シンプル・デイズ
〜長子と伊織のシンプル?な日常〜

 

6

 

 

 

側近らが止めるのを払い、部屋を出た。

念のために一人を表側へ回し、残りの者を従えて、裏口を目指した。表は人が多く、見咎められやすい。長子がふらりと一人で出歩けたのならば、誰何の易い、裏口から出かけたと見た方がいいだろう。

「姫君は、我らがお探しいたします。どうか休まれて…」

常ない主人の体調に、袖に縋るように進言する者へ、「無理だ」と伊織は咳をしながら返した。それは行けるところは限られている。じき、彼の供の者にも、長子は見つけられるだろう。

けれども、あの減らず口と呆れるほどの向こう見ずに、誰が立ち向かえるというのか。しかも、訳のわからない誤解を抱えているらしく、供の者らの弁などでは、抑えることなどできやしない。

廊下を後ろから小走りに、近づいてくる者があった。御小姓頭取であり公方の身辺に侍する、伊織の幼馴染でもある沢渡俊輔だ。公方の使いで、伊織の様子を聞きにやってきたらしい。

「おい、伊織どこへ行く?」

するりと供の間を通り、彼のそばに来た。伊織は簡単に、長子が消えたことを説明した。

「こちらからも人を出させよう」

「いや、いい」

それより、と公方への上手い言い訳を頼む。「片付いたら、参上する」

「それには及ばん。ゆっくりしていろとの、御言葉だ。おい、咳ばかりしているじゃないか。大丈夫なのか? 具合はいいのか?」

「悪い」

俊輔と別れ、裏口から外へ。そこで、少し前に長子を見かけたという警護の者の弁で、急ぎ池の奥の林へ向かった。

女の足で、歩きにくいこの路を、ふらふらと彼女は何をしに進んだのか。

痛む頭の奥から、先刻の女中の言葉が甦ってきた。

『逢引の場でございますわ。少将さまと和泉守さまの』

『おかわいそうに、道ならぬ日影の恋を目の当たりにされ、ひどくお心が傷つかれたのに、相違ありません』

(けっ、馬鹿馬鹿しい)

和泉守との逢引がどうのというのなら、それはきっと、井の頭池の辺りを検分していたときのことだろう。二人きりでいたのは、それくらいのものだ。それを、御台所側の彼女は、多分、御殿の離れの露台から見た。

どこでどうしてそれが『逢引』になり、『道ならぬ恋』に変換されるのか。ため息の変わりに、乾いた咳が出る。

あの長子の不思議な頭の中には、何が詰まっているのだろうと思う。それは団子であったり、双子であったりするのだろう。多分そんな甘いもので、一杯になっている。

加減を問う側近らに、手を挙げ答え、とりあえず歩を進めた。

 

自分は、おそらく最初に見たときから、長子を気に入っていたらしい。そうでなければ、いくら香月の姪御とあっても、暇を作ってまでつき合ってやりはしなかった。

あの叔母の香月に似た長子の明るい朗らかな気性は、接していてひどく気持ちがよく、おかしなほど底意がない。だからか、自分をよく知りもしない彼女が、平気で家来然と『伊織』と呼び捨てるのも気にならなかった。

押せばみゃあと泣く仕掛けの玩具のように、何を言っても他愛もなく喜んだり笑ったり、またはふくれたりするその様は、見ていて楽しかった。

いつ頃か、彼女に惚れているらしいと自覚はしたが、放っておいた。それだけが理由ではないが、当時彼女には歴とした許婚があり、その男に芯から懸想していたのだ。

 

『静香さまを、橘の家にお返ししたいの』。

 

あるとき長子は、思いつめた様子でそんなことを彼に告げた。そしてそのために計らってほしいと頼んだのだ。

前妻や別れた子を忘れかねている静香の妻には、なれないといった。我慢がならないといった。彼が可哀そうだといった。

それらの告白に伊織はふうんと応じ、流しはしたが、軽く腹を立てていた。

長子にではなく、その『静香さま』にだ。

家を捨てた判断の潔さもその覚悟もいい。なら、なぜそれにまつわる屈託を、彼女にご丁寧に述べてやる必要があるのか。彼に惚れている彼女の前で、なぜ言わねばならない。

(無駄に泣かせるな)

長子がくどく問うたのだろうとは、想像できる。嘘をついておきたくないと考えたのかもしれない。

(俺なら言わない。死んでも言わない)

