とおり雨
〜長子と伊織の普段着の?毎日〜

9

 

 

 

邸に戻れば、何事もなかったような日常がわたしを取り巻いた。

杏も双子も、変わらずにその辺りに転がり遊んでいるし、古参女中の萩野も、やはり権高に奥内を監督している。

何も変わらない中に、長子だけがやや異質にそっと置かれたよう。見慣れた物事にほっとした安堵と、また、そこに罪悪感の混じる違和感が、折りに顔を出すのだ。

あの日から、伊織は帰ってこなかった。

彼がいないのは、珍しいことではないが、事が事だけに、まるで避けられているようで、捨て置かれているようで、落ち着かない。御役目の傍らに放って置かれるのも、その脇に片付けられるのにも、慣れているのに…。

胸のざわめく所在無さは、なんとも埋めようがない。自分のせい、と料簡しつつ、唇を噛んで日をやり過ごした。

 

そんな中、柚城の母上が「顔を見せなさい」と、便りを寄越された。久し振りのことで、いい気晴らしと、すぐに腰を上げた。どうせ邸にいたって、長子には、大してなすこともない。

双子を伴い、外出の用意をさせるよう女中に命ずる。しばらくすると、双子の代わりに、萩野が現れた。

義母上のご配慮で、長子が里に持参する土産の品を持ってやってきたのかと思った。しかし、長子の居間に控えた彼女は手ぶらだ。

「お出かけと伺いましたが」

「ええ、そう」

「少将様より、姫様のお出かけは固く禁ずるようにとの、仰せがございます」

確かに数日前、伊織がそんなことを家人に命じていたような気がする。うっかりの失念に、ちょっとはっとなったが、外出先は他でもない、長子の里だ。はばかるほどのことでもないはず。

萩野もいかめしい様子でこちらを見ながらも、軽く頷き、

「お出かけ先は、お里の柚城様でございますので、そちらはまあ、よろしかろうと…」

もったいぶった萩野の声が、そこで切れた。

よいのなら、それでいいではないか。が、彼女は端然と座ったまま。

伊織の命をおざなりに、もうどこぞへ出かけようとしている長子に、嫌味の一つも言っておくつもりでやってきたのだろう。

双子の用意はまだだろうか、とわたしは廊下へ視線を流した。

「柚城様へは、姫様お一人でお出まし下さいませ」

女中の衣擦れや双子のむずがりなどを耳が探る中、萩野の静かな声が割って入る。

「え」

目を戻せば、萩野は目じりや頬、口元に寄ったしわ一つ動かさず、

「若君様方は、置いてゆかれますよう」

瞬時意味が取れず、わたしは唇をややも開け、ぽかんと彼女の顔を見つめた。しばらく置き、双子が具合でも悪いのかと思い至る。

風邪気味でもあるのかと問えば、言葉ではなく、彼女は首を横に振って答えた。

「なら…」

「若君様方は、榊のお家のお方でございます。置いてゆかれますよう」

「え」

やはり意味がわからず、わたしはまた萩野の顔を見つめる。ぱちぱちと、音がするほど何度も瞬きをしながら。

輿入れからこれまで、幾度も里の柚城へ出かけてきた。一人のときもあるが、双子を連れたことが多かった。母上が、双子の尚と誓に会うのを喜ばれるからだ。

それを、萩野にこうして制止されたことなどない。

ここにきて、嫌な予感に頬が強張った。まさか…、と。

 

伊織が命じた?

