とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜
 
2
 
 
 
その道場は、お城からは四谷に向けてあると聞いた。
元はさる大名家の江戸邸であったのを私財でもって買い取り、剣術の稽古場に改築させたものだという。
年少者から壮年まで、剣の道を志す入門者には、門戸を広く放っているのだとも聞く。
上様の奢侈をお厭いになる御質実なお好みを受け、太平の世にあって、惰弱に傾きがちな武家の流れを憂い、剣を通じた清げな一石を投じた行いであるのだ、とちょっとした話題になっているのだ、とも。
ふてぶてしいようなあの余裕ぶった面差しの、どこに清げな憂いの色が探せようか。よく知る長子は、ふと首を傾げてしまう。
私財を投じ、道場を開かせたのは、あの伊織である。
先日、投げるように「しばらく帰らない」と言った彼のせりふに、いつもの老中のご公務のこと、とそれ以上の問いを避けた。彼も普段なら、当たり前にそれだけで仕舞いにしてしまう。
意外にも、伊織は言葉をつないだのだった。「近く道場を開く」と。
それがお城から四谷にあることや、某大名家の旧私邸であったこと、既に塾頭が二人ほども決まっているのだ、などと、珍らかなほど滑らかに話すのに、ちょっと呆気にとられてしまった。
ほんのり微笑する彼の様子に、ふと、
「楽しそうね」
などと相槌を打っていた。
「たまには、面倒な土木や御用米の上がり以外のことも考えてみたくなる」
「ふうん」
「おかしいか?」
瞬時、わたしには、そんな彼がおかしいのではなく、珍しいと感じたのだ、と知る。
まるですらすらと、老中である日々を送るかに見えた彼が、折りに倦み、そんな屈託を抱えることがあろうなど、これまで考えもしなかった。
あ、と。
わずか、心がしんとし、のちそんな自分を嫌で冷たい女子であると恥じたのを思い出す。
話さないから、素振りが見えないから、では理由にならない。長子には思いやりという優しさが、欠けているのだと知った。
じわりとした悔やみと罪悪感に、ちょっと目の前を暗くしながら、伊織が続けた話に、わたしは頷くだけだった。
「月番(老中の当番月)が外れて、しばらく楽になる。道場の様子を見ておきたい」
と言い、
「気晴らしに、俺も人に交じって素振りがしたくなった」
と言い、
「客避けに、母上の邸から通う。誰が来ても姫は会わなくていい。俺の行き先も、知らないととぼけておいて構わん」
と言い、
「母上が、どれでも一匹連れて来いとの仰せだから、杏をしばらく向こうに連れて行くぞ。双子は片方が消えると厄介だろう」
と言い、
「晦日には帰るが、そのまま千代田に向かうやもしらん」
ともいう言にも、抗わず頷いたのみだったのだ。
長子の素直に、やや肩透かしを食ったような顔をして、伊織は「聞いているのか?」と問うた。
それにも頷いて応えてやれば、機嫌よく、わたしを引き寄せたままの手が襟を潜り、「あ」と身を引く暇もなく、露わな乳房をもてあそぶのだ。
「亭主が留守だと、ふらふらと遊び歩いて、野郎に浮かれてみろ…」
「え」
「俺は背中に目があるぞ」
朝の日が満ち出した部屋で、堂々と肌に触れてくる伊織の仕草に面くらい、またはにかんで、それすらも、唯々と、
「うん…」
とぼんやり受け入れてしまった。
数日時を置けば、あまりに勝手な言い草、捨て台詞の数々に、頬に血が上る。
要は、道場をこしらえたのは、剣客である伊織の端からの趣味の話なのである。
空いた時間には、長子も子供も置き去り、その趣味を楽しみたいという。母上のお邸に移るというのも、その間、客人や家人にすら邪魔をしてほしくないという気ままに違いない。
その上、留守を預かる妻に対して、乳房をもてあそびながら「不義はするな」との、釘の刺し様。
何が、「背中に目がある」だ。腐れ老中め。
と憤ってみたものの束の間。牡丹の供で芝居見物などを楽しんだら、すっかり気が晴れししまった。
禄高い武家の権門の、しかも殿方の身。御役目にきつく縛られた妻子ある伊織が、たまさかに気を晴らすには、ちゃらちゃらとした芝居見物でもなかろう。
無心になり意識を研ぎ澄まし、日頃の身に帯びた枷を忘れる、竹刀を握ることで得られる充実が、きっと相応しいのだろう。
 