騙してやればいいじゃないか。それだって、間違いなく思いやりだろう。伊織はそう考える。どうしようもないのなら、知らなくたっていい事実もある。なぜ、傷つける必要があるのだ。

だから、腹が立った。余計なことをするなと、頭にきた。

(なら、俺が…)

そのとき、初めて胸に兆した小さな火を彼は、今も覚えている。

あの内裏雛のような澄ました男から、奪ってやろうと思った。

そう覚悟を決めると、片隅に置いた胸の思いが、ほろほろと緩みふくらみ出した。

自分に懐いた生意気な猫のような姫を、ひどく愛らしいと思った。ほしいと思った。

(多分、あの代わりは見つからんだろう)

時間を経て、普段はぽんぽんと文句ばかりが飛び出す彼女の唇から、ほろっと彼への思いがこぼれたとき、何を自分は思ったのだろうか。

 

『伊織が好き』。

 

(当たり前だ)

とも思い、ひどく嬉しかったのを覚えている。

祝言を挙げ、手許に置いた。子を授かった。月日が経っても、彼女はそれらしくならない。

彼の着替えを手伝えば、帯を回す手もぎごちない。よほど自分でやった方が早い。不意に帰ってきても、邸を空けて、遊びに出かけてしまっている。抱いた明けの日は具合を悪くし、起きられない……。

それらに取り立て不満もない。それでいいと思う。彼女の手に余ることは、女中がやればいい。

(あれには、あれしかできないこともある)

朗らかに笑うこと。彼の子を産んでくれたこと。そして、彼の抱える面倒は、彼女の柔らかな気配に和む。薄らぐ。

最近は、専ら彼女は双子にかまけ、肝心の彼へは、まるで書院の珍重な掛け軸のような扱いだ。

夫婦になる前のような、構ってほしくてまとわりつく、長子の猫のような可愛い振る舞いが少ないのを、ふと、ほんのりと味気なく思うこともある。

苦いほど疲れたとき、離れた彼女に切実に会いたいと思う。腕に抱き、乳房に触れ、甘い身体を抱きたいと思う。

言葉にするのは容易い。けれどもそれらを、敢えて自分は口にすることはないだろうと思う。

ためらいや、照れ臭さばかりではなく。胸を出た途端、形を変え、それはふわふわと甘いばかりに儚い別のものに、きっとすり替わってしまうのだろう。

たとえば、絶対に守ってやる腕であり。

何でも受け止めてやる思い。きっとおそらく、それが一番近い。

 

眼前に見知った姿が現われた。和泉守だ。華奢な色の白い女のような顔の小姓を伴っている。逢引の本当の相手は、この者だろう。

どういう経緯か、鷹野に伴ってきたらしい。そういえば「口説いているのが一人ある」と、のろけ交じりに先刻聞いていた。鷹野の開始までは間がある。少し気晴らしにでも、二人で外歩きに来たのか。

「具合はよろしいのか?」

その問いに答えず、この辺りで女を見かけなかったかと訊ねた。和泉守は傍らの、どうしてか怯えた様子の小姓を見やり、

「先ほど、『曲者』という女の声がしたが、まわりには姿がない。おかしいな、とこの者と話していたのだ」

それだ、と思った。嫌な感覚が背筋を這う。この付近は人垣の中心にある公方を狙うにはあまりに遠く、意味を成さないため警護が薄い。今回は大掛かりな鷹野と異なり、こちらまで回す人員がなかった。

「あんたも手伝ってくれ。女を捜している」

「誰を捜す?」

「誰でもいい」

和泉守に女の声のした方を聞き、供にも声をかけ、駆け出した。

公方ではなかったとしたら、狙うのは老中だろう。自分や朋輩でないとすれば、この好色男色老中しかいない。

それに、先ほどからの違和感がない交ぜになる。あのいやに怯えた様子の小姓。もしや、あれが手引きをしたのではないか?

