シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜
 
1
 
 
 
風薫る季節。
日を受けた緑がまぶしく、頬をなぜていくそれは、ほのかにみずみずしい葉の匂いがする。
ふとすれば、千代田のお城の甍が望める榊家の丸の内の上屋敷は、庭園にこんもりとした木々が茂り、風にその青いような香が漂ってくるのだ。
主である伊織の登城の便によく、こちらは表邸として用いられている。婚儀の後は、わたしもこちらに住まう形になっている。
伊織が邸内にいるときは、老中である彼のために人も詰め、それはざわめいた感がする邸であるけれども、留守ともなれば、人声も少なくなり女子衆も静まり、物足りないほどに落ち着いてしまう邸である。
けれども、そんな邸の静寂がにわかに破られたのは、小さな赤子の泣き声と、それに応じる女たちの声のため。
それも二つとあっては、いつもの静けさなど飛んでいってしまう。
冬の終わりに生まれた二人の小さな小さな新たな家族を、わたしは伊織に目許が似ている言い、彼はまんまるな顔がわたしによく似ていると笑うのだ。
尚(なお)と誓(ちか)。伊織はわたしを、可愛い双子の男の子の母にしてくれた。
 
赤子がいる邸というのは、騒がしいものである。なるべく抱いたり触れたりはするけれど、数ヶ月も経てばその目新しい忙しさにも慣れてしまう。
それに、あまりうるさく構うと、双子のそばの奥女中が、ちくりと刺すこともある。
榊に長く仕える、萩野という名の彼女の「お家のお育て様がございます」という厳しい顔つきと重さのある声に、最初こそ「まあ」と感心したものだが、何とはなしにお小言の回を経るごとに、ちらりとした剣と嫌な底意を感じるのだ。
それに何より、我が柚城も歴とした大名家。将軍家につながるという御血筋の榊家には劣るとも、子供の育て方にいちいち「お家」を出されては、面白くない。まるで遠回しに、「姫さまは榊家より劣り腹」などと言われているようにすら感じる。
そんな経緯で、または持て余した退屈をやり過ごすため、わたしは伊織の留守の際には、尚と誓をつれ(つれないときもある)白金の叔母の庵に遊びに行ったり、静香さまの藩邸を訪ねたり、実家であり、生家の柚城家に連泊したり勝手気ままにしている。
どことなく辛気臭い榊家の格式張った奥女中らには、伊織の不在の間にまでも、敢えて接していたくなどない。
 
