ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
2
 
 
 
抱き合う夜は、ほんの束の間で、あっけなく果てが来る。
やはり朝から勤務の聡ちゃんは、寝足りないのか、起こした後でもベッドの中で、ぼんやりとしている。
「起きたよ」と言いつつ、肘で枕した頭。その目はもう閉じてしまっている。
わたしはシャワーを浴びて、簡単に肌を手入れして化粧を済ました。ぬれ髪をタオルで拭いながら、ベッドの聡ちゃんにもう一度声を掛ける。
きっとうとうとしているのに違いない、と思った彼が、そうとは違い、眠そうな瞳を開けて、こちらを見ているのにちょっとだけ驚いた。
ベッドヘッドに向いたカーテンを、レースを残してじゃっと開ける。まぶしい朝の光がいきなり差し込んだ。ベランダ越しに見える、ビルや営業を始めている店舗。見慣れた光景を何となく目に入れた。
その間、聡ちゃんが何か言ったような気がする。聞き取れなかった。
「何か言った?」
彼は目をこすりながら身を起こし、大きく伸びをした。「…見ているのが好きなんだ。薫子が髪を乾かしているの。ちょっと、うっとりしてた」
「え」
彼の言葉に、わたしは小さく、嫌だ、と返しただけ。嬉しいのに、頬が熱くなるのに。それを照れが遮る。彼の腕を引き、立たせることでやり過ごした。
シャツの背中を押し、バスルームに向かわせる。
これから軽い朝ご飯を作ってあげること、そして彼が出かけてしまった後、部屋を片しておくことを告げた。
「ありがとう」
「休みだから、いいの」
シャワーの音が聞こえ始め、わたしはキッチンに立った。
ホットサンドとコーヒーの簡単なメニュー。これは結婚時代にも朝食やブランチによく作り、今でも『花の茶館』のお昼に食べたりする。
聡ちゃんは、これのポテトサラダを挟んだものが好き。
手を動かし、こぽこぽいうコーヒーメーカーの音を聞きながら、ふと彼とつき合い出し、こんな風な朝は何度目だろうと思った。
身体になじむほどではなく、見慣れない訳でもない。けれどもここのところの彼の忙しさに、会えない日が続いていた。
あの長いゴールデンウィークも、一度も会えなかった。だから、こうしているのがちょっと久し振りにも、新鮮にも感じられる。
これまでは、彼の休みに合わせて泊まることが多かった。だから、次の日は、遅めに起きて、ブランチを食べて、何をするかどこへ行くかを話したのだ。
何が変わった訳でもない。
気持ちが薄らいだ訳でもない。
ただ、彼との時間が減っただけ。それだけだ。
違うのは……。
かたりとドアの音がした。聡ちゃんがバスルームから出てきた。ふんわりと、ほのかなシャンプーの香りがする。そのまま、キッチンのわたしの背後に立ち、腕を回した。
まだ火照った肌が、やんわりとわたしを抱きしめた。
「あ」と言う間もなく、首筋に唇が当った。強く、まるで唇で噛むようにキスを押し当てる。そこにはきっとなかなか消えない跡がつく。
聡ちゃんはいつもそう。身体を重ねると、わたしの身体にどこか、服や髪で隠れそうなところにこんな風に跡を残す。
以前それを忘れて、ゆりと温泉に行った。やっぱり彼女に見つかり、恥ずかしい思いをしたことがあった。
「そんなところ…、見えちゃうでしょ」
「見えてもいいだろ。男除けになるし」
そんなことを言って、ちょっと笑う。
それは彼の所有欲なのだろうか。もしくは不安? 
聡ちゃんだけなのに、おかしな人。他にいないのに。誰がいるというのだろう。おかしい。
「聡ちゃんだけ」
いつのも意地も引っ込み、ぽろりとこんな言葉が出るのは、どうしてだろう。会えない日々に、思いが凝り、時間の密度が濃くなったから?
容易く言葉に触れ合いに、にじんだ甘さが香るのだ。
おかしい。
けれど、確かに心が満たされた、柔らかで溶けそうなひととき。
回された腕にわたしは頬を寄せた。
「…聡ちゃん、知っているくせに」
この時間に、日々の物足りなさが心のずっと深い場所に埋められるように沈み、見えなくする。
消えるように。
 