幾ら手薄といえど、この地は御料地の御鷹場である。調べもあり、許可なく紛れ込むのは難しい。

「捜せ」

散らした供の一人が、「殿」と呼んだ。不審な刀を拾ったという。その者の許へ走り寄り、渡された刀を手に取った。

鍔飾りも素っ気ない、大した代物ではない。鯉口を切ると、剣ばかりは磨いてあるらしい。

そこへ遅れて、和泉守もやって来た。

「あんたは、あの小姓を逃がすな」

「逃がすつもりはない」

意味が違うと思ったが、伊織はそれに言葉を重ねず、辺りを見た。何か聞こえたような気がする。

何か。声のようなものが。

軋むように頭が痛む。咳が続けて出た。めまいがするほど気分が悪い。

ふと落ちた視線の先に、ちょうど藪の下生えの枝に紛れるように、場違いに鮮やかな色が小さく目に映った。

(いた)

 

 

ごろごろと斜面を転がり、地面に積まれた枯葉の上で止まった。男はわたしに馬乗りになっている。

どこかで剣を落としたらしく、それが唯一の救いだ。あれがあれば、とっくに斬られていただろう。

けれども、替わりに男は、わたしの首に手をかけ強く締めてくる。暴れるが、男の身体が重石になり、手足がしっかりと押さえ込まれてしまっている。

苦しい。声が出ない。

「曲者」と叫んだのに、若林さまは気づかなかったのだろうか。このままでは、どうしよう、殺されてしまう。

何とか外した片手で、男の背を叩いた。抵抗にもならないのだろうけれど、何もしないよりはまし。あらん限り、暴れてやる。

「助け…て」

それに応えはない。涙のこぼれる瞳をぎゅっとつむる。自分の軽率を悔いたけれど、もう遅い。恐怖で身体が強張っているのがわかる。死にたくない。こんな場で、死にたくない。

嫌。

そこへ耳に人声が飛び込んできた。数人が、ずるずると斜面を滑ってくるのが、その音でわかる。

「姫」

声がする。伊織の声のようにも思えた。「姫」と。それが近くなる。

助かった。

くぐもった悲鳴がすぐ側で鳴り、不意に首に絡む男の手が緩んだ。ぶつかり、そこから地面に落ちた何か鉄の音。それは鍔鳴りに似ていた。

閉じていた目を薄く開く。そこには、手甲をした誰かの手が、わたしに覆い被さる男の首を後ろから持ち上げている様が映った。

のけ反らした露な喉には、いつしか刃が当てられている。抵抗したため、その刃が、薄く男の皮膚を斬り、すっと肌に斜めの血がにじんだ。

「掻っ切られたくなかったら、手を離せ」

紛れもない伊織の声。彼の手がすぐ目の前にある。わたしを守ってくれている。

その大きな安堵感に、ぼうっと頭の芯が何も考えられなくなるのだ。

身体の重みが解けた。いつの間にいたのか、男はわたしも見知った伊織の側近に羽交い絞めにされている。縄にかけると、一人が落ちた鞘のままの脇差を、伊織に差し出した。わたしが襲われているのを見て、とっさに彼が投げつけたのだろう。

伊織は片膝を着いた姿勢で、わたしのそばにいた。大きく息をつき、太刀を鞘に納める。それから頬や肩に触れた。

「大丈夫か?」

「うん、平気」

身を起こそうとして、彼の身体がゆらりとわたしに倒れるように、傾いだ。そのまま体重をかけ、上に覆い被さった。

何をしているのだろう。

「…俺を殺す気か?」

その声は吐息に熱く混じり、わたしの耳にほんの側に届く。「ごめんなさい」

このときになって、わたしは伊織に男の情人ができたらしいという、あの厄介な問題を思い出した。

なぜだか、それでもいいと思った。いつも長子を守ってくれるその思いがあれば、今一時、そのことはどうでもいいと思った。嫌な物思いは、後にしたかった。

どうしてか、いつまでも動かない彼の身体は、重い。

「重い」

「…ちょっとは、耐えろ」

遠慮するのか、伊織の命を待つのか、側近らは覆面の男を取り押さえた後も、側に控えている。

すぐそばに人の気配があるのに、久方振りに彼の体の重さを感じられ、こんなとき、おかしいけれど、少し嬉しいのだ。衣や肌から煙管の香が混じる、彼の匂いがする。それが嬉しい。

閨の宵とは違い、重さを支える肘もついてくれない。ずっしりと胸に彼の体重がかかり、ひどく重い。

伊織は走って来たのか、肩で息をしている。いつまでも、辛そうに……。

本当に、辛そうに。

「伊織?」

答えがない。

「ねえ、伊織?」

返事をしない彼に慌て、頬に触れると、冷たい汗の感覚と、そしてあっと驚くほどの熱さが指に伝わる。

具合が悪いのだ。きっとひどく悪いのだ。身を起こせないほど。

「早く、伊織を運んで頂戴」




        

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