シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜
 
7
 
 
 
半ば担がれるように、ぐったりと動かない伊織が運ばれたのは御鷹御殿の左離れだった。
その間、覆面の男は覆面を取られ、そのままいずこかへ連れられて行った。あの者は、確かに老中である若林さまを狙っていた。つい身体が当たり前のように、わたしはそれを阻んでしまった。
もし知らぬ振りをしていたら、今頃は不意をつかれ、若林さまは刃にかかっていたかもしれないのだ。いろいろと激しい大問題のある人ではあるけれど、見過ごせばよかったとは思わない。
わたしは木の葉だらけの着物や乱れた髪を直し、伊織の枕辺ついていた。途中、上様が御配慮で遣わされたという御匙〔医師〕が、俊輔殿と共に現れ、ものを言うのも難儀そうな伊織を診ていった。その「お疲れの祟ったお風邪でございましょう」との診立てに、ほっと胸をなで下ろす。
これも様子をうかがうのか、御台様のお女中が現われたので、失礼している事情を話し、お詫びを申し上げてもらうよう頼んだ。
このお座敷は、右離れと同じ造りになっている。池に張り出した大きな露台があるが、冷気を嫌って障子を締め切ってある。時折木々の騒ぐ風の音と、それに乗ってか、微かな鷹野の華やいだ物音までもが届く。
頬に触れるとやはり、いつまでも熱い。幾度も湿した布を額に当て替えし、力なく投げ出されたような手を握る。
長い節高の指を、自分の指に絡めた。伊織は瞳を閉じ、眠っているのか何も言わない。言えないのかもしれない。静かな呼吸の音だけがする。
いつかこの指は、わたしにたくさんの鶴を折ってくれた。ときにそれは彼の気紛れであったり、慰めるためや重い意味を持つものであったりした。
葛篭にあふれるほどの大勢のそれらは、今でも長子の大切な宝物だ。
伊織はもう、それを折ってはくれないだろう。わたしも、ねだることをしなくなって、どれほど経つだろうか。
わたしにとって、あの鶴は、頼りなく揺れた会えない日々の、彼への思いが凝ったものだった。
だから、要らない。もう要らない。
長子は伊織の奥方であり、彼のかけがえのない子たちの母でもある。だから、折鶴は要らない。
けれど、彼のすぐそばに、その寝顔を見ながら侍り、手を握りながら思う。いつの日か、双子の尚と誓が大きく育ち、伊織のような頃合になり、恋する女子に出会ったとき、その人に手ずから折った折鶴をふとあげるような殿方であればよいと願うのだ。
言葉の代わりではなく。
思いの代わりでもなく。
あの小さく凛とした白い鶴の姿は、長子の胸の深い奥にある気持ちを抱かせた。それは彼を信じる希望であったり、見えない先へ向かう勇気であったように思う。
『俺を信じろ』
聞こえないはずの彼の声、それが胸内にわき、しっとりと染み入る優しさを与えられ、長子は目を閉じず、強くいられた。
 
