たまゆらに花を抱いて
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叔母さまの庵を出たのは、もう日暮れ近く。
駕籠に乗り、その揺れがどれほど続いた頃か、何とはなしに身の傾ぎ方で、往きにも通った辻を折れるのが知れた。
『…あなたに厭いてしまわれるわよ』
叔母さまのくれた言葉の中で、一番胸に痛かった言葉。一番堪えて、しみた言葉だ。
それは、まるでぱちりと頬を張られたように感じた言葉でもある。
何が大切で、代え難く、そのために何が出来るかを、痛みに、わたしはようよう頭に浮かばせ始めるのだ。
伊織に、長子は何をしてあげられるのかを。
そんなことに、今更、今頃気づく。
不意に、焦れてわたしは駕籠の中から大きな声を出した。「止めて」と一行の足を止めさせる。
様子をうかがう供人に、「柚城へは行かない」と告げる。
「姫さま、では、いずれへ?」
「榊の邸へ向かって。帰ります」
駕籠が動き出す気配が続き、一旦は辻を逆へ折れたものが、向きを変えるのがわかった。
やんわりと身が左右に揺れ、そんな弾みに、どこかで思うのだ。間に合ったような気がする。
まだ遅くない。
ふと、心を急かすような焦らすような、ときにやってくる、意味のない焦燥感のようなもの。ただ、心が求めるだけの。
それにとんと背を押されるように、わたしは自分のこの先を変えてしまう。
これでいいのだと思う。願う。
何か大きな決め事を持ったとき、省みて、長子はいつだって自分のこんな衝動のまま動いてきたように思う。叔母さまはそれに呆れもし、父上は我が侭だとお怒りになったこともある。
それから伊織は、あの人は、おかしがりながらも、ちょっとこちらをからかうように笑いながらも、そんな長子をいつだってちゃんと受け止めてくれた……。
どうであれば格好がいいとか、都合がいいとかではなく。
ただ、心のままに。
 
 
久方の榊の邸では、主の帰宅の予定もないのか、表に灯がまだ焚かれていなかった。わたしの到着に、慌てて車宿りの者が奥内に連絡に走った。
辺りに灯が入れられるのと同時に、萩野や主だった奥女中らが出迎えに出てきた。「お帰りなさいませ」の後に、彼女らしいちくりとした嫌味が続く。
「急なお帰りに、何のご用意も…。ご連絡をいただければ、よもやそのようなことも…」
別に取り立てしてほしいことなどない。のちほどの夕餉と湯殿の仕度だけを命じて、さっさと自分の居間に向かった。
うっすらと暗い居間に、急ぎ明かりが灯される。それで花が咲いたように、寂しげな空間が華やかになるから不思議。
輿入れ道具の叔母さまお譲りの屏風や、違い棚の平安の綴じ本。塗りの化粧道具ら、きちんと並んだそれらが、灯の光にちかりと光り輝くのが目にまぶしい。埃の具合もなく、いつ帰るとも知れない勝手な長子のために、萩野は掃除を厳しく躾けてあったようだ。
そんなことが心にほっこりと嬉しい。
気づけば腕を預けていた脇息は、新しい物に替えられていた。以前伊織が、長子の太刀をこれで受けたため、脚の部分を壊してしまったのだ。直らなかったと見える。
袖の中に叔母さまの許でいただいたお菓子を思い出し、杏にくれてやろうと立ち上がった。
そういえば、子供らしい声が聞かれない。双子であれば、夏の日盛りの蝉のようにうるさいときもあるのに。
あの子はどこにいるのだろうか。
控えた女中に杏はどこかを訊ねた。
「尚さま誓さまのお寝間のお隣のお部屋にございます」
「ふうん」
あ、と気づく。わたしは急ぎのことで、双子を柚城に置いたきりだった。追って連絡をやらなくてはいけない。
ふらふらと杏の部屋に向かう。袖のお菓子の包みを出し、つぶれていないかを手のひらで確かめた頃、部屋の襖の前でさめざめとした子供の泣き声がした。
「あ」
杏は泣いているのだろうか。側の乳母は何をしているのか。すっと襖を開いた。小さな玩具や人形なども揃い、中は子供らしい設えがなされている。
杏はその部屋の真ん中で、ぽつねんと膝を曲げ、顔を手の甲でこすりながら泣いていた。その寂しい泣きようは、甘えた幼子らしくなく、まるで悲しみに堪える大人のもののようだった。
目にじんわりと痛い、見るのがしのびなくなる風情だった。
