とおり雨
~長子と伊織の普段着の?毎日~
10
 
 
 
登城する伊織を見送った朝餉の後、わたしは居間に萩野を呼び出した。
態度は権柄づくで、横柄であっても、命にはまるで猫のような素早さで現れる。
老女らしく隙なく地味に装った彼女を前に、わたしは思うさま、昨日の無礼の文句を言い立てた。
伊織の嫡男の双子さえ榊の家にあれば、奥方の長子の身など、里に返しても惜しくはないのだ、といった失礼千万な彼女の言葉を、わたしはまだまだまだ、胸にこだわらせていたのだ。
伊織は長子の外出を禁じたが、双子を邸に置いた上で里に行くのなら許す云々など、命じてはいないと言った。彼は、「どこにも出すな、と言っただけだ」と、のち長子が問えば、そう答えた。
「主人の命を勝手に違えるのは、不遜でしょう。まるで、伊織がそう口にしたかのように長子に伝えるなど、あまりに私を軽んじています。今後は一切、このようなことのないように」
萩野は、言い終わるのを待ち、穏やかにゆっくりと口を開く。長子に侍る女中らが、それになぜか居住まいを正すのを、目の端に捉えた。
「姫様におかれましては、萩野の言を無礼に思われたご様子、まことに申し訳なく、お詫び申し上げます」
彼女はそこで、手をつき頭を下げた。拍子抜けするような物わかりのよさに、呆れもしたが、ならそれでいいのだ。それ以上、何の意思も長子にはない。
済んだ、と下がるよう手を振りかけ、不意に萩野の声がした。「お言葉でございますが…」。それで、やや上げた手が、脇息に落ちた。
「主の命を額面通りのみに受け取るだけでは、わたくしどもの仕事はかどりません。
使われる者は、主の命の先の先を読み、またいかようにもそれを活かし、お家のためにと動くのが、武家に仕える者の真骨頂でございましょう。
殊に、この榊のお家のような権門にあっては、そのような奉公人の気働きは、必定のこと。これは、大奥様もお邸の者に常にお求めになられる資質でもございます」
滑らかに、よどみなくそう畳みかけられ、わたしは返事もおぼつかない。息をのみ、ようやく、彼女の言葉が頭にしみてきた。
何のことはない、萩野はちらりとも反省などしていないのだ。義母上お好みという、己のやり方を変えるつもりもない。長子の怒りなど、まったく糠に釘である。
この反撃に虚をつかれたが、黙ったままでは彼女に「おつむりに小鳥を飼われた姫様」と、舐められたまま。
「でも、そのことで、夕べ長子は、伊織をなじってしまったわ。喧嘩をするところでした。彼だって、不快だったでしょう。問題です、やはり」
きっぱりと言い切った。
萩野はやや目を伏せ、「それはそれは…」とあらぬ方へ泳がせる。
「しかし、少将様は、いつもとお変わりなく、ご機嫌よくご登城なされましたが…。それは、姫様が、はは…、左様にございますか」
一人合点に、彼女は頷いている。わたしには意味がわからない。
「何?」
問えば、萩野は顔を上げ、いつ作ったのか笑みを口元に浮かべ、わたしを悠々と見返した。
「萩野の僭越な行いに、少なからずご気分を害された少将様のお心を、昨夜、姫様が特に柔らかく、ほぐして差し上げたのでございましょう。
ややもお眠そうにお見受けいたしましたが、閨でのお可愛がり、お睦み合いが過ぎたのでございましょうか…。
しかし、お心の平安が何よりでございます。人間には精神の安寧、それに勝るものはないと、仏法にも申しますもの。まあ、ご夫婦仲がおよろしく、おめでたいこと、おほほほ。これ以上は、若い者の耳の障りになりましょうから…。
最後に、姫様のお見事な奥方様としてのご器量に、萩野、深く感服申し上げると、とくとお知りおき下さいませ」
萩野はそれで言葉を切り、笑みを消した。辞去の礼をし、すぐに膝を立て、裾を裁き立ち上がる。忙しい彼女には、わたしの前で無為に過ごす、これ以上の時間が惜しいのだろう。
わたしはその仕草を、唖然とし、半ば意識も飛ばし見送った。
頬が傍目にも知れるだろうほど、熱く朱がのぼっている。ふと、手のひらで両頬を覆えば、驚くほど指に熱い。
周囲の女中らのうっすらとした忍び笑いが聞こえた。
萩野が、恥ずかしげもなく滔々と述べた内容に、長子の胸に夕べの伊織との時間がくっきり甦る。そのまぶたの裏の光景に、いよいよ頬は熱い。
まあ。
なんてことを…。
結局、萩野は形だけ詫びて見せ、後は閨のことをねっちりと持ち出し、こちらを恥じらいと気まずさに黙り込ませ、「仏法」だの「精神の安寧」だの、適当に長子を煙に巻いただけなのだ。
「迫力でございましたね、萩野殿はさすがに」
耳打ちするように女中が言うのも、面白くない。かといって、もう一度呼び返し、更に文句を言うのも馬鹿らしく思われる。
認めたくはないが、わたしなどが口で敵う相手ではないのだ。
夕べ、伊織が彼女を指し、「萩野は俺が、初鰹が食いたいといえば、用意がよ過ぎて船ごと買い占めるような女だ」と評したが、それは身びいきで、点が甘いのではないか。
長子なら更に、萩野は「船主を篭絡し、旬には、自ら船一杯の初鰹を献納させるような女子」と、たとえたい。そんなに外れていないはず。
ようやく熱の冷めた頬をふくらませ、手の扇子をぽんと放った。深く吐息をつく。
何でもよくなってくる。
 
