シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜
 
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胸に刺さったひどく嫌な言葉は、簡単に抜けない。そのままで、心の奥に突き立ったままで、ある。
わたしにあんな侮辱を投げた萩野は、翌日も当然のように邸におり、お城からの伊織の使いにも、「お裃のご用意はいかがいたしましょう? わたくしのわきまえでよろしければ…」などとすっきりした顔で進言をしてくる。
何のわだかまりもないかのような、隙のないほどの物慣れた運びに、あれは、わたしの聞き間違いだったのかとも思えてくる。
「そうね…」
けれども、わたしがよくわからない伊織のお城でのご用を彼女の言うままに頷くと、うっすらと、だけれど冷たい頬にはっきりと驕った笑みを見つけたのだ。
その小ざかしい嫌らしさに、確かなわたしへの嘲笑がうかがえる。
 
『閨のお勤めしか、用をなさないお方でしょう』
 
やはり、あの萩野の言葉は彼女が意志を持って口にしたのだ。わたしの耳に届くように。
考えれば考えるほど、胸に黒々と怒りが込み上げ、とても萩野の顔など見ていられない。側にもいたくない。
昨日言ったように、わたしが気に入らないのであれば、早く義母上の芝のお邸に戻ればいいのに。彼女の空きなど、誰だって埋められる。代わりに柚城から寄越してもらえばいい。いっそわたしから、義母上に申し上げようかとも思う。「とっても無礼な女中ですから、お返しします」とでも言って。
とにかく、あんな失礼で無礼な言葉は受けたことがないのだ。自分の仕える邸の女主人に向かって、あんな、あんな……。
伊織に会えるのは月に半分ほどもない。顔や姿を見たり、会えたらそれは嬉しい。尚や誓のことだって、長子一人には抱えきれないことだってある。彼に聞いてもらいたい、知っておいてほしい。
そんなことを交わす時間は思いの他、少ない。だから大事なその時間に、話したりときには長子が甘えたり、そして、彼の望むように二人で過ごすのは、どうしていけないのだろう。
伊織は腕の中でしか、わたしに甘い言葉を言ってはくれない。それをねだるのも、久し振りに会える宵の、密かな楽しみであるのに。
けれども、珍しく義母上が、変わりがないか、こちらの様子を聞かせるようにと知らせを下さったそのお返しにも、結局言い出せずじまい。義母上は、わたしへの親切で気に入りの萩野を遣わして下さっているのだ。仇で返すような行為は、角がたつかもしれない。
晴れ渡った日に、鬱々とこんな物思いは腹が立つばかり。どうせならと、気晴らしも兼ね、出かけようと思い立つ。
「そうだ」
仕度を命じながら、こんなことを話せるのはあの人しかいない。彼女に聞いてもらうのだ。いい意見をもらえるかもしれないのだから。
 
