たまゆらに花を抱いて
2
 
 
 
きつく噛んだ唇から、うっすらと血の味がする。
いつか、伊織との間に、前もこんなことがあったように思い、そんなことを今思い起こしている自分に腹が立った。
「っ痛ぇな…」
つぶやくように、責めるでもなくささやいた伊織の唇が、ほんのりと離れた。その端に赤い血の跡がある。
わたしは彼の胸を、思い切り両の手で押しやった。それに伊織は軽く身を後ろへ傾がせ、たんと畳に手のひらをついた。
「なあ…」
「知らない」
身を背け、憤りの勢いのまま、わたしは立ち上がった。袂を捉え、腕を引く伊織の手を払いのけた。
「裏切り者」
「聞けよ、おい」
「嘘つき」
「だから、聞けって」
「いんちき老中」
「いいから、人の話を…」
「馬鹿たれ老中」
何をのんきに話すことがあるのか。言い訳など聞きたくない。どうせ、長子をごまかそうとする、殿方のいやらしい繰言なのだ。
こちらを見やる伊織の表情が、ちょっとくらい困った程度で、変に落ち着いて冷めて見えるところも、まあ憎らしい。
「大嫌い」
わるくちを言い募るうち、気持ちが昂ぶって、まるで瞳の奥に火があるようにめらめらと熱い。唇を噛みしめ、わたしは裾を乱暴に引きながら、居間の奥の床の間の前まで進んだ。そこには伊織が常に帯びる大小が置かれている。
うんと脅かしてやれ。
「おい」
背にかかった声に返事もせずに、腹立ち紛れに、わたしは手に上に置いた剣を握った。わたしも知る小ぶりな脇差とは違い、それは手のひらから腕にずっしりとした重さを感じる。実は、本身の太刀はこれまで手にしたことがない。
振り返ると同時に、親指を柄に当て鯉口を切った。かちゃりと冷たい音がする。
「何している?」
鍔鳴りが届いたのか、やや鋭くなった伊織の問いの声に、わたしはやっぱり返さず、払うように鞘を振り落とした。
ぬらりと灯に、剣の生々しい輝きが目に入った。
足袋の足先を、大きく踏み込んだ。しゅるっという衣擦れの音がする。
隙だらけの上段に構えたわたしの手の剣を目にした伊織は、一瞬でその瞳を見開いた。あ、と言うほどの間、ちょっと固まり、ぽかんと微かに口を開け、間が抜けたようにいまだ両の手を後ろについたままでいる。
「裏切り者」
「お、おい、姫。剣を離せ」
わたしは制止の声に頓着なく、振りかぶった剣をそのまま伊織目がけて下ろした。
ひゅんとした剣の空を切る音の後、かんと耳障りな音が飛び込んできた。それと同時に剣を握る両手に痺れるような衝撃を感じた。
「え」
目をやると、伊織はわたしの剣先を、いつ手にしたのか脇息の脚で受け止めていて、空いた片手で素早くこちらの手首を束ねるようにつかんだ。
「本気か? それは『時風』だ。骨まで斬れる」
伊織が口にしたのは、当代の名刀工で、わたしもその名くらいは知る。本当に斬る気などない。寸前で、太刀の表裏を返し逆刃にしようと思っていた。知ってか知らずか、その前に伊織が止めたのだ。
彼が足元に放った脇息は、ちらりと目をやると、刃を受けた脚が砕けてしまっている。
「離して」
彼は捻るように手首を捕らえ、そのまま「あ」というほどの力を込めて握った。その瞬時にかかった堪らない痛みに、ほろりとわたしの手から剣が落ちた。
どんとそのまま身体を軽く突き放され、伊織はわたしの手から離れた剣を拾う。鞘に収め、自分の背後に滑らせた。
「話くらい聞けよ」
彼のそれらの仕草に、体よくいさめられたような、手なずけられたような胸のむかつきが晴れないのだ。悔し紛れに手近のものを投げつけてやる。
伊勢物語の綴じ本が、数冊伊織の頬と胸を打った。
「好色男色陰険老中」
「和泉守と一緒にするな」
「腐れ老中」
