たまゆらに花を抱いて
12
 
 
 
何か問う声も、返す力も、すべてするすると、まるで薄衣でも剥ぐかのように、伊織は奪っていく。
「や…」
途切れるのは、言葉ばかり。
いつしかわたしは、背を文机に押し付け、息を殺すようにして、彼の唇であるとか、絡んだ指の様子、または喉を流れる煙管の匂いを感じていた。
「あ」
背に回った伊織の腕のせいで、文机からわたしの身体は離れ、畳の床に崩れるように倒れた。
長子に身を伏せながら、首筋をさまよって伝う指や、乱れた裾を彼の膝が割るに及んで、「え」と、慌てた戸惑う声が出る。
ほんの側に、杏が眠っているのだ。
「あ…」
「「あ」だの「え」だのばっか、言ってんじゃねえよ」
声ばかりは低く凝らし、からかうのかおかしがっているのか。二つの合わさったものか、伊織は、やんわりとそれらがにじむ笑みを浮かべ、
「ちょっとじっとしてろ」
抗う手首を、あっさりと畳に押さえ込まれてしまう。その意地悪な仕打ちに、思わず、いつものわるくちが抑えられない。
「色魔。助平老中。好色…」
「こら、少し黙…」
伊織の制止の声が終わらない間に、わたしたちのすぐ側からは、小さな泣き声が届く。
くしゅん、と。
その声の主が誰かなど、一瞬で思い至る。
目をやると、やはり杏は起き出していて、膝を崩してちょこんと座り、小首を傾げてこちらを見ていた。起き抜けで機嫌が悪いのか、顔をこすりながら泣いている。
「あ」
「あ」
二人のそんな微かな声が重なる。
さすがに、これには色魔伊織も身を起こした。わたしもそれに従い、座りながら急いで裾を直す。知らず、頬があつく熱が上っている。
嫌な伊織をつねってやりたい。
幼子だとはいえ、触れ合いを垣間見られた気まずさや気恥ずかしさを紛らすため、畳の散った鶴を手のひらに集め拾い、文机に乗せた。
伊織は羽織の前紐を解き、片袖になりながら、泣き顔の杏に腕を伸ばす。「ほら」と、指を差し出して呼んだ。
「杏」
抱いてやるつもりなのだろうと、背中から羽織を脱ぐのを手伝い、見ていると、妙なことに、杏は喜ばず、彼の手から逃げたのだ。
そのまま這うようにしてわたしの側に来ると、袂をつかんだ。いやいやと頭を振り、わたしの腕にしがみついている。
はにかむのか、久し振りで、まさか伊織を忘れでもしたのか。
「あら、あれは父上よ」
どうしたのかと問うと、「怖い」と言う。膝に乗せ抱いてやると、くすくす泣きながら、杏はおかしなことを口にしたのだ。
「…鬼」
先ほどの伊織のわたしに身を伏せた様が、杏の幼い目に、まるで長子を喰らうかのように見えたのだという。人を喰らうのは、お伽の中の恐ろしい鬼でしかない。
「…父上、嫌い」
「ま」
たどたどしい幼い口調を聞き終えて、おかしさに笑みが出る。それが募って、思いがけない笑い声になった。
長子の笑顔に、杏はきょとんとした顔を向ける。大丈夫とあやし宥め、父上は恐ろしい鬼などではないのだと言って聞かせる。
涙を袖で拭ってやりながら、けれども杏は言い得て妙なことを、とやはり頬が緩むのだ。ときに、鬼のように伊織は長子に意地悪で、突き放すかのように冷たいのだから。
宵に彼の衣装は、行灯の灯に深い藍に映えている。ならば今宵は青鬼というのが、ぴったり。思わずいつもの癖がほろり出る。
「青鬼老中…」
伊織がわたしの頬を、よくやるようにぷみっとつまんだ。ちょっと気に触ったのか、ほのかに凝らした瞳を向け、しばらくそれは留まった。
「ごめんなさ…」
笑い過ぎたと、笑いながら詫びると、不意に身を引き寄せられた。膝に乗せた杏ごと抱き取るような形で、彼はやんわりと、わたしを抱きしめるのだ。
「姫は偉いな」
「え」
「偉い」
長子の何が偉いというのか。杏を受け入れたことなのだとしたら、それには苛立ちも思いも迷いも戸惑いも、時間も、様々とあったこと。
わたしだけの心の辿りや考えで、そう出来たのではない。それは牡丹の健気さであったり、叔母さまの声であったり、または伊織のくれる言葉であったりした。
それらが、折々に長子をここに導いてくれただけ。偉くなどない。
ただ、伊織に褒められるのは殊に珍しく、はにかみながらも嬉しいので、黙っておいた。
「姫は偉い」
狭間にふと、無理していないか、と問うのだ。
「そんなことない…」
「なら、いい」
ぽんとつむりに置かれた彼の頬。「かたじけない」と、聞こえた。長子が初めて聞く、伊織が口にする短いその言葉は、触れる肌から降るように、そして、しっとりと重さを持って伝わる。
何を返せばいいのだろう。喉元に上るのは言葉ではなく、言い難い思いの結晶のようなものばかり。
嬉しさや恋しさ、愛しさ…。間に合ったのだという、言い知れぬ安堵感やそれが生む幸福感。
それらが美しい粒となり、互いに連なって輪をなすような……。そんな心持ちになるのだ。
黙っていると、伊織は「俺は、これでも侍だ」などと、小さく吐息で笑う。
背に回った腕、わたしが頬を預ける彼の胸。
ほっとする感覚。心がもう、つぶやいている。伊織の側にいることは、こんなにもわたしに居心地がいい。
「絶対に、守ってやる」
「うん…」
見えない奥で、彼はいつでもどんなときでも、長子を満たしてくれる。
長子に優しい。
 
