君に会いたくて
見つめるだけの(2)

 

 

 

麻布には大名屋敷が建ち並ぶ。

我が柚城藩を始め、他藩の江戸屋敷がずらりと連なってある。

石高を示す表大門は、左右に番所を設えて、いずれも厳かに重々しい。人々は、姿勢よくきびきびと、やや早足でそれぞれに散っていく。

きりりとして見事で、それらの光景は、見慣れていても清々しく、ちょっと壮観な気持ちさえする。美しいな、と思う。

わたしは、この辺りを、剣の稽古の行き帰りに歩くのが好き。

空気の冷たくきんとする晴れた冬の午後、この先の賢寂寺そばの神柳道場へ向かう。従うのは爺やが一人。

若い師範代が一人、という小さな道場で教えることを、長子はお免状を頂戴した折り、お師匠から勧められた。耳にし、すぐに気持ちが動いた。

母上は、はっきりとご機嫌も斜めに、「柚城の姫のなすべきことではありません」などと、しばらく口もきいて下さらなくなった。

父上にお頼みして、「大名家の身分柄を隠す」ということで、ようやくおとりなしをいただいたのだ。

髪は結わずに一つにまとめ、もちろん屋敷内のような友禅の裾引きなのではなく、袴姿。

女子の袴姿は珍しいから、ちらり、とこちらを遠慮がちに見る、すれ違う者の視線に、「無礼な」とも思いながら、つんと前を見て、気にも留めない素振りを通す。

長子でも、ちょっと珍しい者の姿を見れば、きっと目で追ってしまうだろう。だから、人目はそれほど気にならない。

歩きつつ、癖のように細く吐息が出る。それが悩ましいため息に似ていることに、はっとした。

後ろの爺やに悟られたかと、ややも恥ずかしくなる。知らず、普段の長子にないそんな嘆きが、幾度も唇から洩れたのではないかと思うから。

「大丈夫? ちゃんと付いて来ている?」

「はい、爺めは、姫さまのお後を、付いておりますでございます」

「そう。なら、いいの」

返しにそう頷きつつも、代々柚城の藩士であるが、『忍び』の出自を持つ爺やには、こちらの常ない気配を勘付かれたのではないか、と思う。

のんきな好々爺然の爺やであるが、父上が、長くわたし付きを命ずるだけあり、腕も優れ、また鋭いはず。

頬の内側を噛み、沈みがちな気持ちをちょっと戒めながらも、また「ほうっ」と出かけた。今度は明らかなため息を、無理に飲み込んだ。

自分でも気持ちが落ち込んでいるのが、よくわかっている。

その理由も、簡単には解決策のないことも…。

それは、父上と静香さまが江戸に着かれた数週間前の静香さまとの対面から始まる。

静香さまは、深沈としたご様子で、お疲れからかお言葉もごく少なく、どことなく、憂いのあるような表情を見せられた。わたしは、気まずい再会をした後だけに、もじもじと落ち着かなかった。

その夜の、ごく家族内での久し振りの夕餉をいただいたときも、父上が珍しくお酒を過ごし、上機嫌でいらしたときも、その翌日のお休みの間も、上様のいらっしゃる江戸城へのご登城の折にも、そのお帰りにも。

静香さまからは、一度もわたしにお言葉がなかった。それどころか、屋敷内でお会いしても、目も合わせて下さらないのだ。

慣れない柚城の江戸屋敷に、戸惑っていらっしゃるのかと思った。上様への拝謁、他大名への挨拶など、こちらへいらしてから慌ただしいことも多い。まだお気が休まらないのかも…、と。

そう納得させていたけれど、それからしばらく経ち、ようやく落ち着いた頃になっても、何のお沙汰もない。

道場でお側の者と剣を合わせる余裕はおありなのに。妻になるわたしには、一言もないのだ。

それは、武家では男女がべたべたと親しくするのは、見苦しいとされている。

でも、一言ぐらいいいではないか。

会わない三年の間はどうだったのか、とか。何が好きなのか、とか。いろいろ。お話の種なんて、何でもいい。何かわたしに、おっしゃりたいこと、あるはずじゃない。きっと。

江戸へは京の都を通っていらしたのだから、その折のお話を聞かせて下さってもいい。江戸を出ない長子には、耳に珍しい。

…何でもいいのに。

待つのに倦んで、静香さまが何かお声を下さるのじゃないかと、お住まいのお部屋の辺りをうろうろし、それでも機会がなく、お姿もなかなか見えない。ちらっと、お羽織のお背中を見たくらい。

そんな馬鹿みたいな日々を送るわたしの耳に、ぽんと飛び込んできた言葉があった。静香さまのお側まわりの者の声で、こう聞こえた。

『殿さまも難儀なご様子でいらっしゃるよ。御祝言を挙げられる長子姫は、風変わりとの噂もあるが、大柚城藩のお一人のご息女だ。それに比べて、こちらの殿さまは、いわばはっきりと格下の橘家からのご養子だ。ご苦労もおありだろう……』