馴染んだ我が柚城家の居間で、母上のさせたいままに双子を預け、それを眺めながら、わたしは金平糖を噛んで、母上の飼うぶち猫をなぜている。これは見るたびに太っている。母上は、一体何を食べさせていらっしゃるのだろう。
側女中の忍を追い立て、あれを持ってきて、これに変えて頂戴と、気ままに過ごすのは、とても気が楽。つい膝も緩み、いつしか裾が割れ、ふくらはぎがのぞいていると、父上へのご挨拶の後で顔を出したという叔母に、やんわりとたしなめられる。
「伊織殿のご母堂も、若奥方の長子がこれでは、ご苦労なことだわ」
叔母は笑みを交えて言いながら、母上から誓を受け取り、膝に抱いてやっている。
わたしは叔母の言葉に、義母上はあまり上屋敷にはいらっしゃらないと答えた。
「『長子殿のお好きになさいませ』とおっしゃって下さるの」
伊織の継母に当たるこの方は、実にあっさりとした方で、びっくりするほど。孫についても、月に一度ほどにたまさか訪れ、気紛れに遊んで下さるだけだ。「お若い方の自由なように」と、おっしゃるばかり。お茶をたしなむ方だから、そのご趣味が楽しいらしく、そのお話をよくされる。お側まわりから、世間知らずなわたしが邸を切り盛りしやすいようにと、物慣れた奥女中を手配して下さりもした。
義母上のそのわたしに応援するような放任な雰囲気が味気ないのか、物足りないのか、古参の奥女中などは、ほろりとこちらに嫌味を言ったりするのだけれども……。まあ、それは置いておいて。
伊織のちょっと突き放すような癖などは、案外母上譲りなのかもしれない。
「あら、おなかが空いたのかしら?」
むずがり出した尚を見て、同じように誓までが泣き出した。競い合うように二人が泣くので、居間中にいっぱい泣き声が響く。母上のぶち猫までが、駆け回り鳴き出すから敵わない。
「姫さま」と乳母がそろそろと顔出し、頷くその腕に渡す。二人が別室に移ると、ほっとするほどに静かになる。
それでも甘い赤子独特の芳しい匂いが残る。伊織はこれが好きで、この匂いがすると、わたしをよく抱きしめるのだ。
それにつられ、ふと思う。どれだけ彼に会っていないのだろう。
七日? それとも十日だろうか。
母上や叔母と他愛もない話をし、ちょっと考えて、こちらに二三日泊まることにする。その旨を供の者に忍に伝えさせると、母上は喜び、叔母はやっぱりくすりと笑う。
「まあまあ、奥方になっても、長子は変わらないわね、好き勝手に」
「だって…ひおりは、ひないのだもの」
口に含んだ大きな飴玉のせいで上手く声にならない。
叔母はそれでも意味を解すらしく、「お忙しいのよ。近く上様が鷹野を催されるそうだから、その地の選定やら決め事も多いのよ。干拓も絡むもので、純粋なお遊びだけではないようよ」
さすがに叔母は早耳というか、よく知っている。
「ふうん」
実際、伊織とは月に半分も会えない。老中とはこれほど忙しい職なのかと、身近に接して改めて知った。お城に泊り込む日が平気で続く。帰って来たらきたで、ぐるりと彼の幕僚である側の者がおり、用が済み、彼らが下がるまで言葉も簡単に交わせないくらい。
当然女子衆らは、女主のわたしにお客のもてなしの差配を仰いでくるし、訳がわからず、つい古参の奥女中に指示を求め、そうなると彼女たちの鼻がぐんと高くなる。今ではすべてを丸投げすることはないけれど。
大名家とは勝手が違い、慣れるまで(まだ慣れた訳でもないけれど)時間がかかったものだ。
それに、続けてお休みの日もあるけれど、そんなとき子供たちと遊んでくれても、まったく御用の邪魔が入らないときなどないほど。
そんなことを考え、ちょっと小さなため息が出る。
頭では慣れたようで、本当は身体が覚えた伊織のいない時間と空間。
御役目であり、彼がそういう立場の人であることは知って好きになった。ほぼ初めから、彼が老中であると知っていたのだ。
だからそれを埋めようと、紛らせようと長子だって、我慢も努力も気も使っているつもり。事実、双子の尚と誓を相手にしていると、しみじみと楽しくて時間も忘れる。
嘯くほどの口ぶりで、わたしは「留守の間に好きにしても、伊織はちっとも気にしない」のだと言った。実際そうであるし。
「何を榊のお家に遠慮することがあるの? だって伊織殿は老中でいらっしゃっても、我が柚城の婿君でしょう? 香子〔叔母の実名〕の言うことは固くていけないわ。ここは大奥でもないでしょうに」
母上は小首を傾げておっしゃる。ついでにぽろりと、
「どちらかと言えば、わたくしは静香殿の方がよかったわ」
静香さまにはお茶の席に何度かおつき合い願い、母上のお友達の間でも「羨ましいお婿様」と大層評判になっていたらしい。義母に孝を尽くす見栄えのいい婿君を伴うのは、母上のお仲間の間で流行っているらしい。
「伊織殿にもお願いしようかしらって、殿に申し上げたら、馬鹿を言うなと、怖いお顔でお叱りを受けたわ」
「まあ、姉上ったら。そのお顔、長子、あなたにそっくりね」
叔母がぷっとおかしそうに吹き出した。
一度外に出てよくわかる、我が母上というお人は、確かに長子にとってもよく似ていらっしゃる。
お顔も、その気ままなご性格も。
 