杏を寝かせるとき、乳母を呼ぶのに、小さくないわだかまりを感じた。けれども、しようがなくもあり、今宵は彼女に預けた。
湯殿から戻った伊織に、乳母の行いやそれでふつふつとする思いを話すと、彼は文机の千代紙の鶴をつまみながら、「許してやれ」と言う。
「でも…、嫌な陰口を言うのを聞いたわ」
「一度だけ許してやれ」
伊織はあっさりと断じ、「劣り腹なのは、事実だ」とつぶやいた。
彼にとっては、どうでもいい家内の些事であるのだろう。けれど、杏を貶められて眉もしかめない様が、長子には面白くもなく、解せない。
「姫がふくれても、事実は変わらん」
彼は軽く笑い、腕を引いて抱き寄せて、わたしの垂らして束ねた洗い髪に触れる。傾いだ身が、それで白い小袖の彼の胸にとんと当たる。
伊織は髪筋を手に巻き、ゆったりもてあそびながら、
「俺や姫が変わればいいだけだ。双子と同じく杏を遇してやれば、じき収まる。俺たちが、杏の出自を忘れさせてやればいい。それでもまだ、そんな口を利くようなら、萩野でも俺にでも言え」
「…うん」
何となく身にしみる言葉に、ちょっと唇を噛んだ。「一度だけ許してやれ」という伊織の寛容は、一度杏を遠ざけた長子の身にも、そっくり当てはまるかのように思えた。
二度と、あんな残酷な真似はしたくない。しない。
ひっそりと、深く胸に思った。
肩を抱く伊織が、「気に病むな。姫のことじゃない」と、こちらの心を読んだようなことを言うので、誠にどきりとする。驚きに顔を上げると、
「顔に書いてある」
「まあ」
知らず、指で目尻から頬を拭った。
「それより、双子はどうした? 先に寝かせたのか?」
柚城に忘れてきたと返すと、彼は「荷物かよ」と笑うのだ。叔母さまの庵を出て、今宵帰ることに決めたのは、本当に不意のことだったのだ。
こちらの深い心内も知らないで、笑ってばかり。ぷいと顔を背けてやる。
「明日、俺が迎えに行ってやる。いいだろ?」
思いがけない言葉に、背けた顔が戻る。もしや、少し時間が出来たのだろうか。そんな期待に、ほろっと頬が緩むのだ。
「お城は? 御役職は? 忙しいのではないの?」
ぽんぽんと続いた問いに、伊織はちょっと笑い「少し休暇を賜った」と告げた。その返しには、「あ」となる。
彼の使う言葉から、自然、上様から直に休暇の御声があったことが知れるのだ。普段なら伊織は、素っ気なく「休みが取れた」、「体が空いた」などと言う。
それに連れ、叔母さまの許での、奇妙な上様絡みのお話を思い起こしてしまう。畏れ多くも上様が謀られたという、勅使殿を襲った事件。あれは伊織の老中辞任を止めるための計らい事だという……。
もしや、それが伊織の知るところとなり、上様は様々な慰撫の御つもりでお休みを賜れたのであろうか……。
「ねえ…」
彼は、どう思ったのだろう。家族で過ごす時間がほしいがため、上方へ転任するとの計画が、それゆえすべて徒労になってしまったことを。悔しく、または味気なく思っているのだろうか。屈託を抱えているのではないだろうか。
そうであれば、とほんのりと可哀そうにもなる。
気にかかりつつ、けれども上様に因み、長子の身で簡単に口に出来ることでもない。
「何だ?」
もじもじとしていると、伊織はそんなわたしを、笑みをにじませた瞳でのぞくのだ。
「上方の団子は、また次に買ってやる」
「要りません」
長子は上方の団子など食べたい訳ではない。ほんのちょっぴりの興味はあるけれど。
ただ、伊織の言葉ににじむのは、彼の長子に向けた優しさだ。それに、ほんの側にある今、じんと胸の奥が熱く、潤んでくる、そんな心地になる。
わたしはほんのり甘えた素振りで、頬を胸にぴたりとあてがい、ややずらし、「伊織が好き」とささやく。
伊織は喉の奥でちょっと笑い、わたしの髪の絡んだ手のひらで頬を挟む。口づけた後で、そのまま、「知ってる」とつぶやくから、憎らしい。
 
