ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
1
 
 
 
目にしむような新緑が、まるでレースのように茂る道。
自転車で通る、かよい慣れたこの道も、観光地とあってゴールデンウィーク中は、わっと人が増える。
しゃわしゃわと流れる渓流を、眺め眺め歩く人々。少し汗ばむような陽気も、時折吹く水辺の風にふっと冷やされる。
まだ夏に届かない、若い季節の狭間。
わたしはこの始まった大型連休に、大して予定がない。あるのは、明後日のゆりたちとするバーベキューくらい。普段と変わらず、咲子叔母さんのカフェで働くばかり。
聡ちゃんにはゴールデンウィークもない。それどころか、急に医師の欠員が出たということで、そのカバーが回ってきたほど。
医師不足と聞くけれど、その実例は、こんな身近で確実に起こっている。
開店前の『花の茶館』に入ると、叔母がカウンターに乗り出すようにして、そこに座る恋人の高見さんの髪を指ですくっていた。
彼はスプーンで、プレートに盛られたブランチを口に運んでいる。
おはようの後で、叔母が高見さんの髪が長くないかと訊く。「暑くなるのだし、もっと軽くしたらって、思うのよ」
絵のレセプションなどで、一時は短くすっきりとなる彼のスタイルも、アトリエに籠もり、創作ばかりの毎日になれば、これまでのような眺めの髪に無精髭に戻ってしまうのだ。
エプロンをしながら、叔母に「そうね」と返す。カウンターの高見さんは、食後の煙草に火を点け、
「タオルで縛っとくから、構わない。でも、あなたが言うのなら、切るよ」
少し甘い匂いのする声が、柔らかく答える。彼は叔母にとても優しい。そんな優しさを、彼女に当たり前に差し出す高見さんが、わたしも好きだ。
「じゃあ、明後日の旅行までに切っておいて」
「ああ」
シフォンケーキの準備をしながら、二人が交わす、明後日からの旅行の話を聞くともなしに聞く。信州へ行くというそのプランは、わたしの耳に心に、じりっと微かに焼ける痛みを感じさせた。
その間の店はクローズになり、わたしにはぽっかりと空いた時間だけが残る。
友人たちは家族や、または恋人と思い思いに過ごすのだ。
何をしていよう。
どこにいよう。
軽い憂鬱でもあり、軽い疎外感でもある。
開店と共に観光客が訪れてくれ、高見さんのいたときと空気が入れ替わるように忙しくなった。
これまであまり出なかった、アイスコーヒーのオーダーがやたらと多い。外は行楽には適した、気持ちのいい陽気なのだ。
昼のランチメニューは、ゴールデンウィーク中は休み、そのせいで店もひと時がらんとなる。簡単にサンドイッチで昼食を済ませていると、からん、とドアベルが鳴った。
小柄な身体にあっさりとした銘仙の着物を着た篤子ちゃんだ。彼女はこの花滝温泉の旅館『花のや』に嫁ぎ、若女将になった。ちなみにまだ二十歳の短大生だ。夫である小早川さんは聡ちゃんの友人で、グループで遊ぶことも多い。
空き時間なのか、そうでないのか。連休中は特に忙しいだろう篤子ちゃんが、ふらりとこんな時間にやって来るのは珍しい。
走ってきたのか大きく息をついて、袖からハンカチを出し、汗の玉が浮いた鼻にちょんと当てた。
「ごめんなさい。お客じゃないの」
「どうしたの?」
叔母が、それでも彼女に冷えた水を差し出す。礼を言って嬉しそうにごくごくと飲み干し、
「薫子さん、明後日から空いてる? もしよかったらなんだけど、『花のや』をちょっと手伝ってほしくて……」
「え」
不意な話しに叔母と顔を見合わせる。
彼女が説明するに、『花のや』に併設した料亭の仲居さんが、病気で倒れたという。元々人手も少なく、お客の入りも多い連休中は、どうにもならないらしい。
「てんや、わんやなの。今はこの用で、ちょっと逃げてきた」
聡ちゃんが連休もなく、忙しいことを小早川さんから聞き、ぽろりと彼女がもしかしたら、わたしの身体があいているのではないかともらした。
それを耳に入れた女将のお姑さんが「篤子ちゃん、頼んできて」と檄を飛ばしたのだとか。
「結構仕事きついから、頼み辛いのだけど……」
ハンカチを握り、申し訳なさそうに涙目になる彼女を前に、とても断れない。どうせ暇な身であるし。
却って足手まといになるかもしれないと付け加え、簡単に請けた。篤子ちゃんはひどく喜び、
「ほっとした。駄目なら、お姑さんに、きっと睨まれる」
「怖いの? 小早川の小母さん」
「美人だから迫力あるの。怒るともう、空気が変わる。バックにあれが流れる感じ。ダースベイダーのあれ……」
そのたとえに、ぷっと吹き出す。
ともあれ、時間の潰し先が見つかり、何だかほっとしている。
 