 
深川界隈は、昼の風景と夜の帳が下りた景色とでは、がらりと雰囲気が異なって見える。
昼の明るさでは、町はちょうど美女のお湯上がりの素肌のようであるし、宵には白粉の匂いのするしっとりとした艶っぽさを感じる。
こんなことを思うのは、わたしが知る深川芸妓牡丹の印象が、そのものなのかもしれない。
店が建ち並ぶその奥にひっそりとした、しもた屋風の小ぎれいな家屋がある。玄関の前には弦を伸ばしかけた朝顔が這い、きれいに掃き清められている。牡丹はこの家で時間の空きには三味線を教え、夜は断りの効かないごく贔屓の座敷に上がる生活を送っている。
そして、伊織の幼馴染である沢渡俊輔殿の、恋人である。
姉さん被りをした牡丹は、わたしがいきなり顔を出したので、目を丸くしたが、すぐににこりと笑顔で迎えてくれた。
「またこんな場所に…」
長火鉢を置いた居間は、小さな水屋が置かれ、彼女の繕い仕事の駕籠が見える。そこに男ものの浴衣地を見つけた。きっと俊輔殿の着る浴衣を、彼女が手ずから縫って差し上げるのだろう。
何となく素敵だな、と思った。
小女がお茶とお菓子を運んできた。遠慮なくそれに口をつけ、牡丹が問う、供の者はどうしたのかには、その辺りの甘味処にいると答えた。
「お庭にでも召して下されば。あたしが参りますのに」
「いいの。出かけたかったの」
「相変わらずですねえ、姫さまは。お母上になられたというのに。お坊ちゃん方はお元気でいらっしゃいますか?」
「ええ、元気よ」
昼であり、化粧気のない彼女のつるりときれいな肌を見ながら、「ねえ」と切り出した。
昨日の萩野から受けた侮辱を彼女に晒すと、牡丹は「あら」としばらく絶句し、「嫌なお女中でございますねえ。もしかして、ご自分がお寂しいのじゃあないかしらん」などと笑った。
「まさか、もうお婆さんに近いのよ」
「女のその道は一生と言いますからねえ、わかったもんじゃあありませんよ。そっちの気が枯れない大年増だって、ちらほら聞きますから」
「嫌だ、牡丹ったら」
「お気になさる方がご損ってもんですよ。なに、知らぬ顔をしていらしゃったら、よろしいじゃあないですか。下らないことを口にして、人様の癇に障るのを楽しむ変わり者もおりますよ」
「うん」
それに、と牡丹はころころ笑い、「あたしの朋輩には、榊の殿さまの『閨のお勤め』なら、大喜びで自分から帯を解くのがそれは大勢」
「まあ」
「それくらい姫さまは、お羨ましいお身の上なんでございますよ。そんなお方の可愛らしいお子までいらっしゃる。ご正妻さまでいらっしゃるのだから、どんと構えて、余計な声は聞かぬが華ってもんですよ。あたしなんかの目から見ても、旦那は姫さま一筋でいらっしゃいますよ」
微妙に話が逸れてしまい、牡丹の言いようでは、まるでわたしが伊織の艶聞を心配しているかのようになってしまっている。けれども、そんな話を通して、わたしの気を和らげてくれるのがわかるのだ。
「姫さまのことを、たとえて『思いがけない溝に、下駄がはまって抜けん』なんて、俊輔さまにおっしゃっていたのを耳にしたことがありますもの」
「ふうん」
嬉しくはある。もっときれいなたとえが他にもあるだろうと、ふくれそうになるけれど。やっぱり嬉しい。
照れ隠しにうつむくと、視線が駕籠の浴衣地を捉えた。縞に惹かれ、ちょっと指で触れる。
その仕草に何を思ったのか、牡丹は、「姫さまには姫さまの魅力がおありでございますよ。女はしおらしく針を持つだけが能じゃあありませんよ。旦那がお好きなのは、当たり前の女子じゃないじゃあないでしょうかねえ」
「そうかしら」
長子は針仕事もできない。習うには習ったが、剣の方が面白く、いつしかすっかり忘れてしまったくらい。女子らしくない。
伊織は長子のどこが好きなんだろう。ときにささやいてくれるように、顔かたち? 朗らかだという性格? 
お転婆で変わり者の長子を好きになってくれた伊織も、やっぱりどこかきっと変なのだろう。
 
