憧れの君
見つめるだけの(1

 

 

 

きんと冷えた空気も、そよいで頬に触れる風も。

間違いなく冬のものではあるけれど、からりと晴れた空は青く澄んで、漂うふうわりとした雲も、きれい。青い紙に大きな筆でさらりと書いた、いたずらなお習字みたい。

わたしは庭園に面した長廊下に座り、膝をぶらぶらとさせている。剣の稽古の後でちょっと汗ばんだ肌に、冷たい空気が気持ちいいのだ。

庭の見事に刈られた前栽に、季節はずれの鳥が遊んでいるのが、目にのどかに映えた。

こんな午後には、もうしばらく、このままのんびりと時間を過ごしたい気分になる。

「長子(ながこ)さま。お仕度を」

そろそろ着替えなくてはいけない。

姫らしく化粧も整え、きちんとかしこまった風を作らなくちゃならない。

でももうちょっと、その緊張の前に、少しだけ……。気持ちを落ち着ける、緩んだ時間がほしいのだ。

「長子さま、奥の間にお入り下さいませ。そんな姫らしくない格好をなさっては、そろそろご到着のあのお方も、それはびっくりなさいますわ」

傍らで、きちんと膝をそろえて控えるお側女中忍の声が、長子が返事をしないため、大きくなっている。

「国許からの江戸までのご道中、本陣から本陣への旅のお疲れもおありでございましょう。ましてや、長子さまのお仕度が間に合わずに、ご対面が遅れられては、しようのない柚城のお姫さまだと、呆れてしまわれるかもしれませんわ」

わたしに付いて久しい彼女のねちねちとした言いように、袴の脚をようやく廊下に戻した。

それでも、欠伸をするところを見せたり、「ああ」と面倒気につぶやいてみたり、気が乗らない風を装う。それは、気恥ずかしく面映ゆいため。

彼女を従え、仕度に向かう頃には、ほてっていた肌はもう冷え始めていた。

部屋には、既に広げられた幾枚もの新調の衣装を前に母上がいらした。わたしの顔を見るなり、苛立たしげに、

「長子、何をしていたのです? お仕度の時間でしょう」

小づくりの愛らしいお顔を厳しくしかめ、わたしを睨んでいらっしゃる。随分待ったのだとこぼされた。

「だって、剣のお稽古があるのですもの。○×道場から師範が直々に指南にいらして下さるのに。そっちが先だわ。そもそも長子が、父上にお願いして無理に…」

「お黙りなさい。本日は国許から静香殿がご到着の日なのですよ。とにかく、そのむさくるしい稽古着を脱いでいらっしゃい。それから、湯殿にも。忍、長子姫を連れて行きなさい」

母上は、ついっと顎だけで襖の外を示される。

すぐにまた、衣装の相談に戻った。母上はご自身の品であろうと、娘の品であろうと、はたまた女中の品であろうと、とにかく衣装のご相談がお好きなのだ。

「あまり華美なものは、質実が美徳の武家の姫らしくないかもしれないわ。でも、正式な初めてのお席だから、少し華やいだものがよいかしら……。何しろ橘の奥の方々は、お使いのお側衆も、みやびた京の者が多いと聞きますからね。石高は小なりといえども、古いお家柄。柚城の大身がこの程度と、侮られては堪りませんからね」

悩ましい母上の声も、楽しげに響く。それに同調する奥女中らの声が続く。「そうでございます、奥方さま」、「その兼ね合いが、誠にむつかしゅうございます」……。

馬鹿らしい。

忍に促され、わたしはさっさと母上の御前を失礼した。

 