叔母が髪を短くした高見さんと旅行に出かけ、わたしは通い先を店から『花のや』に変えた。
わたしがお手伝いに行くことを、夜更けにメールで聡ちゃんに伝えると、朝方その返信があった。
 
『ごめん。
どこも連れて行ってあげられなくて。
連休明けたら、
少し、楽になるかも。
 
カシワギ』
 
その返しに、わたしは『気にしないで』と送った。それにはほどなくメールが届き、
 
『酢気だか田
 
カシ』
 
とある。急いで打ったのだろう。どう見ても、変換がおかしい。ベッドに横になりながら、携帯の光る画面を見つめ続けた。
『好きだから』、と送ってくれたの? ねえ、聡ちゃん。
 
 
篤子ちゃんが『結構、きつい仕事』と言っていたように、優雅な雰囲気の表とは違い、わたしが就いた裏方は、それは大変な忙しさだった。
『李寮』という名の『花のや』に離れに設けられた料亭が持ち場だ。こじんまりとした造りではあるが、客室が4室。他カウンター席がある。
いずれも昼も夜も予約客で満席だ。
篤子ちゃんは普段から、こちらを担当することが多いという。彼女は若女将であり、きれいな留袖を纏い、髪も可愛らしく結い上げ、お客の挨拶に回る。常連の人も多いらしく、足止めを食うこともしょっちゅうだ。
わたしは他の二人の仲居さんと同じように、お仕着せの薄紫の着物を着、料理を運んでいく。
これだけならいいのだけれど、大変なのが配膳だ。次々と頃合を見て調理場から出来上がってくる料理を、配りやすいように盆に乗せ、または返ってきた器類を洗い場へ戻す。
この作業を、篤子ちゃんが挨拶の後で着物に襷を回し、狭い配膳場でほぼ一人で行っているのに、目が点になった。
うっすらと額に汗をかき、
「人手がないから、仲居さんたちには、お料理出しに回ってもらうの」
聞けば、あの女将の小母さんも『花のや』の方の配膳室で、これと同じようなことをしているのだという。
確かにお客が着けば、もうその対応で少ない仲居は出払ってしまう。残るのは、挨拶の後で手の空いた女将だけだということだ。「慣れたら結構、大丈夫」
瞬く瞳はきらりときれいだった。
お客が帰ればその後片付け。狭い配膳室は、戻された食器類であふれそうになる。こうなると、もう仲居も手伝う。
洗い場へ返す皿を、三枚重ねると、篤子ちゃんが「あ」と言った。
「重ねるのは二枚までなの。傷がつくから」
「そうなの?」
料理ごとに異なるきれいな器。きっと高価なものなのだろう。「割ると、女将にお詫びに行くのよ」
「え」
仲居の一人が教えてくれた。面倒で嫌ではあるが、それで給与から引かれることはないという。
慣れるのに少し手間取ったけれど、くるくると動き、忙しいのは暇を持て余し、寂しいわたしにはちょうどいい。考えなくて済む。どこかに遊びに行っている誰かのこととか。その自分との差とか。
本当に、聡ちゃんは連休明けには勤務が楽になるのか。
篤子ちゃんだって、遊びにも行かず、何の不満も口にせず(「ビールが飲みたい」は言うけれど)頑張っている。彼女は見た目より芯が強く、ずっと偉い。そんなことを感じられた。
連休のしっかり終わりまでを、わたしは『李寮』で働いて過ごした。
 
