たまゆらに花を抱いて
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心地のよい風が吹く庭先にうすべりを用意させ、そこにまずは自分が座る。大きく伸びた木々の梢が午後の光を遮って、着物にも肌にも縞模様の影を作る。
傍らに、乳母から受け取った尚(なお)と誓(ちか)をころりと転がした。
産着姿の二人は、妙な声を出したと思うと、うすべり中を這い回る。互いが互いの友で、二人にしか通じないおかしな合図のようなものを交わし、きゃっきゃと笑う。
愛くるしいその様は、見ているこちらの頬も緩ませる。
わたしはこの二人のへんてこな仕草や振る舞いを、伊織の小さな頃にぴたりと当てはめて眺めている。けれども、あるときの言葉でその伊織が、逆に彼らの姿をまったくわたしに重ねて見ているのだと気づいた。
「向こう見ずなところが誰かにそっくりだな。先が思いやられる」などと、唇の端で笑ったのだ。
失礼な、何が向こう見ずなものか。
伊織はふくれたわたしに、仔細ありげに間を置いたりなどし、苦笑した。
腐れ老中め。
それは、自分でも姫育ちに似ない、お転婆が過ぎたこともあったかもしれないと思う。それでも長子なりに、思ったことを真っ直ぐに選んだだけのこと。
傍にはちょっとおかしいのかもしれない。不思議なのかもしれないし、もしや我が侭にも見えるのかもしれない。
けれども、それで、わたしは悔やんだことがあっただろうか。感じただろう微かな恥じらいも、とうに身体を通り過ぎてしまった。
日が少々陰ってきて、乳母の勧めでうすべりを立った。階に足を掛けたところで、萩野がただでさえ光る廊下を、滑るようにしなやかな歩でやって来た。
「少将さまが、じきご帰宅にございますとのお知らせが参ってございます」
わたしはその報告に、「ま」と口を開けた。
忙しい彼の帰りが珍しく驚いたのが最初で、それから、実は夜牡丹の家にこっそり遊びに行く心積もりをしていたことがご破算になったのが、ちょっともったいないと思った。彼女はわたしに、知り合い芸妓の舞を見せてくれると言ってくれていたのに。
「ふうん」
先に萩野は、邸の者に帰宅の準備で告げたらしい。邸内にどこか華やいだ騒がしさを感じる。
腕の尚を、慎ましやかに控えている振りの萩野に任せた。
先ほど双子がじゃれ付いて、髪が乱れてしまったのだ。額に落ちた髪筋を指でなで上げる。急いで髪を直さなくちゃいけない。
それに双子の衣に、庭の土の汚れがついてしまっている。いつの間にうすべりを這い出たのだろう。着替えさせないと。
そんなこもごもを思い、どこか心持ちが明るくときめいてくるのを感じた。
伊織に会えるのは、やはり嬉しい。
たまの気紛れに、珍しいお菓子や、衣を贈られるより、会えるのが、長子には一番嬉しい。
「姫さま、お迎えのお仕度に…」
「さあ」
わざとらしい萩野の嘆息に、知らんふりで背を向けた。
もし……、仮に。
たとえばわたしが、わたしらしくなかったのならば。
そうでなかったのならば、きっと長子は、今この場所にいられなかっただろう。きっと、伊織の奥方ではあれなかっただろう。
 