静香さまにお会いするのは、今日が初めてじゃない。

一度、お祖母さまのご葬儀で、国に帰ったときにお会いしたことがある。

大名の妻子は江戸に留め置かれ、御公儀のお許しがないと滅多なことでは国許に帰ることはできない。わたしが生まれてから国許に帰ったのは、本当に数回もないくらい。

翌年父上が、参勤交代の定めで、国許にお帰りになったのだから、あれはもう三年も前になるのか……。

わたしは忍に手伝われ、湯殿の温かな湯に身を浸した。

あのとき既に父上は、正式に自らの継嗣として、橘家の静香さまを、我が藩へ迎え入れられていたのだ。

あの方は、切れ長の涼しい目許を一度、ちらりとわたしに向けられた。改まった対面でもない、ほんのちょっとでしかない邂逅。

けれどもわたしは、「ああ、あの方がわたしの兄上になられたのか」と、瞬きも忘れて静香さまを見つめたのを、よく覚えている、今なお。

「お湯加減は、いかがでございます?」

忍の声に頷いて応え、頭の中の静香さまを引き出してみる。

父上のお隣りに柚城の真新しいお世継として控えた、凛々しかったお姿、その佇まい。横顔の凛ときれいだったことも。

臣下の前で名乗りをなさったときの、柔らな、ちょっとだけ低いお声も…。

長子は忘れていない。

江戸に離れて暮らしていても、消えず静香さまの面影は、頭のどこかにあり、好きなときそれを取り出しては、ひっそりとときめいていたのだ。

少しだけ交わった視線に、思いがけず頬がじゅんと熱に染まった……。

「あら、姫さま。こちらは?」

背中を流してもらったとき、忍の頓狂な声が湯殿に響いた。

「ああ、稽古中、腕に竹刀が当たっただけよ」

「痣にならないとよろしいのですけれど。ですから、ほどほどになさって下さいませ、と何度も申し上げておりますのに」

「あら、だって、もう少しで、師範代のお免状を下さるって言われたのよ。励まなくっちゃ。それに母上もよくおっしゃるじゃない。武家の女子の嗜みは…とかね」

「姫さまの場合はやり過ぎでございます。もう、痕になるのじゃないでしょうか? ご覧になられたら、橘の殿さまがびっくりなさいますわ。お転婆な姫さまだって」

忍の明け透けな言いように、どきりと胸が鳴った。羞恥に顔も赤くなっているはず。

それを隠すため、手拭で顔をこすって拭い、もう出るわと告げた。

浴衣を背に着せ掛ける忍へ、なるべくさりげない様子で、

「駄目よ。『橘の殿様』なんて言い方は、静香さまは、ご養子に入られて、もう柚城のお方でいらっしゃるのだから」

「そうでございましたわ。これは大変なわきまえないご無礼を。静香さまは近くに長子さまと、祝言を挙げられるのですもの」

「余計なことはいいの」

湯殿を出、ずんずんと奥を進む。

糊の効いた浴衣に包んだ湯にほてった身体が、この日はどこかぎこちない。はっきりと、邸中に、お迎えの仕度の華やいだ雰囲気が漂っているためだろう。

藩主の父上は、既に江戸中屋敷にお着きだという。そちらで旅のお疲れを取り、後着なさる静香さまのお列を待ち、のち、ご一緒にこちらにいいらっしゃるはず…。

思いの他わたしの足取りは、速かったらしい。気づけば、背後に忍がいない。振り返り、ちょっと廊下をうかがう。まだ湯殿にいるのかしら。

身体が少し冷え始めた。身を翻したとき、どんと何かにぶつかった。その弾みで、後ろへややたたらを踏んだ。

たしなみのない新入りの女中だろうか。驚きと、忍にさっき言われた照れ臭い言葉が尾を引いて、叱責の声がやや尖った。

「気をつけなさい」

顔を上げると、いきなり黒いものが一杯に目に入った。殿方の衣だと気づく。女中などではない。

常ないことに、ぎょっとなる。

それと同時に、

「え」

そこにはあろうことか、懐かしい静香さまがのお姿があった。長子が見上げるかの方のその瞳は、わたしと同じく、驚きに見開かれている。

大名の江戸上屋敷の奥内は、藩主の江戸詰めの際の邸宅になり、その家族が常に住まう。我が柚城のお人となられた静香さまが、この場にいらっしゃることに何のおかしなこともない。

けれども、ご到着まで間があるとばかり思い込んでいたので、この不意の再会には面食らい、また動揺し、固まったなり、久方の挨拶も浮かばない。

静香さまは旅装束の黒の羽織に袴のままの姿だ。

「申し訳ない」

すぐにくるりと静香さまは背を向けた。

そのままで、母上に急ぎの用があったとのこと。腰元の取り巻きがうるさく、自分で母上の居場所を探していたということ。そして、国許の城とは勝手が違い、奥内で迷ってしまったこと…、などを早口におっしゃった。

「そこで、こちらに…。失礼を」

それを急ぎ早に告げ、そのまま、行ってしまうのだ。

「あ」

そのときになり、ようやくわたしは、自分が湯上りのはしたない格好であることに気づいた。恥ずかしさと、よりによって、との間の悪さに歯噛みする。

けれども…、

 

三年振りに会えた。

 

「…っくしゅん」

わたしは浴衣の冷える腕を、弾む心ごとしっかりと抱きしめる。

そうしながら、急ぎ足に遠ざかって行く、静香さまのすらりと高く伸びた背中を見つめ続けた。




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