 
翌日には、伊織は起き上がれるほどになった。
それでも御匙の「しばらくご安静」にとの言いつけで、床から出られないでいる。
顔色もよくなり、咳も鎮まった。一時はこのまま目を開けてくれないのではないかと、心細くも思ったから、この快復には心から安堵した。
粥を食べさせると、半分も残して手を振る。もう下げろということだ。代わりに煙管を持ってこいと言うから呆れる。
わたしが動かないと、控えた近習に目で命じている。しようのない馬鹿たれ老中め。夕べまで辛そうに咳を繰り返していたというのに。
膝を進めたそのごく若い近習に、
「駄目よ。ここはいいから、下がりなさい」
襖を示すと、それでも伊織の機嫌を気遣いつつ下がっていった。
上様方はもう先刻立たれ、この御殿には常仕えの者と、伊織の伴った側近らしかいない。
上様の御配慮で、しばらくこちらに逗留し、よく身体を憩うようにとの御指図があったのだ。それなら、とわたしは邸に使いを出し、こちらにしばらく留まる旨を伝えさせ、少々人を回すよう言いつけた。
突然のことの運びに、萩野の渋くしかめた顔が浮かんだが、それもちょっといい気味だと思う。
上様に供奉し、お城へ出立の前に、あの若林さまがお見舞いにきた。こもごもわたしへも礼を述べ、「命の恩人に礼を報いたい」とまで言う。
捕らえられたあの覆面の男が彼を狙い、側に手引きの小姓を仕込ませていたことを打ち明けた。
若林さまが率先して行ったある御法度が、原因であるとのことらしい。
ごくあっさりとした二人の雰囲気に、男色とはこういう関係なのかと、ぼんやりと眺めていた。男女の仲のような、甘い様子がないのが珍しかったのだ。
けれども、人の夫に秋波を送るなど(受けた伊織も伊織であるが)やはり腹立たしい。わたしは穏やかに話す、秀麗ともいえる面差しを向ける若林さまを睨みつけ、
「伊織は長子の背の君ですわ。よそをお当たり下さいませ。長子に恩を感じるのであれば、伊織をおあきらめになって」
そのときの若林さまのお顔は、どういうのだろう。固まったまましばらく微動だにしなかった。ちっという伊織の舌打ちも聞こえた。
「いやいや、承知いたした。肝に銘じました」
おかしそうに破顔したのが、わたしには誠に不思議で、伊織がどうしてか不機嫌に眉をしかめたのか、意味がわからなかったのだ。
彼が消えるとすぐに、伊織はわたしの頬をぎゅっとつねった。ちょっと痛いほどに。
「大奥勤めのお女中じゃあるまいし、下らん誤解をするな。ぞっとする」
「誤解? 本当に誤解なの?」
「ああ、決まっているだろ」
伊織は呆れたように嘆息し、つまんだ頬を離した。じんとその箇所が痛い。胸の嫌な思いが晴れ、弾む嬉しさに、彼に「ねえ」と何か言葉をねだろうとして、もう一度ぎゅっと頬をつねられた。
「もう一つ。向こう見ずに男に突っかかって行くな」
「でも、若林さまは長子が行かなければ、斬られていたかもしれないでしょう。だったら…」
それに伊織はつまんだ頬を離し、代わりにぺちんと叩いた。「それはあの御仁の問題だ。姫には関係がない」
「そんな」
伊織のあまりの暴言に、二の句が継げない。それは冷た過ぎるのではないか。たとえ男色の仲ではなくとも。
ふくれたわたしに彼は、ちょっと声を和らげて話す。若林さまも、大小は常に帯びていること。たとえ斬りかかられても、返すことはできること。できなくても、いきなり一の太刀では、絶命するほどのことはないこと。その隙に叫ぶなりして人くらい呼べること……。
「姫の剣が多少巧緻でも、相手は男だ。力任せに叩っ斬られたら終わりだ。わかるな? 小賢しい真似はするな」
だから、手を出したのは大きな間違いだったと、伊織は言うのだ。
それは彼の言うことはわかる。無謀だったと反省もした。覆面の暴漢に馬乗りにされ、首を絞められたあの刹那、長子は死ぬと思った。恐ろしかった。
けれども、少しくらいは褒めてくれてもいいのではないか。「よくやった」とまでは言わなくてもいい。ちょっとくらい、認めてくれてもいいではないか。自慢はしたくないけれど、勇気のある振る舞いだったと思うのに……。
それを、「小賢しい」などと言い捨ててしまうなんて。
拗ねなのだろうか、怒りなのだろうか。それとも伊織が男色じゃなかったことに安堵しているのか。
わたしの彼を睨む目から、ほろりと涙がこぼれた。一つ、頬を伝う。先ほど彼につねられた頬をぬらし、それは膝に落ちた。
「おい…」
伊織の手がわたしを引き寄せた。傾いだ身体。白い小袖の胸にぬれた頬が当る。
「頼む」
頭に当る伊織の頤を感じた。
「なあ」
もう一度「頼む」と聞こえた。唇の動きにつれ、震えるようにつむりに伝わる言葉の重さ。
「いつでも俺が守ってやれる訳じゃない」
少し熱のせいか、声がぬれて耳に響く。
それに、わたしは頷いた。伊織の手なんか要らないと、突っぱねる口を出かけた意地は、溶けて緩く胸から流れたから。
 
煙管を止められ、伊織は面白くなさそうに腕を組んで露台の方へ目をやった。昼の風が気持ちいいかもしれないと、少しなら、とわたしは立ち上がって障子戸をあけた。
普段ないこんなぽっかりと空いた時間に、暇を持て余しているだろう彼に、あれこれ双子の話をする。素っ気ない返事しか返ってこない。
上様の御使いで俊輔殿が現われた際、持ってきてくれた瓜を剥いてあげる。
小刀の使い方は上手じゃなく、皮もきれいに剥けない。切り分けるとき、ぐしゃりと柔らかな実を指で潰してしまった。
塗りの盆に盛った瓜を差し出すと、伊織はわたしが指で潰して崩してしまったものをつまんだ。
「あ」
伊織はいつもそう、わたしのおかしな部分を平気で認めてくれるのだ。当たり前に受け入れてくれる。
それにしみじみと、側にいられる嬉しさがこみ上げた。彼の奥方でよかった。
伊織が好き。
果実でぬれた指を懐紙で拭ってやる。
「尚と誓も一緒だったらよかったのに」
けれど、伊織の風邪が感染るといけないかと思い直したとき、耳に小さく聞こえたぶっきら棒な声。
「双子の話ばっかりしてんじゃねえよ」
まだつながる指が、強く握られた。
普段の彼にない、焦れた声音を感じ、伊織はもしや、拗ねているのだろうかとおかしくなった。
尚と誓にほんのり妬いているのだろうか。自分の子であるのに。おかしい。
その思いは、わたしを胸に花が咲いたような弾んだ気持ちにさせるのだ。
彼の立てた片膝に、手を置き、顔をのぞき込んだ。ほのかに凝らした伊織の瞳は、わたしを見ている。
「ねえ、寂しかったの?」
それに返事はない。代わりにぴんと、軽く指がわたしの額を弾いた。




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