牡丹の家から帰ると、すっかり気分も晴れていた。
もやもやも忘れ、尚と誓と遊んでいると、夕刻、居間のわたしへ女中が知らせに来た。伊織が帰ったという。
どうせまた彼にはご用があるのだろうと、「わかった」と頷き、注意を双子に戻した。
女中が去る気配がないので、再び顔を上げると、そこにはいつしか萩野がいた。廊下を滑るかのようにやって来たのか、足音すら感じなかった。
彼女の存在に、嫌な思いがちらりと顔を出すが、何気ない声で「何か?」と訊ねた。
気にしていない素振りを努める。牡丹の言うように、萩野の言葉に慌てるわたしの態度が面白いのかもしれない。それが彼女の陰湿な楽しみなのかもしれない。だったら、可哀そうなほど、気持ちの悪い趣味だ。
「姫さま」
この邸の者はどうしてか、わたしを「奥方」とは呼ばない。伊織がいまだにわたしを「姫」と呼ぶからかもしれない。呼称などどうでもよいけれど、ちょっとだけ萩野の前では、そんなことを思う。
「お耳に入れてよいか、迷いましたが…」
「え」
ためらう風を見せながら、冷たい落ち着いた瞳をわたしに据え、萩野は存外滑らかに、ささやくほど小さく話しだした。「ご用で、大奥さまの芝のお邸に上がったときに、耳にいたしまして…」
その声にわたしは、返事をできなかった。
まさか、とも思い、けれども…とも思う。
 
いつも伊織を取り巻く幕僚方も、今日はおらず、珍しくまっすぐに、わたしがいる奥の居間に入ってきた。
正式に鷹野の日程が決まり、その前に休みが取れたのだという。
裃から着替えを手伝い、大小を受け取る。屋敷表とは違い、こちらの奥では、殿方の側近も置かず、ごくさっぱりとしたしきたりになっている。
二、三日身体が空くという彼に、「ふうん」と返すと、その返事が素っ気ないと、ちょっと頬をつねられた。
「もっと喜べよ」
「嬉しくないもの」
顔を逸らすと、少し尖った声が降る。
「どうした?」
伊織から身を離し、双子に向き直る。わたしの硬い雰囲気に、敏く何かを感じるのか、くしゃりと二人とも顔を歪めた。泣き出しそうにしている。
可哀そう。
尚と誓を抱きしめ、その様子を立ったまま、黙って見ているだろう伊織に訊いた。
「…なのに、長子は、…のお勤めしか、能がないのでしょう?」
「あ?」
聞き取れないのか焦れたような、嫌な反問が返る。ときに伊織は、突き放すように、わたしに接する。会話も、態度も、触れ合いも……。
「長子は、……伊織の閨の相手だけをしていればいいの?」
「何を言うかと思ったら…」
呆れた、笑い声がする。屈んだ彼が、わたしの肩を引いた。「なあ、俺がいつも邸を空けるから、拗ねているのか?」
返事をせずにいると、どこか笑みを引きずった声で、伊織は、「姫が満足に務まるのは、閨くらいだろう? 俺はそれでいい。それじゃあ、いけないのか?」
伊織の暴言は今に始まったことじゃない。悪意のないからかいも、最初から知っている。彼の癖だってことも。
許せないのは、嫌なのはそんなことじゃない。
 
『少将さまには、姫さまの他にご寵愛になるお方がおできになったと、朋輩どもの噂に聞きます。だから、こちらにはお足が向かれないのだと。大奥さまも、姫さまをご心配のご様子で…』
 
萩野のねっとりとした冷たいささやき。それが、甦って耳に響き、泣きたくないのに涙を呼んでくる。
嘘かもしれない。あの萩野が口にしたのだ。嘘かもしれない。
「嫌い」
でも、でも、珍しく、義母上からお使いがあった。そんな嫌な噂は確かにあるのかもしれない。
「嫌い」
本当じゃないかもしれない。噂だけなのかもしれない。
けれど、そんな噂に上るほど、伊織の帰宅がまばらなのだろう。
「伊織なんか嫌い」
耳にしたくなかった。嫌な噂。汚らわしい噂。
「嫌い」
そんな噂を立てさせる伊織も嫌い。
「嫌い」
機嫌を損ねたまま、ぐずぐずと涙を引きずるわたしに、いい加減まなじりを拭う仕草に焦れたのか、彼は指で涙をぱちりと弾き、
「言ってろ」
と、立ち上がって背中を向けた。そのまま襖を開け、出て行ってしまう。



        

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