わたしはその日、日が高くなるまでを、子供らを見ながら、ちょっとうつらうつらして過ごした。
ふと思い立ち、出かける用意をさせ邸を出た。行く先は、先日取り止めにした里の柚城だ。気安いもので、連絡もせずに行く。
双子を伴わなかったのは、片方が眠りかけ、また片方もそれにつられて眠そうにしているのを見、起こすのをかわいそうに思っただけ。萩野への配慮などでは、絶対にない。
柚城の邸では、単身のわたしを、母上は落胆した表情でご覧になったが、すぐにそれも晴れた。父上が国許へお帰りの折りであり、わたしの来訪を嬉しく思っていらっしゃるのがわかる。
また、近いうち双子を連れ来ようと思う。
「今夜は泊まりなさい。よいでしょう? そうそう、国許より、長子に似合いの絹が届いたのよ」
それに適当に頷いて返した。
母上がお着替えにお部屋に戻られ、一人になったとき、居間から庭に下りた。ほどなく鯉を放った池に着く。そこには、涼しげに薄紫の菖蒲が花をつけていた。
呼ばせた爺やが、ひょっこり築山の影から現れる。小岩に腰掛けたわたしの傍に、黙って控えた。
爺やを呼んだのは、伊織の言葉が妙な響きを持ち、まだ耳に残っているからだ。彼は、「人は嘘をつく」と言った。「善し悪しあれ、必要があれば、嘘をつく」とも。
その意味を訊いても、言う気がないのか、ねだっても答えてはくれなかった。ほのめかすだけして、そのまま登城に逃げた伊織が歯がゆい。
けれども、彼自身のことでないのなら、話の流れから、あれは、松岡浪人を指すのではないかと、ふと思えるのだ。
何の嘘を?
爺やなら、もしや何か知っているのかも…。そう思いつき、よく問うてみようと決めた。
母上の無聊のお慰めが第一であるけれど、榊の邸ではなぜだか落ち着かない気がし、柚城へ足を運んだのには、こういった目的もあった。
花菖蒲の根元の水面に、緑の小ちゃな蛙が遊んでいる。それがぴょんと飛ぶのを眺めながら、切り出した。
松岡浪人が、長子に何か嘘をついていたのかを知っているか、それを問うと、爺やは顔を上げ、
「それは、殿様が仰せに?」
わたしは首を振った。伊織がそのようにほのめかしたことだけを、端折って教える。
「左様でございますか…」
爺やはそう答え、しばらく沈黙したのち、また口を開いた。木々の梢に小鳥の声・羽音がちょっとかしましいが、爺やの声は、この日も不思議と耳にするりと入った。
爺やが言うには、伊織はその報告で、松岡浪人が四谷の道場で立会いをした相手であることや、簡単な素性を知った。「きな臭ぇな」と腑に落ちない様子で、更に細かい調査を求めたという。
「ふうん」
彼がわたしに付けた、十人からの大仰な家人の姿を思い出す。おそらく、あの者たちの仕業だろう。
それに爺やは、首を振る。ちょっと楽しそうに、
「お家柄、榊のお邸には、こういった件に向く隠密がおりませぬ。ちと政治向き過ぎる、と渋られ、この爺やめに命じられたのでございます。「姫のためだ、やれ」とまあ、至極当然と…、いやはや」
「まあ、爺やが」
傲然と、爺やに命を告げる伊織の様子が、目に浮かぶようだ。
忍びの出自とはいえ、爺やは、代々柚城に仕える歴とした藩士。爺や自身、長く長子に使え、微禄の下士では決してない。それを、人の素性を漁るような真似をさせるとは…。
知らなかった事実に、呆れる思いだ。
ともかく、他その配下を使い、伊織が満足するだけのことを調べ上げたのだとか。ならば、爺やは、松岡浪人のことを伊織と同様に知悉していることになるのだ。
彼の人は、仇討ちに追われた過去を持つ、浪人。追っ手を返り討ちすることにより、長いその責を解いたのは、この冬終わりのことだといった。なのに、いまだ、来ない影に怯えることもあって…。
小さな密集する裏長屋に住み、手習いを子供らに教えるなどし、ひっそりささやかに暮らしの糧を得ていたのを、わたしは知る。
どこに、何の偽りがあるというのか。
思いがけず切ない思いで、己の中の影を振り返りながら、爺やを見る。爺やはなぜか、またほんのり口の端に笑みを浮かべ、「いやはや」と、ややも弱ったように首を振った。
「殿様は、姫様のそのようなご様子を、じかにご覧になるのをお厭いになられたのでございましょうな」
何か、おかしな表情でも見せたのか。わたしは指で顔をこすった。
「これよりは、姫様が、特にお知りにならずともよいことでございます。ご承知にならなかったところで、何の障りも…」
「知りたいの。伊織に告げたように、長子にも申しなさい」
爺やは小さく、ほうっとため息をついた後、話し出した。
その内容に、わたしは驚き、うっすら開いた唇そのままに、首を左右にぶるぶると振っていた。
「嘘」
「嘘ではございません。まことのことにございます」
驚きにまだ愕然とするわたしを前に、爺やはきっぱりと言う。それは、どこかでわかっているのだ。一級の忍びの術を持つ爺やが、伊織の命でやり遂げた任務だ。そこに遺漏があろうはずもないことを。
松岡浪人が、仇討ちに追われる側ではなく、追っ手の側だったなんて…。
「彼の松岡と称した浪人は、亡父の仇を討つため、十二年前に出国し、そのほぼ五年を経過後より、消息知れずとなっております。殿様のお名でもって該当の藩邸にも調べを遣り、またその国許にも人を遣り、綿密に調べた結果にございます」
何のため?
一時の波のような驚きは去った。が、釈然としない気持ちが湧き上がるのだ。立場を偽って、何の得があるのか。生国とも縁を切ったように暮らす、その理由が、長子にはわからない。
だが、爺やは、ごくあっさりとその答えをくれた。
「仇討ちの責務から、逃れるためでございましょう」
 