伊織の道場に足を向けたのは、彼が邸を移って五日も過ぎた頃。
杏のいない物足りなさに、頬杖をつくうち、母上のお邸へ、縁日土産の「猫じゃらし」を届けることを思いついた。
駕籠に揺られ、着いた芝のお邸では、折り悪く杏は昼寝をしているという。
わたしが手にぶらぶらと持つ猫じゃらしを、やはり義母上は不思議そうに眺めた。伊織に似た笑みを口元に浮かべ、
「ちょうどよい、茶室で一服差し上げましょう」
とおっしゃる。
供される綾なる生菓子には心が揺らいだけれど、お茶碗の佇まいがどうの、お軸の由来がどうの…、義母上のお茶室での時間は、つくづく苦手だ。頭に描くだけで、居心地の悪さに眩暈がする。
「伊織殿も、稽古がお忙しいのか、こちらへはほとんどお休みにお帰りになるばかり。たまには、と茶室にお招きしても、うとうとと舟を漕いでしまわれて…。無理な稽古は、もうお止しになるご身分ですのに…、困ったこと」
義母上のお話に、とっさに浮かんだのが、伊織の道場だ。
「あ、あの、長子は、お茶は失礼しないといけません。残念ですけれど、これから四谷の方へ足を向けまして…」
「まあ、残念なこと」
「ええ、まことに。義母上様、これを杏にお渡し下さいませ。他出の折、長子が求めましたの」
「これは、何をする物? どうやって遊ぶの?」
義母上は、眉を寄せ、不審げに猫じゃらしをお振りになる。しゃんしゃかしゃんしゃか、鈴の音が鳴り、控えた女中らが目交ぜをし、笑みを洩らす。
まさか、猫を遊ばせる物だとも言えない。双子とそろいなのだと告げ、
「さあ、流行らしゅうございますから…」
「妙な物がこの頃は流行るのね」
少々決まりが悪いが、妙案の口実に飛びつき、わたしはお邸を後にした。実際、そのまま駕籠を道場へ向けることにする。
お邸の者の言では、伊織は午前遅くにこちらを出、徒歩で道場へ行くという。身分を伏せ、供はごく懇意の一人のみ。者を日暮れ頃までをそちらで過ごし、夕餉にやや遅い時刻に、またぶらりと徒歩で帰ってくる。
宵には、きっちり二合の酒を、行儀悪く肘枕に飲みながら、足元に杏をじゃれさせておくのだとか。本邸にも言い置いたように、所在をつかんだ早耳の来客にも会わない。
朝は遅めに起き、起き抜けのまま、寝所で煙管をくわえて詰め将棋に半刻も費やす…。
耳にした、伊織のこちらでの気ままな日々は、わたしにはちょっと奇異に響いた。それはそのまま、気楽な殿方の独り身の暮らしそのもののように思われる。
ふらりと自由に時間を過ごす彼を、長子は知らない。寝覚めに、時を忘れるほど詰め将棋を指す好みのことなど、初めて知った。
それらにとやかく言葉を挟むつもりも、意味もないと知りつつ……。
駕籠に揺られながら、小さな驚きが、胸でざわめいた。
 