 

「お出かけは、姫様お一人で、お身軽に、ゆるゆると遊ばしませ」

太い釘は刺したとばかりに、彼女は既に立ちかけていた。わたしはその中腰の彼女へ、変に甲高い声をかけた。

「伊織が、そう命じたの? 里へ行くのなら、双子を置いて行かせろと…?」

問いに、萩野は裾を裁き、また腰をきちんと下ろして座った。まっすぐにわたしを見、口を開く。

「当然でございましょう。姫様はお輿入れされ、榊の人間になられたお方。そのお方がお産みになられたお子様方もまた、榊のお人となられるのは、必然の道理でございます」

そこで、一旦言葉を切り、瞳を更にきつくわたしに据えた。

「畏れながら、榊のお家は、将軍家の御血筋を組む特別のお家柄…」と、萩野の声が続く。

情けないことに、長子は虚をつかれ、何の言い返しもできず、黙らせることもできず、ただ彼女の話を聞いているばかりだった。

「将軍家に入られた女臈方が、ゆえあって大奥を退がられる際、お産みになった公子様をお連れになって、いとまをなされるあきれた無体など…。萩野は、とんと存じ上げません」

硬い声で言い切ったのを潮に、彼女は立ち上がった。それを止め、文句なり腹立ちを表す言葉をぶつけるゆとりもなかった。

伏せた目を上げたとき、とうに萩野の姿は居間にはない。また、彼女の躾けが徹底しているこの奥で、いつまで待っても、双子が外出の仕度を終えやってくるはずもなかった。

大層に、「将軍家の」などと大仰なたとえを出さずとも、武家の女子が子を連れ、嫁ぎ先を出るのが尋常でないことぐらい、長子にだって想像はつくのだ。

けれど、ただの里への顔見せだ。そこに「畏れながら…」と飛躍した話を持ち出すなど、底意がない方がおかしいではないか。

萩野の憎たらしい皮肉の数々に、何の反応もできなかったのは、驚いたからだ。驚愕したと言っていい。

萩野の言による、伊織の命は、まさに長子から双子を取り上げるかのように響いた。その意志の先には、やはり離縁もやむなしとの彼の思いがあるように伺えるのだ。

彼にこっぴどく叱られた日から時間が経ち、変わらない平穏な日常に包まれ、わたしはまた、いつもののんきを取り戻していたのだろう。

ほどなく伊織も帰る。その彼にきちんと詫びることができれば、またこれまでの、彼の妻であった憂いのない自分を取り戻せるのだと、わたしはどこかで楽観していた…。

出かけるため、帯に挟み込んであった扇子を抜き、その辺りにぽんと投げた。こんなものでも、あると障る気がする。次いで、懐紙も抜き去って放る。

出かける気など、もう失せていた。

このまま外出をした方が、気が晴れるのかもしれない。邸を出てしまいたい気がした。けれども、今はできない。呆けたように、気が萎えてしまっている。

「姫様?」

女中の伺いに、わたしは手だけを振って彼女らを退げた。この態度と萩野との会話で、外出が沙汰止みになったと知れるだろう。

一人になり、脇息に両肘を置き、そこに伏すように顔を埋めた。

己の愚かさは、既に身にしみている。軽率も、それが引き起こした事々をも恥じ、伊織に申し訳ないと、許しを請いたいと、自分なりに省みていた。

けれども、先ほどの仕打ちに、その殊勝な気持ちも削がれてゆくのを感じる。

悪いのは、長子だ。いけないのも、長子だ。

でも、

 

ひどいのは、伊織だ。

 

「ひどい…」

伏せた顔。両手を押し当てた瞳から、涙がにじむ。わたしは拭いもせず、そのままに泣きながら、何もかもあきらめきれぬように、

「ひどい」

と、つぶやき続けた。

 

 

