永遠の微笑み
 
きらきらの雪、さらさらの時(13
 
 
 
手鞠は店の前で、雪だるまを作っていた。
僕を見て、手袋の手をこすり合わせる。
「明後日、じゃなかった? 戻るのは」
僕が答えないでいると、彼女は転がしてできた雪のかたまりを、もう一つの上に乗せろと言う。
抱えて雪玉に乗せてやる。結構な重さのそれを、僕が来なければ、彼女はどうして上に乗せるつもりでいたのだろう。
頭にバケツをかぶせ、枯れ枝で手を作った。松かさと小石で顔ができた。最後に彼女は、自分の手袋を枯れ枝の両手にはめてやった。
「ポトフを煮込んでいるの。あなた、おなかが空いたって顔してるわよ」
彼女はそう言って笑った。
「何もかも、食べて、それからにしましょ」そんな言葉が聞こえそうな、笑顔だ。
僕の中で張っていたものが、その柔らかい笑みに、ゆるりと弛緩していくのがわかる。
「そうだね。何でもないよ、きっと」
いつの間にか、つぶやいていた。
僕はこの瞬間に、何かを手放したように感じた。
 
ポトフを食べて、ワインを飲んだ。
薪ストーブの前のベンチに掛けて、あれこれ話した。
ぱちぱちと、火がはぜる音。こつこつと、彼女がテラコッタの床を靴で叩く音。
ひどく静かな夜だった。
軽井沢の休暇はどうだったかを僕が尋ね、または、訊かれるままに、彼女の知らないこの数日間のことを話した。
「葵、ここ、どうしたの?」
彼女が僕のこめかみに近い辺りに指で触れた。ガラスで切ったらしい。そういえば、クラブも置いてきてしまった…。
僕が諸星のクリニックでクラブを振り回したことを言ったら、手鞠はどんな顔をするのだろう?
見てみたいようでもあり、けれど告げるのも面倒なようで。結局、口にしないのだろう、僕は。
「軽井沢でね、わたし、埋めてきたの。……髪を」
「髪?」
「そう、馨の遺髪よ。…事故の後、義妹の子に頼んで、分けてもらっていたの。ほんの少しだけ」
こつこつと、また彼女の踵が床を叩く。
「僕はそのことを、聞いてもいいの?」
「葵に言っているの」
彼女は指で四角を作る。それくらいの箱に、ほんの一房の髪をしまっておいたのだという。
僕は彼女の髪に触れながら、指で絡め、ちょっと引いて、それを話の相槌の代わりにした。
ふと思い出す。手鞠に会って、間がない頃、僕はこんな質問を受けたことがあった。「遺伝子に詳しいのか」と。
専門外だが、「基本的なことならどうぞ」と答えれば、彼女はDNAの損傷程度について訊いてきた。
骨や髪などが古くなり傷んでも、中の遺伝子は壊れたりしないのかが気になるようだった。
「損傷の具合にもよるけれど、そもそもDNAの解析は分解してから行うものだから、かなりの程度までは大丈夫だよ」。
僕は確か、そんな風に答えたはずだ。
その問いの意味が、こんなとき返ってくる。
彼女は遺髪のDNAから、叶うのなら、近い未来に、彼のクローンが造れたらいいのに、と思っていたという。
「馬鹿みたいでしょう?」と、照れたように僕を見て、笑った。
「おかしな発想ではないよ。将来、そういう流れが来るかもしれない。願う人は、きっと多いよ。……埋めてしまって、いいの?」
「エゴだから、わたしの。たとえ叶ったとしても、それは馨ではないし、彼、きっと嫌がるわ。……持っているもう一つの意味も消えたし」
「もう一つの、意味?」
「馨がいないことに、納得がついたの。わたしは、彼の髪を、よすがにしていたの。彼の一部を持っていることで、痛みに耐えていたの。……けれど、もう、痛まないの。だから……、返してあげたいの、あの人に」
その言葉に、ちくりと僕のどこかが痛んだ。
「前にしか進めないのに、人って何で迷うのかな? 何を悔んでも、過去になんか、戻れないのに…」
行きつ戻りつ。彼女はきっと今の時に至るまで、迷いを重ねたのだろう。その精神の作用は、人の聖域だ。誰も侵せない代わりに、真の意味、誰も手を引き導いてくれない。
行きつ戻りつ…。
彼女の声に、僕の中に紛れていた迷いも浮かぶ。思い惑うその心の象形には、諸星の影が重なっては消えるのだ。
彼女が僕を見る瞳は、照明の光が入りきらりと輝いて、そこからふっくらと涙の粒が生まれた。
はらりとそれがこぼれる。
彼女を引き寄せて、胸に抱いた。糸のような髪を指で掬う。
僕のシャツに、彼女の涙がすべて移ればいいと思った。
彼女の悲しみは、僕に投げればいい。
それは僕が負うものだろう。
きっと僕は、煙草でも吸って、それをやり過ごすから。
手鞠の美しく潤んだ瞳に、今日の午後、母の友人の邸で会った由良と呼ばれた女性を思い出した。少女と言いたいような頼りなげな風情で、なぜか僕の「お嬢さん」と言う呼びかけに、はらはらと大粒の涙を見せた…。
僕にとって、彼女の涙は奇妙で、ほんの通りすがりのものでしかない。けれど、その涙が、こことは違うどこかで、誰かの前に、重さのあるものであってほしいと願うのだ。
 