どうして側に誰もいないのか。用で外しているのだろうか。
灯はまだ入れられておらず、それを命じようと隣りの襖に目を走らせたとき、声が聞こえたのだ。
襖越しに届く女のそれは、わたしの不意の帰宅を噂しているようだった。一人は杏の乳母だろう。もう一人いるようだが、それが奥女中の誰と知れない。
自分の影口を言われるのは気に入らないけれど、この榊の家で、長子が何をささやかれているのかくらい、知っておきたい。ろくでもないことだろうけれど。
「…いいわよ、まだ。急がなくても、奥方さまはこっちへお見えになる訳がないのだから、もうしばらく息が抜けるわ」
「そうね。杏さまを抱きもせず、里へお帰りになったくらいだもの。なら…」
ぐずぐずと世間話を続け、何がおかしいのやら声を忍ばせて笑っている。
一方杏は、目の前に急に現れたわたしが不審らしく、やや声を荒げて泣き始めた。
気になりつつも、襖の向うの声も引っ掛かる。
「ああ、ああ……」
はっきりと聞こえるだろうに、驚くことにその声にも乳母は応じようとせず、思いがけないことをつけつけと口にするではないか。
杏が、じき伊織の指図で、この邸を出される予定ではないかと言うのだ。
「ま」
わたしは思わず唇を指で押さえた。まさか、と思う。
「どうしようもない劣り腹ですものね…」
「奥方さまも、やっぱりそれをお望みでしょうから、少将さまもじきお計らいになるでしょうね」
「無理ないことだわね」
そこまでを聞き、これ以上は堪え難くて襖に手を掛けた。そのまま開こうと思い、けれど止め、代わりに大きな声で「灯を入れて頂戴。早く」と命じた。
一瞬の沈黙の後で、命じた声の主が当の噂の長子であると知ったのか、慌てた気まずい返答が返ってきた。
「はい、ただ今」
「今、すぐに」
腹立たしいが、それ以上を、責める気にはなれなかった。責めてはいけない気もするのだ。
杏を放って実家に帰ったのは、誰あろうわたしだ。親愛の欠片も見せず、疎ましがった素振りのみを残して。不快さを辺りに撒き散らし、裾を翻して逃げた。
それを、なさぬ仲の杏へ向けた長子の変わらぬ真意であると、乳母らが思っても、当然だろう。
それにしても、『劣り腹』だなんて……。
なんて、嫌な言葉だろう。まるで畜生に使うような言葉ではないか。不細工だの、馬鹿だの、または腐れ老中だの、いんちき老中だのの方が、よほどよっぽど聞き易いではないか。
嫌らしい言葉が耳に甦り、わたしは唇を噛んだ。伊織の子なのに。杏は、母は芸妓でも、伊織の娘だ。
けれども、だけれども、身近な乳母や女中にすら、杏を軽んじさせる基を作ったのは、長子だ。
わたしが彼女にもっと優しく接していれば、大事に扱っていれば、側の使用人の態度も自ずと違ったのだ。
全部、わたしのせいだ。
後悔と、それから、今杏の前に現れてやることが出来たことに、ほっと安堵している。
わたしは、二人が暗い部屋にうつむき、こちらの機嫌をうかがいながら灯を入れる様子を、立ったままで眺めた。
普段から、杏への態度はこうであったのだろう。今日だけのことであるはずがない。
表立って苛めているのではない。ただ軽んじて、仕事の手を抜いているだけである。伊織の不在が多い邸で、束ねる萩野も表向きの用に忙殺され、こんな様子であるとは、目に付きにかかったのだろう。
杏に気を配ってやるのは、わたしの役目だったのだ。
知らなかったとはいえ、ひどく可哀そうなことをしたと思った。
杏はやはり、しんなりとした様で泣いている。灯が入ると、畳に白い折鶴が幾つか見えた。姿はつぶれ、ぐちゃぐちゃにしてしまっている。随分と、伊織も抱いてあげていないのだろう。新しいものが見られない。
何を思うのか、杏は涙にぬれた顔を傾がせた。急に自分をかいがいしく構い始めた乳母らを、やはりどこか大人びて感じる表情を浮かべ、ぼんやりと眺めて目に映している。
わたしは、膝に杏を乗せてあやす乳母から、彼女を抱き取った。
「お髪を直して、お衣装も…」
取り繕うような乳母の声に、わたしは素っ気なく、自分の居間でやらせると応じた。
「母上がお菓子をあげるわ。あちらへ行きましょう」
そんなせりふが、ひとりでに唇から飛び出した。口にした自分ですら、「あ」と心密かに、その言葉に驚くのだ。