「難儀なご様子」、「ご苦労」、「格下の橘家」、「ご養子」…。

それらの言葉に、にわかに目の前が暗くなり、重しで押されたように、胸が塞いだ。

遅れて、「風変り」などと、無礼な陰口にも腹も立ち、悔し紛れに、衣擦れの音も派手やかに身を翻してやった。

ひっそりと書院の辺りで噂話をしていた彼らが、わたしの姿に気づいたかは知らない。どっちでもいい。

ただその後、ひどく落ち込んだのは覚えている。

同じ江戸屋敷という、国許とは比較にならない側にいられて、嬉しいのはわたしだけ。

お慕いしているのは、わたしだけ。

静香さまにとっては、意に沿わない決められた政略結婚でしかないのだ。

涼しい瞳をわたしに向けて下さらないのも、お言葉をかけて下さらないのも、消えない憂いの訳も。

ほろりとわたしの中でつながって、すとんと合点がいった。

年が改まり、静香さまのご入府が近づいてからの、抑えつつも舞い上がった気分を、さっと冷や水で冷やされたよう。あれこれと掛けた期待が、みるみると萎えてしぼんだ。

それから幾日、どれほど落ち込んでいたのだろうか。

今だって、そうでないとはいえない。

けれど…。

そんな折の、お師匠よりの出稽古の誘いだったのだ。わたしは、ちょっとすがるような思いで、請けた。

うじうじと悩むなど、詮がない。それよりも外に出て、何かをなした方がいい。きっとそう。

近く、既に他流の免許を許されていると聞く静香さまに、長子から、お手合わせを願ってもいい。勇気を出して。

それが、何かのきっかけにならないとも限らないではないか……。

そんなことを思うことで、沈みかけた気持ちを引っ張ってきた。

でも、先走ったぬか喜びに似た悔しさや、そのむしゃくしゃした気分は、確かに心の奥に消えない。

だから…。

その日、初めて訪れた古びた神柳道場で、どこかなよっとした若い師範代を相手に、こてんぱんに打ち込んでしまった。

 

 

道場の帰りに、白金の方まで足を伸ばし、母上の末の妹君にあたり、『香琳庵』の庵主である叔母さまを訪ねた。

この叔母さまは、歳もまだお若い。ほんの三十ほどだ。それがすっかりと紫の袈裟を纏い、白い衣で頭を隠してしまっている様は、長子には、惜しいような、ちょっとお気の毒な気もする。

けれども、先の上様の大奥にあり、その晩年にとてもご寵愛を受けた上臈でいらしたのだから、御世が変った今、この身を律した処し方は、致し方がないのだろう。

座敷に通されると、叔母さまは縁側に立ち、小鳥に餌を与えていらした。まあるく刈られた前栽の辺りに、雀がちいちいと遊んでいる。

その叔母さまは、わたしの様子に、ぷっと吹き出した。屑のついた手を払い、ゆったりと、床の間のお軸を背に座られる。

「まあ、可愛らしい剣士さんね。長子の気ままに、姉上のお怒りのご様子が、目に浮かぶわ」

「父上におとりなしをお願いして、やっと剣術指南のご許可をいただいたの。でも、まだ目がきっとお怒りよ」

これも尼姿の者が、お茶を運んできた。疲れた後で、温かなお茶がおいしい。気の置けない叔母さまの前でもあるし、わたしは茶菓子のお団子も、ぱくりと口に運んだ。

「柚城の殿は、長子にお甘いから」

つらつらと屋敷内の話や、近況を交換し終えた頃、「ねえ」と叔母さまが、切り出された。

「静香殿のご様子は?」

一番言いたくないことで、一番言ってしまいたいことでもある。第一今日、ここに叔母さまを訪ねたのも、そのことを聞いてほしいからに違いないのだ。

彼女は、わたしが静香さまに思いを寄せているのを、とうにご承知になっている。

お言葉をきっかけに、わたしはここのところの悩みも思いも、打ち明けた。

「柚城に来られて、三年も経つわ。静香さまも、もしかしたら、長子を少しは気に入って、好いて下さっているのじゃないかって…。でも、それは勝手なうぬぼれだったの」

喋りながら、興奮し、涙がこぼれた。「まあ、まあ」と、叔母さまが懐紙を渡して下さる。それで長子は涙を拭い、しゃくり上げながらも続ける。

「静香さまはきっと、柚城藩の大身に目がくらんだのだわ。だから、お話をお受けになったのだわ…、だから、姫の、わたしのことなんて、どうでもいいの。静香さまがお望みなのは、わたしじゃなくて、柚城の藩主の座なの。きっとそうよ。ひどいわ。裏切りだわ」

「長子、あなた話が滅茶苦茶だわ」

叔母さまが苦笑し、「静香殿が、『目がくらんだ』かは別として」と返し、お茶を少し含んでから、やや小首を傾げ、

「橘家ではお断りになれない筋からの縁組ではあったのよ。ご老中を通してのお話でもあったし…」

静香さまとの縁組に、「ご老中」などという御公儀のご大層な方が関わっていたことを、初めて知った。驚きで、間が抜けたように、ちょっとぽかんとしてしまう。

「柚城のお家には、今、男のお子様がおありでないでしょう。あなたのお父上は、跡取りのいらっしゃらないのを、それは悩まれていたのよ。わかるでしょう、長子」

武家の、特に大名家に跡継ぎのないことは、『お家の御取り潰し』に関わる、極めて重大な問題だ。長子でも知る。

男子に恵まれない大名家では、他家から養子を迎えることで、この問題を解決させてきた。だから、静香さまのように、他家に養子に入られるのは、当たり前に行われていること。ちっとも珍しくない。

