し、それを取るよう呼んだ。
ほどなく、駆け寄った彼女の指先を握る。そうしながら、わたしは先ほどの名乗りを思い返していた。
そうして、いない場で彼の名を名乗ったからか、ひどく、あの人に会いたくなるのだ。
 
縁日では、おかしなおもちゃを見つけた。柄の先に房と鈴がついた物で、姿も朱色の色も愛らしく、邸の子供らへと、三本まとめて求めた。
こんな物が目に留まったのも、この日、境内には親に連れられた子供の姿が多かったからかもしれない。
最前の団子を頬張り、満足して手に握っていると、牡丹がそれをのぞいた。不思議そうに、
「それ、三本も…何にお使いになりますの? 」
「いいでしょう、尚と誓と杏にあげるのよ」
「ま」
わたしの答えに、彼女はころころと笑う。何がおかしいのか問えば、長子が買った飾りのついたこの棒は、「猫じゃらし」という猫を遊ばせる道具らしい。
「あら」
勘違いがおかしいが、まあいいか、とすぐに思い直す。尚も誓もちょっと上の杏ですら、ころころ転がり、きゃあきゃあにゃあにゃあ、まるで猫のような様なのだ。
きっと喜ぶだろう。



        

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