ふんわりとした小さな風に目が覚めた。「姫」と呼ぶ、微かな声も耳にふれた気がする。
眠りに入ってすぐの、ほんの浅い眠りだった。始まらない夢の入り口で、ふっと幕が下りたような。
辺りはまだ暗く、行灯の灯に夜具の白が浮かんでいる。伊織が身を屈め、わたしのほんの隣りに伏すのが見えた。
結わない髪の気楽さで、今宵は高枕を外し、わたしは重ねた両の手の甲に頬を乗せて横になっている。
そういえば、眠る前、欠伸をもらし始めたわたしに、彼は先に休めと、寝間に追いやった。自分はまだ用があるからと。
腐っても老中、書見などご用もあるだろうと、わたしは一人、そのまま床についたのだ。
ぼんやりと眠気の靄の中、肘で枕をし、こちらを見ている伊織と瞳が合った。
彼は、「ほら」と、空いた手のひらをわたしの目の前にかざした。白いものが、はらりとそこからこぼれ、結わない洗い髪に、散っていく。
それは折鶴だった。
「あ」
長子が眠る間に、折ってくれたのだろう。
小さな鶴は、行灯の灯を受け、ぼうわりと浮かび上がる。
その姿に、遠くない過去の胸の思い出が、鮮やかに甦るのだ。それはつんと気持ちを揺する。寝覚めの瞳が潤むほど、切なくてときに甘かったまぶしい記憶は、長子の目の前に瞬時に現れ、そして過ぎていく。
どれくらい経つのか。伊織が長子に折ってくれなくなって。それで平気になって、どれくらい経つだろう。
焦がれるほどに彼を思って、気持ちのすべてを傾けて、白い可憐な姿を見つめた日々もあった。
あれから、どれほど経ったというのだろう。
浮かんだ涙は、瞳からあふれ、手の甲に滑り、夜具をじゅんとぬらす。
「訊いたことがなかったな。これに、姫は意味があるのか?」
「あるわ」
涙に気づいたのか、伊織の手がわたしの頬に伸びた。
「すまん、気づかなかった」
節の高い彼の指が、その背が、わたしの髪をかきやりながら頬を撫ぜる間、言いたくて、なのに言えずにいたことを、伝えたくなった。
「杏に折らないで。長子だけ…」
涙を含んだ声は、ちょっと湿っぽい。こんなときに、ようやく気づくのだ。長子は、幼いばかりの杏に、ほのかに妬いていたことを。それを彼はどう受け取ったのか。瞳を淡く凝らして、こちらを見ている。
「わかった」と、唇が動く。
それから続く、ほんの間は、瞳を重ね、互いの何かを量るようであり、また与え合うかのような、密できゅっと胸に響く時間だった。きっと瞬くほどの刹那でしかないのに。
伊織はその手を、頬から耳に、そして髪がしっとりとたゆたうつむりの後ろにあてがう。
「俺が、姫に杏の母になることにこだわった訳が、わかるか?」
「え」
「姫のような娘がほしかった。それだけだ」
理由など、改めて思い巡らせたこともない。多分きっとそれは、伊織の子を憐れむ優しさや、責任感。それに杏への愛しさが加わったものだと、長子は当たり前に受け取ってきた。
「曇りがなくて、明るい。春の日盛りのような…。……そんな姫のような娘が、ほしかった。姫が母になるのなら、そのように育つだろうと、単純に俺は、そう思った」
 