罵りながら、喉から嗚咽がせり上がってくる。
ひどい。伊織はひどい。
何でもないことのように、当たり前のように。恐ろしいことを口にした。そしてそれを飲むのが、まるで長子の務めのように「許せ」と締め括るのだ。
嘘つき。
「長子だけって言ったのに」
いつしかわたしは、最後に投げつけようと手にしたお座布団を胸に抱き、泣き出していた。
「俺は…」
伊織が何かを言いかけたところで、襖の向うから遠慮がちな女中の声がした。「いかがかなさいましたか? 大きな物音が面妖で…」
「何でもない。ちょっと、…あれだ、ふざけていただけだ。構わん」
「作用にございますか。よろしゅうございました」と、声が消えた。廊下を下がる足音がする。
「なあ、姫」
伊織がわたしの肩を引き寄せた。腕のお座布団を引っぺがし、投げやる。
「頼むから、俺の話を聞いてくれ、な?」
涙にぬれた頬を上向かせ、両手にはさんだ。そんないつもの伊織の仕草が憎たらしいのに、心配げに構ってくれるのが、やはり嬉しいのだ。
唇を噛みしめながら、眉をしかめながらも、長子は伊織の言葉を待っている。
「杏のことは、姫とこうなる前の話だ。赤子ができていたのかすら、俺は知らなかった」
涙を含んだ多分赤い目で、わたしは瞳を凝らしてこちらを見る伊織を見つめ返した。
深川芸妓の産んだ子だという。
「伊織の情人だったの? その人は」
「そうじゃない。葉月とは機会で楼に上がった際、数度か逢っただけだ」
ほんの何度か逢い、いつしか間遠になり、その芸妓葉月の存在も忘れていたという。噂に、彼女が芸妓を辞めたと耳にしたのは、それからほどなくだったとか。
「てっきりいい旦那が付いたんだと思っていた」
それが、思いもよらず、伊織の親友沢渡俊輔殿から葉月がしばらく前に亡くなったことと、彼女の忘れ形見の存在を知らされた。
俊輔殿は、恋人のこれも芸妓の牡丹からその話を聞いたという。牡丹とその葉月は、芸妓同士で消息くらいのやり取りがあったらしい。
「その残された孤児が、杏だ。今三つになるところとか…。俺に知らせなかったのは、牡丹も葉月から口止めされていたらしい」
わたしは見つめる伊織の瞳を避けた。
間に牡丹や俊輔殿が入るのであれば、嘘の混じる気配もない。そして、三つになる子の母であった葉月という芸妓は、もう儚くなってしまっているのだ。
長子も、これでも人の子の母だ。子を残して逝かなければならない不甲斐なさややるせなさ、切なさなどの気持ちは、わかる気がする。心配で気が遠くなりそうな不安も。
それから最後の手づるとして、頼れないはずの父方を頼るしか、残した子の幸せを図れないとすれば……。
そこまでを伊織の話で理解し、いかにも自分の振る舞いが子供っぽくて恥ずかしくなった。
拗ねて自侭に、馬鹿みたいに伊織に当った。
気が動転したのは、本当。息が詰まるほど驚いた。
目の前が暗くなるほど、怖かった。
そんなことで、にわかに自分のはしたなさが思い知らされる。
「なあ、…姫がそれほど嫌なら、杏のことは母上に頼む」
「義母上に? それはびっくりなさるわ」
伊織の指が、耳朶に触れた。愛撫に似てやんわりと指でなじるのだ。「構わん。あれで子供好きだ」
「ふうん」
「まだ怒ってるのか? 姫に嘘も裏切りもしていない」
頬を、伊織の長い指の節がやんわりとなぜて返る。「なあ」と。
「頼む、信じてくれ」
そう乞われると、ささやかれると、長子は言葉を失ってしまう。
「姫の他に誰がいる?」と。
伊織の声はほのかに切なく、わたしを心から縛っていく。
ずるい。




        

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