初めて抱いた杏は、ひどく軽い身のように感ぜられる。けれども廊下を、歩を進めるごとに、揺れに徐々に長子に身を預けるその身は、しっとりと腕に重さを感じさせるのだ。
 
 
慣れないようで、まだ行儀よくわたしの側に座っていた杏だけれども、共に夕餉を済ますと、湯殿を使った後は、ほっそりとした身に白い丈の合った小さな袷を着て、小さな笑い声を立てるまでになった。
思いついて、わたしが文机で折鶴を折ってやると、それを嬉しそうに眺めている。
白の他、色とりどりの千代紙の鶴は、可愛らしく彼女の側に散っている。
それをちんまりとした手でつまみ上げ、膝に乗せる。
姿に、「ほう」っと吐息が出るのだ。女の子というのは、赤子でもやんちゃな匂いのする男の子とは違い、やはりたおやかでかわゆい。
伊織が長子に育ててほしいと言った杏は、このような娘だったのか、と。しみじみと見やる。
様子を見て、頃合の遊び相手なども、呼び寄せてやらねばいけないだろう。まだ赤子のなりの双子では、役に立たないことであるし。それから、あの乳母はどうしてやろうか。このまま見て見ぬ振りも、やはり業腹である。すぐに代わりの者は見つかるものだろうか…。
つらつらと、そんな杏に関わるこもごもが、頭を一時過ぎっては消えていく。
「ほら、もう一つ」
鶴を折る他愛のない作業は案外に楽しく、身の内のさまざまなものが頭の中で折り込められ、そしてまとめ上げられていくような、そんなしっくりと心が落ち着いていく感覚がめぐる。
たとえて言えば、思い出や気持ち入った小箱が、長子の心にはたくさんに詰まっていて、それはごちゃごちゃとあちこちに散かっている。
千代紙に指を据え、四方を折り、形を作っていく狭間、その仕草は心の中で、何かを胸の小箱へしまい、またはその小箱を心内の中で置き直す整理にすり替わる。その小さな動きで、ぽっかりと、心に思いがけない隙間ができるかような心地なのだ。
そんな思いがする。
そこにこれからを、また片づけてしまっていけばいい。まだ、空間はある。
彼女を見ていて、接していて、そんな思いがふっくりと胸に宿すのだ。
まだ、大丈夫、と。
間に合うのだ、と。
「ははうえ」
「ほら、杏」
また一つ、小さな指に置いてやる。彼女はそれを息で吹き、または集めて膝に降らせ、遊んでいる。愛らしいと思った。知らず、目が離れない。
他愛のない折鶴たちが織り成す、けれど、灯の照らす彩なる魔法のような時間。そんなものに、わたしは目を奪われた。
ほしいのなら、折鶴なら、長子が幾らでも折ってあげる。
わたしが杏に折ってあげればいいのだ。
だけど白い凛とした小さなあの鶴は駄目。あれはあなたの父上が、母上にだけくれたもの。
その意味に、白い姿に今でも長子は縛られて、恋しているのだから。
かつて、いつかの過去感じたように、やはり、伊織という人は妖術使いなのかもしれない。
気紛れに何の気負いもなく、あなたの折ってくれたあの鶴は、こんなに時間を置いても、意味を込め、まだ長子のまわりにふうわりと浮かんでいる。
 
いつしか時も忘れ、夢中で折っていた。
すっかり文机に向かう脚が崩れ、裾が割れている。その足もとに杏が寝転んで眠っていた。
「あ」と気づき、風邪を引かせてしまうと、人を呼ぼうと声を出した。
「誰か…」
襖を振り返ろうとしたとき、不意に背後から手のひらで目を塞がれた。指の加減、ふんわりと起こる煙管の香のする風で、伊織と知れた。
「あ」
そのまま抱き寄せられ、首に唇が触れる。それは頤に上り、ほんのり留まるのだ。手が外れ、瞳が開く。まだ千代紙に触れたままのわたしの指を、伊織が捉えた。
その指が絡み、少しきつく握られる。
いつ帰ったのかとの問いに、答えは返らない。
「駄目…」
杏を寝かせるため、人を呼ぼうとするのに、伊織は強く腕を回し、身じろぎさせない。
「このままでいい」
頬をやや振り向かせるのと同じに、そのまま口づけを受けた。
「見惚れて、見ていた」
抗う力も、何か言い募ってやりたい気持ちも、それらは彼の腕の中で、溶けていく。
溶かしていく。



        
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