 
十日ぶりに目にする伊織の手の甲に、軽い擦り傷を見つけた。
羽織を脱ぎ、軽い小袖姿になった彼にどうしたのか、と訊くと、道場で剣を合わせたときについ切ったという。
それに指を触れ、問う。
「痛むの?」
「いや」
何となく、その傷に指を這わせた後で、ちょっと唇を寄せた。それに伊織の小さな笑みが聞こえた。
腰をおろすとき、お座布団のわきの脇息を、伊織は最初手で押しやり、身を横たえ、そばに引き寄せたわたしの膝に頭を預けてからは、足先で蹴り転がした。
欠伸が幾つか。
そこへ女中が、遅い夕餉の仕度について訊いてきた。こちらはわたしの居間になっていて、双子の子ども部屋にも近い。帰ると、伊織はこちらへ渡る方を好んだ。
書院や広間が並ぶ表の間は、幕僚らが詰めることも多く、御役目柄、公的な雰囲気がする。萩野が隙なく差配を極めているので、用がないと長子は足も向けない。
決まって主の在宅する邸とは違い、榊の家は伊織の不在が多く、その食事の決め事なども変わっている。
「食った。要らん」
伺いを立てた女中に、伊織はそれだけを告げる。
女中が下がると、彼は思い出したように袖から小さな紙包みを取り出した。わたしに渡す。
開けて見ると、中には飴細工の犬が三匹入っていた。ちょっと大きな犬と、小さな犬が二匹。
「可愛い」
口に含むのはとても惜しい可愛らしいそれらを、手に乗せて眺めていると、伊織はにやにやと、
「姫に似てるだろう? 大きいやつが」
「まあ」
「何でもくわえてきそうなところが」
「くわえません」
小さな二匹は双子の尚と誓と言いたいのだろう。相変わらず、意地悪ばかり。
ちょっとそっぽを向いてやると、伊織はわたしの手首を引いた。「なあ」と言う。
わたしが目を向けた違い棚には、輿入れのお道具類が並ぶ。目を通してもいない伊勢物語の綴じ本と、中の三枚ほどは、いじっているうちに割ってしまった源氏物語の貝合わせの道具箱などが見える。
棚の下の引き出しには、ひっそりと彼がくれた折鶴もしまわれているのだ。
後でこの飴の犬を、あの棚に飾ろうと思った。
「なあ、姫」
顔を戻すと、伊織はどうしたのか、ちょっと言葉をためらうかのような風情を見せた。
「なあ」
指ばかりをやんわりと握る。
「なあに?」
「話がある」
伊織はそこで身を起こした。片膝を着き、その膝に握ったままのわたしの手を重ねて置いた。
「なあに?」
行灯の照明に、彼の横顔を見せた頬に影が映る。
少しだけ唇を開いた彼が、伏せがちな瞳でわたしを見た。「俺が…」と言い、その先をやはり途切れさせてしまうのだ。
おかしな伊織。
忙しさに、どこか具合でも悪いのだろうか。ねえ、とわたしが彼の顔をのぞき込んだ。熱でもあるのかと頬に指を置いたとき、ほろっとそれはこぼれてきた。
「娘がいる。姫に、育ててほしい」
「え」
言葉の意味がとれず、わたしはきょとんと伊織を見つめた。頬に置いた指を彼が捉えた。そのまま膝の手と合わせる。
「どちらの姫なの?」
「姫じゃない」
「ふうん」
漠然と、孤児になった可哀そうな境遇の娘が、どこかにいるのだろうと考えた。何かの関わりで、伊織が引き受けることになったのだろう。武家社会には、そういうつながりで使用人を入れることが多い。
姫育ちではないのなら、と新しい女中を迎えるような気楽さで、
「どんな仕事をさせるの?」
「姫の娘として育ててほしい」
「だって、わたしの子じゃないわ。双子があるもの」
けろりとして返すと、伊織は何がおかしいのか、くすりと笑った。握った手を緩め、ぺちりとわたしの頬を軽く打った。
「俺の娘だと言ったら?」
「え」
「急ですまん。幼名で杏(あんず)と呼んでいるらしい」
にわかに、頬が強張るのを感じた。徐々に、伊織の告げた言葉の意味も、そしてその大きさも重さも、緩やかに頭に染み入ってきたのだ。
声が出なかった。
問えなかった。
驚きも、恐ろしさも抱えきれない。
「俺も知らなかった。許せ」
「なあ、姫?」と、機嫌を伺うかのようなちょっと珍しいほどの伊織の柔らかな声音も、頤を捉えた指も。重なった唇も。
ふわふわと、おぼろに霞むのだ。
ただ、次第に上ってきた堪らない腹立ちに、無頓着に合わせてくる伊織の唇の端を、知りながらきつく噛んだ。



        

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