宵の口には雨が降った。

構わずに、ずっと庭への襖を開け放してあった。その湿気が、寝返りを打ち目覚めたとき、寝間にもみっしりと満ちているのに気がついた。

それは、今の時期、邸の庭のそこかしこに咲く、つつじの蜜の甘い匂いがした。雨に打たれ、それで花の香りが更に強まって感じるのかもしれない。

ざわざわと、遠く表の方だ。人の気配が遠くでする。

あ、と思った。

伊織が帰ったのかもしれない。それでもわたしは、身を起こしも、人を呼びもしなかった。

そもそも大名屋敷では、くっきりと奥内と表で区切られている。榊の邸でも、彼がいない晩、前もって特に連絡もなければ、奥では早めに休むのが日常になっていた。

ごく夜更けに伊織が帰宅した場合、長子の知らぬ間に、いつしか隣りで寝ていた、ということも珍しくない。

気配に緊張し、床に身を硬くしながらも、まぶたが落ちる。そもそも長子に用などないはず、といつしかわたしは、また寝入ってしまっていた。

どれほど後か。

聞き慣れた襖の開け閉めの音と、顔をくすぐるふわりと小さな風に、目が覚めた。蝋燭の明かりがゆらりと揺れ、大きくなった影を壁に映している。

寝覚めにも、ぼんやりとそれが、伊織だと悟る。

なぜ、ここにいるのか。

小さくない驚きの後で、言うべきことも、問うべきことも、浮かばない。拗ねたねじくれた気分で、わたしはただ知らん振りに、影から目を背けて瞳を閉じた。

不意に身体に腕が回され、悲鳴に似た声が出る。芯から驚いたのだ。そして、怖かった。

もしや、殺されるのではないかと思った。逃げようと、強引に引き寄せる力に抗う。

「嫌」

両手を易く封じられ、どんと、床に突き倒された。結い髪がそれでつぶれ、つむりから髪筋が乱れてほろりとこぼれた。

組み敷かれ、こんな側にあっても、明かりから影になる伊織の表情がよく見えない。

「嫌だ?」

低い、意地悪な声がするばかり。

「…長子を殺すの?」

ちょうど、首を絞めて殺しでもするように思えたのだ。伊織はそこで、何がおかしいのか笑い出す。

楽しげな笑いはしばらく続いた。なぜ、笑うのか。とうとう怒りで気がおかしくなったのかと、本気でわたしが震えたほど。

「ねえ…」

彼は返事をせず、いきなり口づけた。吐息に、酒の匂いがする。酔っているのかもしれない。

ちょっと久しぶりの口づけは、すぐに深まって、ふっと瞳が閉じてゆく。ちょうど眠りにつくかのように、するりと自然に落ちていくのだ。

拗ねていたし、冷たい仕打ちを平気でする、ひどい彼にふくれてもいた。互いに、胸に溜めたはずの言葉も聞いていないのに。

なのに。

側にあって、口づけて、指が絡む…。

それだけで、強張った心が緩み、ふっくりとほぐれていくよう。知らず、長子の方が、伊織へ頬を寄せてしまっている。委ねた身体から、憤りがはらりと滑り落ちていくのだ。衣のように。

慣れたその手が、ためらいなく腰紐を解くのも。

当たり前に、素肌に触れてくるも。

触れ合う密な重さも、彼の肌の滑らかさも、温もりも…。

嬉しいと思った。

あ、と息が詰まるほどのときめきと昂ぶりの中、思い知るのだ。わたしは伊織に求められ、抱いてもらいたかった。

いつからか、こんなにも待ち望んで…。

重なる彼の背に、腕を回す。きゅっと力を込め抱き、そして恥じらいながら、つぶやく。

「抱いて」

その頃には薄闇に目も慣れ、表情が読めた。彼はうっすら笑い、「抱いてるだろ」と答える。

「そうじゃなくて……、あ」

長子があまり好まないと知っている愛撫をするから、声が止まる。

「それは嫌い」

「俺は好きだ」

悪びれない彼が、ちょっぴり憎たらしい。けれども、それが嬉しくて。背から滑った手で、腕をつねってやる。「意地悪」。

「っ痛…」

「え」

ほんの軽い力だ。なのに、伊織は大仰なほどに顔をしかめる。何だろう、と伺うが、

「構うな」

と、伊織はわたしを抱き起こし、口づけて、問いを封じた。腕が抱きしめる。込められた力は、息が止まるほど強い。

その腕の中で、わたしは恍惚と彼にすがるのだ。愛してほしいと、愛しているのだ、と。

詫びたいと思った。

こんなに寄り添う中、心からの気持ちを告げたいと。そして、伊織に問うてみたい。

長子を許してくれているのか、と。

「ねえ…」

けれども、唇からこぼれそうな言葉は、迎える不意のよろこびに、切なげな声にすり替わってしまう。伊織が好きだと言い、「可愛いから」とせがむ吐息のような声に。

そして、わたしもうっとりと肌に夢中になってしまうから。

 