あ…。
 
「殿様は、爺やめの最初の報告の段で、男の偽りの端緒なりと感づいておられたご様子。どうであれ、仇討ちに追われる身が、「老中肝煎り」と話題の真新しい道場にのこのこ乗り込んでくるのはおかしい、と仰せに…」
「でも、松岡殿は…」
あの道場で稼ぎをする気になったのは、「これまでの自分を消し去りたい」という、そんな気持ちの表れではないかと、そう言って……。
「消し去りたかったのは…」
爺やの声が、そこでなぜだろう、長子の耳に伊織のもののように響いた。
 
「仇を討たねばならない、己の責務なのでは?」
 
わたしは瞬きも忘れ、爺やの好々爺然とした顔を見つめていた。不意にそれが堪らなくなり、目を逸らせた。池の菖蒲に目を移せば、先ほどの蛙は、いずこかへ消えてしまっている。
乾いた瞳にまぶたを重ねる、わずかな痛みの中、自然、松岡浪人の言葉のあれこれが胸に思い返される。
十年も恐れ、逃げ続けた追っ手を打ったと述懐したのち、彼は確か、こう言った。
「沈みの浅い腰の…、青眼に構えた太刀の先が、すすきの穂のように揺れていたのを、斬りました。…己は、あのような者に…」と。
そして、更に、
「仇を打つ打ち手にしても、敵を斬るまでは国にも帰れず、家督もお預けのままでは、武士の習いとはいえ、あまりに過酷、気の毒。若いはずが、精も根も尽きかけたような、疲れた侘しい佇まいでした…」と、このようにも気持ちを述べた。
あれは、
 
もしや、己の姿を表したものだった……?
 