ほんの少しそうしていて、手鞠は笑顔を見せた。
涙のせいで、やや目が赤い。
「ごめんね。ちょっと感傷的になっただけ」
「いつでも、どうぞ」
「……ふふ、葵のそういうところが、『三ツ矢サイダー』のゆえんかな?」
意味のわからないことを言う。訊けば、諸星が僕のことを、そうたとえたのだという。
何が『三ツ矢サイダー』だ。あいつはさしずめ『ポカ○スウェット』じゃないか。何でできているのか、味も効果もはっきりしない。実にはまる。
「あのね、葵……」
彼女は、先日、彼の子供の葬儀に付き合ったことを告げた。
そして、彼の様子や言葉など、僕に話してくれた。
演出家を気どった諸星は、自分が僕に嫉妬して、それが理由で理子を奪ったのだと告げたという。それに後悔と傷をにじませ、得意のまなざしで手鞠を連れ出したのだろう。
「葵の何もかもが、妬ましかった…。そんな風に言っていたけど…」
嫌になるほどの、発想の貧困さ。クリニックの内装も趣味が悪い……。やつは顔しか取りえがないらしい。
僕は返事の代わりに頬の内側を噛んで、笑いを堪えた。ちょっとは苦い顔になるようで、手鞠は僕を見、しんみりとしたように目を伏せた。
彼女は、グラスのワインを口に運んだ後で、
「でも……」とつぶやく。
「わたしね、如月さん、きっと、彼女のことが、本当に好きだったのだと思うな。葵への嫉妬が、その発端だったとしても…」
「ふうん、どうして?」
「なあに、どうして、葵、そこで笑うの?」
耐え切れず、ふき出した。
諸星の安っぽい筋書きでは、勘がいいとはいえ、部外者の手鞠にすら読まれてしまっている。
彼女は僕を不審そうに眺め、
「思いつきとしか言えないけれど……。とても、辛そうだった。この人も、もしかしたら、何かよすがを持って、耐えているのかしら、なんて、思えてきて…」
言葉の最後に、「また感傷的ね」と小さく付け足した。
「ふうん」
彼の『よすが』とは、何だろう?
子供か、その命に与えた罪か、もしくはいつまでも僕らの前に悪役でいることが、彼のそれなのかもしれない。そうやって、晴れることのない思いに耐えるのか。
 
遠いあの彼女は、それを知ることなど、決してないのに…。
 
あいつが引きずる、消せない恋情こそ、感傷そのものだろう。もう時は十分経た。満ちたはず。思いを抱え続けるのは自由だが、手放す選択肢もすぐそばにある。
 
手鞠は僕の手を取って、甘えるように身を預けてきた。
ふんわりと、彼女の髪と肌の匂いが漂う。僕の好きな、花のような匂い。
「葵には、わたしがいるでしょう。他に、何がほしいの?」
その子猫のような瞳で見つめられると、僕は笑うしかない。
「そうだね」
彼女の手を握り、裸のその指に口付けた。
 
多分、きっと、何も要らないのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
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