 
元は大名家の所有であった場は、道場と生まれ変わっても、門や建物にそれらしい構えは残っていた。
新たに普請した道場部分の奥は、管理人を兼ねた塾頭、遠方よりの入門者の住居がある。その更に奥は、使う用もないのだろう、鬱蒼とした雑木林が広がっていた。
駕籠を降りた途端、ばちばちと竹刀を合わせる音が耳に届く。その賑わしさに、なかなかの盛況振りが知れる。
開け放した道場の入り口付近、雨戸を退ければ格子を渡した窓には、入門希望者か、単なる野次馬か、人が群れていた。
以前聞いたように、老中が肝煎りの剣術道場は、近在でも評判であるようだ。
不審なのが、男に混じり、中には若い娘の姿があること。中をのぞいては黄色い声を出す様は、長子のように、剣に覚えのあるようには見えず、訝しい。
ちょっと所在なげに立ったままでいた。おとないの誰かを呼ばおうか迷ううち、先ほどの娘たちが、「きゃっ」と短い悲鳴を上げる。
目をやれば、稽古着の若者が数人、袖口で汗を拭いつつ現れた。彼らは、娘たちの視線に恥ずかしげに足早に裏手へ消えた。井戸で汗でも流すのだろう。
「ふうん」
彼女らの目当てが何かに気づき、合点して、わたしは窓に近づいた。格子が高く、履物の足を爪立たせる。中をのぞけば、明るい屋外に比して、目に暗く、像を結ぶのにしばらく目を瞬かせる。
いきなり目の前の格子を拳が打ってきた。直接打ったのではなし、痛みはない。ないけれど、衝撃に怯み、後ずさってしまう。
追っかけてすぐ、低い怒声が降る。
「これは、女子の娯楽にやっているのではない」
ま。
先ほどの黄色い歓声を送っていた娘たちと、長子までが同類にされたのだ。何か言い返してやろうと、言葉を含む間に、
「いいじゃねえか。減るもんじゃない。見せてやれ」
と軽い声がかかった。それに続く笑い声。
「いや、減ります。集中が」
「いちいちけち臭いこと言うな」
その声に、はっとする。「あ」と。声の主は伊織だ。
相手は不平声に返し、「けちなのではありません、女子の声は修行の障りです」
別な声が割って入り、
「まあまあ、こいつは帰りに、わたしが岡場所でも連れて行きましょう、気が逸れるのは、そっちのせいかも…。ははは」
見物人にも笑いがわいた。
確かに、人の視線に気が逸れるの集中の妨げだの言っているのは、真に集中していないからだろう。女子の声に、もしや邪念が沸くのではないかしら…。
再び窓をのぞくと、格子の前に今度は人の背が立った。濃紺のありふれた稽古着のその人は、こちらにもたれ腕を組んだ。
邪魔で、中がうかがえない。「どいて」と言うのではないが、少しだけ横にずれてほしくて、咳払いをした。
何気なく小首を傾げ、窓の外をうかがう目と、長子のそれがぴたりと合った。
「あ」
と声に出したのは、わたしだ。伊織は、ちょっと驚きに目を見開いたものの、やれやれ、とでも言いたげにその瞳を笑みに変えた。
「神出鬼没だな、まったく」
わたしは言葉を返せず、格子に指を絡めた。
「俺に急ぎの用か?」
「ううん。義母上のお邸にうかがったから、その帰りに…」
「ふうん。面白くもないだろう」
「え」
伊織がこともなげにそんなことを言うのが意外で、またわたしは言葉を失う。
それは彼には遠く及ばないとはいえ、長子だって剣ではお免状をいただく身。竹刀の触れ合う音には、心が騒ぐ。稽古姿の殿方に嬌声を送る、先ほどの娘と一緒にされたくない。
「長子がいては、邪魔?」
伊織は頓着せず、わたしが置いた格子の指を軽く握り、
「これから、一本ある。見るか?」
「うん」
すぐに指を離し、伊織は離れていった。塾頭のものらしい「打ち合い止め」の声に、各個打ち合いをしていた竹刀の音が、すぐに止んだ。
ほどなく、一本取りの試合のあることが触れられ、道場の一隅に立ったままでいた殿方が中央に進み出た。どうやら、彼が相手のようだ。
身奇麗な稽古着とは違い、旅装の脚絆や手甲を外したのみ、といった観に袖も袴も土埃で薄汚れている。
「松岡正一郎」
と、男は名乗った。鬢は伸び、顔は、日に焼け浅黒く精悍だ。素性は浪人であると言い、流儀は長子が耳にしたこともないものだった。
看板を見、腕試しに他流試合を挑んできた人物のようだ。
すぐに伊織が対するのだと思えば、その前に別な人物が前に出る。塾頭の一人であるらしい。
伊織でないことに、ちょっと拍子が抜け、ふと目を落とした履物の先に、葉の一枚が乗っているのを見つけた。格子から身を屈め、それを取り去ったとき、その音に気づいた。連続し、床を打つような重みのある音。
再び窓に戻ったとき、試合は終わっていた。
呆然とした顔つきの塾頭は、床にへたり込んだなり。一方、松岡と名乗った浪人は、先ほど立ち合ったより、やや前方に踏み込んだだけ、といった姿勢でいる。
あ。
何が起こったのか、目にしていないが、勝敗は明らかだった。
 
呼吸を忘れる瞬間があるとすれば、このときだ。
伊織は上段の構え。上背のあるすっきりとした身は、微動だにしない。
最前のあっけなく結果の出た打ち合いを、伊織はどう捉えたのだろう。佇まいからは、何の色もない。
伸びた背筋、肩からの線、竹刀の先に至るまで、威圧感がにじむのがわかる。伊織と剣を交えるには、初段者は、まずここで心が怯む。気の萎えに、剣先がおのずと同化し、震えてしまう。
瞳が乾き、ちりちりと痛むまで、わたしはその姿を見つめ続けている。
対して、やや小柄な松岡浪人は、中段。それが、見る側の錯覚のように、徐々に揺れ出した。
珍しい挙動に息を呑む間。彼は、躊躇いなく大きく踏み込んだ。受け手の伊織は竹刀を振り落とし、瞬時に剣先を下げた。
「ふむ」
松岡浪人の大きな吐息に似た、その居合いの後だ。
長子の目に留まったのは、相手方の懐に入った彼の剣の中心部分が、伊織の竹刀を持つ手を斬り捨てるように、過ぎ去ったこと。
 
「あ」
 
たたらを踏んで下がった伊織の身体が、均衡を欠き、背から床に崩れた。静まった道場内に、からん、と変に軽い音を立て竹刀がその身の側に落ちた。
 
あ。
 
まさか。
 
自分の目の前に起きたことが、信じられなかった。



        

企画ページへのお戻りは→  からどうぞ。

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