いつ眠りに落ちたのだろう。

目が覚めれば、頼りなく乱れた単衣が身体を包み、わたしは横になっていた。

あたりはそろそろ朝の気配だ。寝間に満ちたつつじの香は消え、代わりに蝋燭が尽きた匂いがうっすらと漂っている。ふと、夕べ、伊織が吹き消したのを思い出す。

彼は長子の側に眠っていた。胸がはだけ、それを直してあげようと手を伸ばせば、くるりと不意に、あちらへ寝返りを打つからもどかしくもおかしい。

わだかまりも、怒りも解けた心で、ぼんやりとその背を見つめた。ようやく目が、朝の薄闇になじんだ頃、妙なものをそこに捉えた。

赤黒くなった傷跡だ。よくみれば、打ち身であることがわかる。それが肩に一つ、そして、腕にも一つ、くっきりと残っている。

そこで、昨夜抱き合う中で、伊織が、わたしがつねるほんの軽い力に、なぜか大層痛がった顔を見せたことがつながった。

てっきり冗談だと思ったのに。長子をからかい遊ぶ、いつもの彼の癖だと。

指を伸ばし、傷の箇所にそっと触れる。ひどく変色しているから、かなり痛むはず。はじらいながら、夕べの余韻を振り返れば、骨には異常はなさそうだけれども…。

伊織は、どこでこれを?

傷を指で何となく辿るうち、ふと彼がまたこちらへ寝返りを打った。目覚めたらしい。

目が合う。何の言葉も省き、わたしは傷のことを訪ねた。

伊織はそれにすぐには答えない。はぐらかすように、ぽんとわたしを仰向けに軽く押し倒し、自分は腹這いになり、煙草盆を引き寄せた。

煙管をくわえる彼に追いかけて、再び問う。まさか、と信じがたいが、帰路暴漢にでも遭ったのかと、はらはらしたのだ。彼は御公儀の要職にある身ながら、ふらりと軽い供ぞろえで歩くのを好む。

「ねえ」

催促に、やっと彼は唇を開いた。煙管の隙間からこぼれる声は、笑みを含んでいた。

「討った」

「え」

意味がわからない。わたしは焦れて、衣を直しながら身を起こした。ふわりとした煙に乗るように、彼の声が届く。

やはり、伊織は煙管をくわえたまま、

「あの浪人だ。さすがの姫も、まだ覚えているだろ?」

え。

伊織が皮肉を添えて指す「あの浪人」とは、松岡浪人に他ならない。こんな場で、彼の口からその名が出たことに、まず虚をつかれた。

そして、その名は長子の中で既に中身のない影となり、大きさを変えていることを知る。

けれども、伊織を前に、気まずさはやはりひりひりと胸を刺した。

瞳を伏せながら、彼をうかがう。「討った」とは、どういうことだろう。伊織は、わたしがおとなしく邸に蟄居していれば、松岡浪人を害したりはしない、と言ったはず。

「そんな目をするな。殺していない」

彼は視線だけわたしへ流し、すぐ戻した。

「俺が死ぬのもご免だ。老中が死闘で死んだなど、洒落にもならん」

吐き出す煙の傍らに、伊織は夕べ、かねてから追わせていた松岡浪人を、単身討ったのだと告げた。斬るつもりはなく、本身ではなく木刀で。

刃ではないというが、木刀なら、本気で立ち合えば危険だ。打ち所が悪ければ、命に関わる。わたしも剣を習って久しいが、師は、決して長子に木刀での打ち合いを認めて下さらなかった。

「あの妙な手で斬られては、適わんからな」

夜目は俺の方が利く、と笑う。

 

どうして?

 

問いが言葉にならない。伊織は以前わたしを前に、あの冷たい声で、どうして自分が出張って彼を討つ必要があるのかと、言い捨てたではないか。

どうして?