一瞬、めまいのようなもやが、頭に舞い、わたしは掛けた小岩に手をついた。目を落とし、何となく足元の苔を履物でこする。
もやの中をうろうろとさまようように、思いが一人巡った。
つつじを見に深川に出かけたあの日、あれが、松岡浪人を見た最後のときとなった…。そのいずれかの瞬間の、あるわずかな棘のような違和感を、わたしは動顚する頭のどこかにしまいこんだはず。
伊織の鋭い叱責を受けた帰路、悄然とわたしは、あの長屋へ立ち寄った。そこには無人の彼の人の家があり、亡羊とわたしはそれに背を向けた…。
そのとき、世話好きな長屋の女が、こんなことを言っていたのだ。
「人捜しをなすってたから、そのお人が見つかりでもしたんでしょうかねえ…」と。
人捜し。
あのときは、引っかかりつつも、どうでもよい話に思えた。
捜し追うべき敵、討つべき仇。捨て、あきらめたはずの過去を、あの人は、それでもまだその欠片を、手のひらに残していたかのように、今、長子には思われる。
「なら、どうして長子に、あんな嘘をついたの? ただの浪人とのみ言えば、済む話でしょう」
「偽りの中に、一割二割の真実を混ぜる。それだけで、まことしやかになります。そういう術を、流浪にあり彼の人は、身に着けていたのでは…」
「…そこまでして、わたしに嘘をつく必要があって?」
「ははは」
爺やは、懐から出した懐紙で、長子の履物の苔を取り去ってくれた。
「何がおかしいの?」
「愛らしい女子の前では、男は余計な見栄を張りたくなる。それ以外の何の理由が要りましょうか」
え。
爺やの返しに、わたしは言葉が詰まった。
思い出と切なさが混じる胸の霧の中を、今、ひょいっと小鳥が羽ばたいて飛び去ったかのよう。跡形もないが、面前でぱちんと指を鳴らされたに似て、長子をはっとさせる。
ほのぼのとした嬉しさ。さっと恥じらいが頬に上ったが、それを瞳を伏せることでしのぐ。
爺やは、伊織が昨夜松岡浪人を討ったのち、十分な金子を渡させたのだと告げた。
身分の高低はあれ、同じ武士。彼の人の偽りの訳を悟り、憐れんだからこその情けであろう、と爺やはつなぐ。
「ふうん」
「善し悪しあれ、必要があれば、嘘をつく」。今朝方、そう伊織は言っていたのだ。「善し悪しあれ」と、特に付したのは、彼に松岡浪人の嘘を「善し」ものとし、責める意図がないことを示したのだろう…。
伊織の優しさを、長子はいつも、後になって知る。
嫌な思いをしただろうに…。
今朝のやり取りの中で、わたしの気持ちの揺らぎを、「それほど怒ったのか」と口にした、己の軽率な問いを思い出す。
それに返した「姫は、どう思う?」の声音。射すくめるようにわたしを見た、彼の瞳の加減。きっと忘れ得ない。
 
ごめんなさい。
 
今更に、わたしは胸の中で詫びた。彼に届くように、願いを込めて。
爺やへも、長子の不始末で難儀をかけたことを労った。爺やはそれに、「なんの」と首を振り、
「殿様のお沙汰に、この爺やめに、何の異存もございませんが…、はばかりながら、敢えて申し上げれば、一つだけ」
「なあに?」
たっぷりとした間ののち、爺やが、飄げた声で付け足した。
「彼の浪人の身にお寄せになった情けが、いま少し真に迫ったものであれば、その惨めな素性が姫様のお耳に入るような、真似は決してなさりますまい。まったくの蛇足にございますから」
意味ありげにほのめかすなど、わたしに先を探れと示しているかのよう、そう爺やは言う。
「え」
 
「いまもって、彼の浪人に、したたかに妬いておられるのでしょう」
 
まあ。
爺やの言葉に、笑みがこぼれた。頬にこしらえたえくぼ。その他愛なさの奥で、わたしは嬉しさに、きゅんと胸をときめかせていたのだ。
とくんと弾む心が、胸を華やぎの色でいっぱいに彩る。
 
伊織に会いたい。
 
母上が、今夜泊まることを勧められたが、やはり帰ろうと思った。彼が今宵お城泊まりか、そうでないのかはまだ知れない。
でも、小うるさい萩野が偉そうにしている榊の邸には、何より彼の気配がある。面影を感じられる。
宵に、一人寝間に休んでいても、ふっと、彼が姿を見せそうな気がする。言葉もなく、求め、腕に抱き寄せてくれるように感じるのだ。その思いの先に、長子はありたい。
そして心に、こんな想いの華を咲かせる長子を知ってほしいのだ。
 
伊織だけに、見てほしい。
 
 
 
 
 
おつき合いをいただきまして、まことにありがとうございました。
感謝申し上げます。



        

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