 
ゴールデンウィークが終わり、日常に戻った。
聡ちゃんとは一度だけその翌日に会った。やっぱり彼は約束より遅くなる。言いたい愚痴を、喉の奥に飲み込んだ。
食事をして、彼の部屋で久し振りに抱き合った。よほど眠いのか、行為の後で、すぐに眠そうに瞳を閉じてしまう。
会話もたどたどしくなり、意味を成さない。
泊まるつもりでいたから、そのままにして、わたしはベッドを出た。シャワーを浴び、着替え、部屋に戻ると彼が身を起こした所だった。暗い部屋の中に肌のシルエットが浮かぶ。
明かりを点けようとして止め、冷蔵庫からビールを二缶取り、一本を彼に渡す。何となく回る腕。そして何となく、まだ湿り気の残るわたしの髪をすくう指。
ビールを飲みながら、ちょっと話す。忙しい日々のこと。連休中の話。そして、わたしが今度誘われている大学時代の友人との食事のこと。
聡ちゃんが仕事にきりが着き、時間ができるのなら、敢えては行かないつもりだった。会うのは大阪だし、泊まりになる。行かなくてもいい。また別の機会も、きっとあるだろう。
「行っておいでよ。悪いけど、しばらくシフトやっぱりきついから。夜勤も増えたし…」
「そう」
わたしのその相槌は、彼にどう響いたのだろう。どんな色をしていたのだろう。
膝に置いたわたしの手を、聡ちゃんが包んだ。「ごめん」と言う。
聡ちゃんのせいじゃない。
忙しい仕事と、勤務体制のせい。医師の欠員が埋まらないせい。
ぼんやりと頭の別の箇所で、大阪行きの計画を立てなくてはいけないと、ひっそりと思う。列車は取れるだろうか。ホテルは友人に言って、どこにするか決めないと……。
軽くない落胆が、きっとこんなことを考えさせる。
「うん、大丈夫」
「怒ってる? 薫子」
「ううん、どうして怒るの? 聡ちゃんのせいじゃないでしょう」
見つめる彼の瞳が、ほのかな明かりを映し、きらりときれい。何となく思い出す。篤子ちゃんの瞳もそうだった。迷いもなく、ただ前だけを見ているそんな感じ。
聡ちゃんもそうだろうか。自分の役割と、仕事。前だけを見て……。
「あ」
急に始まったキス。何かを封じるようで、または引き出すかのように、熱い。ちょっと焦れたときの聡ちゃんの癖。
そんなときのキスは強引で、性急で、少し身体の芯がやるせないような、疼くような、じれったい思いが芽吹いていく。
もう一度抱いてほしかった? 待っていたみたい。
床に空き缶がころりと落ちた。空いた手がわたしを包む。すんなりとい肌に長い指が沿っていくのだ。「また、抱きたくなった」
身をよじり、「シャワーを、浴びたばかりだから…」
拒否にもならない。まるでそれは甘い媚びのよう。自分の耳に、そのしっとりとした声音が張り付いて溶けた。
身体が崩れるように、ベッドに倒れ込む。
優しい愛撫を受けながら、肌の熱と聡ちゃんの匂いを感じながら、うっとりとする恍惚に目を閉じた。
好きだとささやく声も、きれいだと言う言葉も。
感じながら、わたしは瞳を閉じている。



        

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