 

「姫は、強い男が好きなのだろう?」

 

どうでもいいような、当たり前の口調だった。誰それを呼べとか、扇子をくれとか、子供はどうしたとか…。長子がよく知る、そんな普段の彼の声だった。

速まる鼓動が、とくとく胸で跳ね、涙の塊が喉元にせり上がる。

わたしは袖に顔を押し当てた。じゅんと袖の絹が、涙を吸い上げる。涙と共に、心にあふれるのは感情だ。それは目に見えなくとも、乳房の奥で桃色に明るく、柔らかな芳香を放つのだ。

「何で泣く?」

身体を起こし、煙管を盆に返した彼が、わたしの手を取った。

「ひどい」

「何が?」

「…長子を捨てようとしたでしょ。ひどい。離縁だなんて…」

伊織がつかむ手を振り、彼の胸をぽかぽかと打った。「馬鹿。腐れ老中。陰険姑息…」。浮かぶまま、涙声で彼を罵った。

「性悪、腹黒、色魔、陰間…。馬鹿」

一人堪えていた何もかもを、知らせ、ぶつけてしまいたい衝動は、伊織の優しさが引き出したのかもしれない。

「おい、変なのが混じってるぞ」

伊織の手がわたしの背に当たる。自分の方へ引き寄せ、「俺だって、腹を立てることはある」と、普段は君子であるかのように言う。

「…そんなに怒ったの?」

涙の残る瞳を上向かせ、彼を見た。ふと出会う伊織の目に、笑みはなく、わたしをじろりと嘗めるかのように見返すのだ。

「姫は、どう思う?」

わたしは口ごもり、目を伏せた。それで、瞳の縁に留まる涙が、ぽろりと頬を伝った。それを彼の胸に吸わせるように、押し当てた。そうしながら、逃げた、甘えた仕草だと感じていた。

「ごめんなさい…」

伊織の指が、とうに崩れ、肩に乱れた長子の髪に絡んだ。

煙管の匂いに混じり、汗と髪、肌の香りが長子を包む。幾度となく、その腕に抱かれる宵の閨のように。ゆるりと、そしてうっとりとわたしをくるんでくれる。

「何もないの、信じて。長子はただ…」

「当たり前だ」

遮る声は厳しく、わたしの奥をぴしゃりと鞭打った。

じんと響く、痛みの余韻が冷めた頃、わたしは萩野づてに、双子を取り上げるかのような言葉を聞いたと、彼を責めた。

尚と誓は、萩野いわく「特別な榊家の若君様」云々の前に、長子の子である。なのに、わたしの気持ちを置き去りに、「離縁」を振りかざして、易々と切り離されるのは、やはり腹に据えかねるのだ。

「萩野は俺が、初鰹が食いたいといえば、用意がよ過ぎて船ごと買い占めるような女だ。気にするな」

わたしは返事をせずに、彼の胸に額をこする。そんな甘えた仕草に、傷つき、いまだ癒えない拗ねを隠していた。萩野も、そして初鰹と双子を並べる伊織も、どうかと思うのだ。

「長子を、ちょっと離縁するつもりだったの?」

「ちょっと離縁、て何だ?」

伊織はおかしそうに唇を歪めた。笑みに紛らし、答えてはくれない。

わたしのわずかに斜めな機嫌に気づくのか、ふざけてか。代わりに、彼が口にした幾つかの短い言葉は、夕べの閨に因むことで、わたしの頬をぽっと熱く染めるのだ。

そんな様子を楽しむように、伊織は指の節で突き、ふと妙なことを言った。

「人は嘘をつく」

「え」

「善し悪しあれ、必要があれば、嘘をつく」

「なあに?」

彼の言葉は、長子の中で不思議に響くばかり。その意図が測れない。何か、わたしに嘘をついたとでも告げるのだろうか。

「猫みたいに、爛々と見るな。食い物はない」

「まあ」

彼はこちらの疑問をふっと煙に巻き、ちょっと笑う。そして、返事のように、ゆらりと首を振った。

 

「俺だけを信じていろ」




        

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