「手を尽くして捜されて……。わたしも、少しばかりのお手伝いをさせていただいたのだけれどもね」

叔母さまは、大奥にあってときめいた経緯からか、幕府の人脈に明るくていらっしゃる。もちろんその背景には、気取らず、先の上様のご寵愛の権威を嵩に着なかった、独特のさわやかなお人柄もあると思う。

「誰でもいいという訳にはいかないでしょう。先、藩を担ってゆかれる方ですもの。橘のお家からお迎えするに際し、多少の無理はあったと、聞くわ」

そうやってあらゆるつてを頼り、父上が見つけられたのが、橘家の静香さまだった。

叔母さまのおっしゃった「多少」の無理が、どの程度の無理かは、当時既に家督されていた静香さまが、柚城に来られたことを思い起こせば、ぼんやりと想像がつく。

ここまで聞いて、わがままな自分の涙に気づいた。はばかりもせず、「柚城の大身に目がくらんだ」などと浅はかに口にした自分が、恥ずかしい。

静香さまが、柚城にあって、面白いはずがないではないか。

ご生家の当主の座から引き剥がされ、他家に養子に引っ張ってこられたのだ。しかも断りようのない、権力者の力で、ねじ伏せるように。

殿方として、自尊心の許さない、詰まらない、余程お辛い縁組だったのだろう。

その柚城の姫に、どうして親しみが持てよう。どうして笑ってなどいられよう。

黙り込んだわたしに、叔母さまのお声が優しく降った。

「悩むことはないのよ。長子のせいではないわ。どうであれ、静香殿がお選びになったの。柚城へ行くとお決めになったの」

小刻みに頷きながらも、その慰めが、しっくりと心に落ち着かない。喉にさっきのお団子が引っかかっているような心地悪さ。

わたしのせいではないと言うけれど。

けれども……、

静香さまは、柚城がお好きだろうか? もしくはこれから好きになっていただけるのだろうか?

いたたまれないような嫌な思いでだけは、我が家にいてほしくない。もうあなたは柚城の人間なのだから。

ふと、気配に目をやれば、先ほどの尼が再び現れ、叔母さまに何か耳打ちしている。それに叔母さまも何か応じられたようだけど、自分の心の声にいっぱいで、まるで耳に入ってこない。

静香さまは、今何を思っておいでなのだろう。

少しでも、柚城を好きになっていただきたい。

父上は強引なところもおありだけれど、それはご立派な方だし、母上はうるさいお小言は嫌だけれど、長子の知る中で一番のやっぱり素敵な貴婦人でいらっしゃる。

海の臨める藩は、お魚がおいしいし、作物もよく実る。雪が少なく穏やかで、季節の風は優しい……。

好きになってほしい。

少し、時間はかかっても。

その後でいいから、わたしのことも、ほんのちょっぴりお心に留めてくれたら、嬉しい…。

そんなことを思うと、ささくれかけた気持ちが凪ぐように感じられる。

どれほど時間がかかるかはわからない。けれども、長子は待てばよいのだ、静香さまのお心が傾いで下さるのを。そう了見できれば、気持ちがうんと軽やかになった。

「長子」

叔母さまのお声にはっと顔を上げた。物思いで、ついぼんやりとしていた。

叔母さまは、これから客があるとおっしゃる。それなら、と暇を告げようと立ち上がると、彼女は手で止めた。

「気の置けないお方だから、いらっしゃいな。ちょうどよいから、あなたにご紹介するわ」

ほどなくすっと襖が開き、そこにあった姿は殿方のものだった。青藤色の羽織にややそれに濃い瑠璃紺の袴。外した大小を右手に束ね持っている。

静香さまより、一つ二つ年上に見えた。

お客人はちらりと長子を見、膝を折りながら、

「香月(こうづき)さま…?」

叔母さまに問う怪訝な、でもどこかおかしがっているような声だ。何が面白いのだろう。

叔母さまが自分の姪だと、わたしを紹介なさる。

「ああ、なるほど。よく似ておいでです。随分可愛らしい少年剣士が、こちらに何用かと、勘繰りました。はて、香月さまには、そちらの趣味がおありだったのかと」

軽い冗談のような含み笑いに、叔母さまがさも楽しげに、膝を打って笑った。

「おかしなことを。伊織殿はいつも笑わせて下さるわ」

二人の親しげな雰囲気に、わたしは虚をつかれた。この『伊織』という殿方は、誰なのだろう。涼しい面差しは冷たくも感じられる。

叔母さまのお知り合いには、違いなさそうだけれど……。

その人は、はっきりとわたしに瞳を合わせ、少し笑んだ。

「姫、お見知りおきを」




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