 
翌日、午後までゆっくりと柚城家で過ごした。
明日の午後にでも、静香さまをお訪ねしようかしら、などと思い立ち、忍を呼んだとき、当の本人が襖を開けて控えている。
何か用事らしく、促すと榊の上屋敷に伊織が帰ってきたという。その知らせが、先ほどこちらにやって来たのだとか。
彼はわたしが出歩くことを、あまり気にした風もないけれど、さすがに久々に帰宅し、それを迎える妻が遊びに出かけて不在というのは、あまりに間が抜けている。面白かろうはずがない。
「帰るわ。仕度を」
尚と誓を伴い、急いで丸の内の邸に戻ると、伊織はまだ御用が済んでいないらしく、いつものお客連と表書院にいるらしい。
直に正妻のわたしが、幕僚方へ挨拶に出向くのは軽々しいし、客人のもてなしの差配は、うるさ型で古参奥女中の萩野が、つんと胸をそらせて「姫さまのお留守に、萩野の命で済んでおります」とのこと。
要するに、伊織の身体が空くまでは、わたしはすることがないのだ。急いで帰ってきた割りに、この拍子抜けな展開は、邸を空けていた自分のせいではあるけれど、詰まらなく、ちょっとやるせない。
宵に入り、食事を済ませ、傍らに尚と誓を遊ばせ、大人しくなったようだと思った途端、欠伸がこぼれる。奥の間の庭に面した障子を、先ほどまで開け放してあった。そのため、宵のしっとりとした緑の香りが、辺りに舞っている。
初夏に移る季節の夜は、空気も柔らかで、うっとりとたやすくまぶたが落ちていく。
双子のあえかな寝息に何だか癒されるように、脇息にもたれ眠りの入り口をさまよう頃、物音に目覚めた。襖を開け閉めする音や、軽い衣擦れ。それに、ぽんと頬に触れる気配で瞳を開ける。
視線の向こうに伊織がいた。裃の礼装は解き、軽い小袖になっている。
お客人は、と問うと、帰った、と返る。
「風邪を引かすな」
気づくと、尚と誓は、ころんと仰向けに薄着のまま眠っている。いけない。熱を出してしまうかもしれない。
伊織が二人を腕に抱き上げ、誓を肩に乗せ、尚を小脇に抱えるようにし、足先で襖を開け人を呼ぶ。
不意に現れた父上に、すっかり目を覚ました二人は、嬉しいのかおかしいのか、きゃっきゃきゃっきゃと笑い出した。彼の耳を引っ張る尚に、ずるずると背中へ這い上がろうとする誓。乳母が姿を見せても、興奮するのか、盛んに声を上げるばかり。伊織も双子には珍しいおもちゃでしかなく、離れようとしない。
伊織がそれに振り回されるのが、わたしにもおかしい。
「頼む。お前ら、もう寝てくれ」
散々の後で、剥ぐように二人を乳母に渡すと、伊織は疲れたのか大きく吐息し、肩を少し回した。それからわたしの膝に頭を預けて横になる。
「重い」
「そうか?」
そう言っても、彼はちょっと欠伸をもらすばかりで、頭をのける素振りもない。本当のことを言えば、そんなに膝に重くもない。
久し振りに会った伊織は、言葉少なに日々のことを尋ねた。それにはほぼ、双子のことを思いつくまま答え、ふと思い出して、叔母から聞いた近くに催されるという、上様の鷹野触れた。「どこでするの?」
「香月さまか? まだはっきりと決まってない」
伊織はわたしの遊んでいる手を捉え、それに指を絡め、ときに自分の唇の辺りに持っていく。
今回は珍しくも、ご事情があり御台様が御一緒なのだそうだ。そのため日程も行程も決めにくく、難渋しているようなことを、彼はほろりともらした。
「御台様も狩りをなさるの?」
「いや、ご覧になるだけだろう」
「ふうん」
長子も見てみたい、とちょっとねだるような、甘えるような声で言うと、彼はそれを笑ってかわした。本気でわたしも言っているのではない。叶う訳がない。
ほのかに凝らした瞳。節高の指。それが頬に滑り、首から肩に注がれる。
耳に微かな泣き声が聞こえた。尚だろうか、誓の方だろうか。寝つかれず、むずがっているのかもしれない。そんなことを思い巡らすと、視線がさまよう。
「姫」
身を起こした伊織が、少しだけ乱暴にわたしを引き寄せて唇を重ねた。ひやりとした唇は、触れ合ってすぐに熱を帯びていく。
久しぶりに会うと、肌を合わせるのはいつものこと。そんなときの伊織は、ちょっと意地が悪いほど力を込める。
帯を解く指も、襟元を寛がせるときも、裾を割り滑る手も、焦れたかのように強く、ためらいがない。
好き合って、互いだけだと思い知って結ばれた。
「ねえ、伊織…」
認められ、愛らしい子を授かった。なのに、まだこんな風に抱き合うのはなぜだろう。
時間が惜しいかのように、何かに急かされるように。まるで、あの日の切ない儚い逢瀬のように。
伊織はどうしてわたしを、こんな風に求めるのだろう。言葉もない。くれるのは、強い腕の熱だけ。
「ねえ…」
 