『曇りのない、明るい。春の日盛りのような…』
 
それはいつか、伊織が長子とのことを、彼が白金の叔母さまに打ち明けた際、その思いをたとえた言葉に似ている。あの頃は、叔母さまづてにそれを耳にし、わたしは、容色を褒める言葉でないことを不満に思い、ちょっとふくれもしたのだ。
なのに、時を置き、今こうして彼自身の言葉で聞き、ほんの目の前に広げられると、それはとても胸にしみ入り、響くのだ。
嬉しいと、ありがたいと。
「ありがとう」
涙で染まった指先を、わたしは髪に留まる伊織の指に結んだ。長子の好きな、鶴を折ってくれるその指。彼の節の高く長い指が、絡むように包む。
「鶴を折るのは、俺の方が上手いな」
伊織はくすりと笑い、「姫の奴は、羽がどれもひん曲がっている」とからかう。
「まあ、失礼な。曲がってなんかいないわ」
それにもやはり笑いを含んだ声で、「全体、姿に品がない」などと返すから、嫌になる。ちょっとふくれてしまう。
伊織の指の節が、そのふくらんだ長子の頬を、ちょんと突いた。
「それでいい。そのままで愛らしい」
思いがけずにくれる彼の言葉は、ときにぶっきら棒であって、それはときにひどく甘い。そしてこんなにもなお、長子をときめかせて已まないのだ。
いまだはにかんで、恥じらって。そしてふっくらと、心の芯はうっとりと色づいて、咲き初める。
わたしは伊織の手を取り、その指に唇を当てた。
「たまには、また鶴を折って」
 
二人の時間に感じること。
口づけに、肌に溶ける触れ合いに。
抱えた胸の悩みもこだわりも、それらは溶かして、解いて、緩やかに思い出に織り込んでくれる。
そしてきっと、優しさも、愛しさも、温かさも、伝わる。しっとりと、互いの身の内の隅々までに届いていくのだ。
緩く指を絡め、安らぎとほのぼのとした嬉しさを抱いて、瞳を閉じる一日の終わりが迎えられる。
長子は、幸せ。
 
 
 
 
 
長らくおつき合いをいただきまして、誠にありがとうございました。



        
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