露になった乳房に彼の頬が触れる。そのまま預けて眠ってしまったのではないかと思うほどの沈黙。
少し小袖で身を直し、瞳を閉じたままの傍らの伊織の顔をのぞいた。
肩に衣を掛け、再び身を横たえると、少し彼が身じろぎし、わたしにそのまま腕を回す。仕草に、起きていたのだと気づく。
明日は出仕の予定のこと。多分そのままお城に泊まること。そんな夫婦らしい会話の後で、わたしは「ねえ」と、また問いかけた。
「長子が好き?」
「ああ」
そのいい加減な短い答えに物足りず、もう一度尋ねる。伊織は欠伸交じりに、
「じゃなかったら、無理に帰ってこねえよ」
それに重ねる問いに答えはない。黙らせるようにわたしの唇を塞ぐのだ。
忙しい時間に無理をつけて、会いに帰ってきてくれたのだろうか。わたしや尚と誓に。
それが嬉しくて、留守の寂しさも、ちょっとした憂さも晴れてしまう。側にいて、腕に抱いてくれる彼の暖かさに、うっとりと幸せに浸るのだ。
 
翌朝、寝坊をしてしまった。伊織が出仕のために起き出したときも、頭がじんと痛く、熱っぽかった。
「気にするな、寝ていろ」
少し青い顔をしているというわたしに簡単にそう言って、伊織は寝間を出て、さっさと出かけて行った。
実を言えば、こんなことはしょっちゅうだ。共寝をすると、どうしてだか翌日、気分が優れないことが多い。
わたしがいなくても、伊織はちっとも仕度に困らないから、そんなときは無理をせず横になっている。そうすれば、午前遅くには身体も楽になっているのだ。
この日も遅くに起き出し、身支度を済ませて双子の部屋に向かう。
居間には、彼らのおもちゃが畳に散らばり、機嫌よく遊んでもらっている。
「姫さま、お加減がお悪いとうかがいましたが、もうよろしゅうございますか?」
「もう大丈夫。風邪かしら」
乳母の声に応え、側の誓を抱き上げると、ふっと背後から剣のある声が降ってきた。
「お風邪なのでしたら若君方に、お触れにならない方がよろしゅうございましょうに。…少将〔伊織の官位名〕さまの登城のお見送りも辞退なされるほど具合がお悪うございますのに」
息を飲むほどの悪意のある言い方に、わたしは呆気にとられてしまった。これまでこんなような物言いを受けたことがない。
ちょっと、応えに困るほどびっくりしたのだ。腹が立つより、驚きが勝った。
きりりとした居住まいの壮年を越えた奥女中萩野の佇まいは悔しいほどに隙がなく、見事なのだ。
「え」
彼女を眺め、馬鹿みたいに、そんな声しか出ない。
困ったような乳母の咳払いが聞こえ、わたしは誓に伸ばした手を止めた。
考えれば、萩野の申すことは、棘があっても一々もっともだ。風邪気味であるのならば、彼らにうつす心配がある。赤子は病に弱く、側に寄らない方がいいに決まっている。
「そうね、少し後で来るわ」
それでも名残惜しく二人に視線を送り、襖から廊下へ出たわたしの背中に、ささやくには大きい声が聞かれた。
 
「閨のお勤めしか、用をなさないお方でしょう」
 
冷水を頭からぶちまかれたかのように、その声が響いた。乳母の、それを急ぎたしなめる声もしたが、どうでもいい。
頭の中をぐるぐると嫌な言葉が、駆け回る。『閨のお勤めしか用をなさない』、『閨のお勤めしか…』……。
『閨のお勤めしか』……。
どう考えても、侮辱以外に意味が取れない。他にどう意味が探れよう。
足音や衣の音がしないのだから、襖の外でわたしが耳にしているのは、ちゃんと知っているだろうに。了解しながら、敢えて口にしたのだ。なんて嫌な女中だろう。
たっぷりとその場で言葉を反芻し、ようやくあまりな無礼に、腹立ちが抑えきれないほどになった。
何か言葉を投げつけてやろうと口を開け、悪態をつく前に、ほろほろと涙がこぼれたのには、自分でも驚いた。
こんなときに泣くだけの姫ではなかったはずなのに。
わたしは指の腹で涙を拭い、鼻をすすってから声を出した。
「萩野、わたしの側が気に入らないのであれば、芝の義母上のお邸にお戻りなさい。目障りです」
それに返事はない。
返ってくるのは、朗らかな双子の声ばかり。



        

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