 
連休明けで、思いの他容易に列車の切符もホテルも取れた。久し振りに会う友人たちに、何を話そうか何を聞き出そうか、そんなことに思いを馳せるのも楽しい。
叔母に言うと、簡単にこちらも土曜の休みをくれた。
『李寮』での短いお手伝いの手当てが、案外な金額になり、それで旅行に着て行く服と靴を買った。初夏らしい軽いスカートにブラウス。そしてパンプス。
出かける前夜、聡ちゃんにいつものおやすみメールを送った後で、旅行の用意をした。一泊だから小さめのバックで十分。押入れから数年前のものを取り出す。持ち手が革の本体はナイロン製の軽いもので、淡いベージュが今の時期にも合いそうだ。
着替えや化粧道具などを詰め、何気なくサイドポケットを探った。指先に触れた金属の感覚に、あ、となる。硬貨にしては形がいびつで、何だろうと、取り出してみる。
手のひらのそれは、鍵だった。ロッカーや引き出しなどの小さなものではない。どこかの家の鍵だ。つまんだそれを指でいじるうち、その意味に思い当たった。
これは、あの結婚時代暮らした千里のマンションの合鍵だ。どこかへ出かける前に、駅の構内の店で作ってもらったのを思い出した。
「こんな、ところに…」
存在さえも忘れていた。当時のわたしは、必要があって作ったのに、それだけで満足して、こんなところに突っ込んでおき、放っておいたのだ。
何の価値もない鍵。わたしはそれを、後で捨てようと脇に置いた。
バックに荷物を詰め終え、明日のことで友人に電話する。待ち合わせの確認と、京都を回ることなどを話した。
『薫子、明るくて安心した。もしかしたら、大阪に来るの、嫌なんじゃないかって、そうだったら、悪いことしたなって、話してたのよ』
ゆかりの声に、大丈夫、もう吹っ切れているから、と返した。
おやすみを言い、電話を切った後で、ゆかりの言葉が、ちょっと頭に残っていることに気づいた。
『大阪に来るの、嫌なんじゃないかって…』
離婚の当初は、大阪という地名を耳にするだけでも、胸に響いた気がする。辛かった思い出もある。けれど、今では何でもない。
かつて結婚生活を送ったあの地に行くことに、何のためらいもない。それどころか、その準備に、楽しささえ感じているのだ。
心は変わる。時間の中で、流れも、溶けもする。
負った傷も、癒えた。消えはしないのだろうけれど、ひっそりと小さく淡く、自分でもどこにあるのか気づかないくらいになっている。
それを、自分だけの強さだとは思い上がりたくはない。母や叔母や、そして聡ちゃん、ゆりたち友人や、優しい人に支えられて、わたしはそれらを成した。
乗り越えられた。
だから……。
わたしは指で傍らの合鍵をつまんだ。それを元の通り、サイドポケットにしまった。
おかしなおまじないのように、これを、大阪に置いてきたくなったのだ。どこでもいい。ここではない場所に。
 
 
どうしてだか寝つきが悪く、十分に眠れなかった。その間、インターネットを開いてみたり、ビールを飲んだり、聡ちゃんにもう一度メールを送ったりした。
乗り込んだ列車内は、寒いほど空調が効いていた。持ってきたカーディガンを肩に掛け、目を閉じた。ほんのり頭が痛い。眠気とそれがずっと付きまとい、車窓を見ることもあまりしなかった。
少しの体調の悪さは、そろそろ生理が近いせいだろう。
車内には、土曜とあって、旅行らしいカップルや家族連れ、グループが多い。ビジネス風のスーツの客は少ない。
結局大阪に着くまで、あまり眠れず、どこか頭の奥がじんと痺れた感じになっている。
お昼前に待ち合わせ、落ち合った久し振りに会う友人三人と、まずはランチの相談だ。
一人のお勧めのホテルのランチに決まり、ぶらぶらと向かいながらも、話が弾む。
見かけが変わったことや、変わっていないこと。そんなところから、女同士、きわどい質問が飛び交う。
懐かしい雰囲気に、列車の疲れも吹き飛んだ。
大阪駅から程近いホテルの階上のレストランは、静かで、美保のお気に入りだという。『案外穴場なのか、便がいいのに空いてるの』とか。
和風フレンチという軽めの食事をしながら、これからの予定に、あれこれ意見を交わす。
結局、京都に足を伸ばすのは明日にして、今日は、せっかくだからショッピングも最低限にして、ゆかりの家に落ち着くことになった。そこで思い切り喋り倒そうという計画。
彼女はわたしと同じように、早くに結婚している。子供もまだで、気楽な身同士、結婚時代はよく会っていた。
確かご主人の晃さんは、敏生と同じ会社だった。所属の部署は違ったけれども。
少しデパートを回り、そこでは地元で売っていないメーカーの化粧品を買った。大阪にいた頃、フルラインで揃え、気に入って使っていたものだった。
JR沿線のゆかりの家は、一戸建てのこじんまりとした瀟洒なお宅だ。幾度か上がったことがある。
途中ケーキとお菓子、それになぜかワインを買い、きれいに整ったリビングにお邪魔する。
「晃さん遅いの?」
「四月に異動があって、遅くなった。ここは会社から近いから、毎日帰っては来るけどね。遠い人は、ホテルとかに泊まるらしいよ。旦那のチームは特にひどいみたい」
それに美保が、「でも、お小遣いがもたないでしょ? ビジネスでも、何度か泊まれば結構するし」
「経費が出るの。無理して体調壊されたら、労災が怖いって」
「さすが、大企業。太っ腹」
ゆかりがグラスを出してくれ。それに、ワインを注ぐ。再会を祝して、二度目の乾杯。
互いの近況を、ワインを飲みながら話す。不妊治療を始めたというゆかり。今の彼とそろそろ結婚を考えている美保。最近新しい彼とつき合いだしたという理奈は、その熱いのろけを披露してくれた。
そして、わたしは聡ちゃんとの関係のことを話す。彼を知らない友人に、彼を説明するのは、案外難しい。たとえばそれば、陳腐で当たり前な形容になってしまう。
優しいとか、大事にしてくれるとか。
上手く、言い表せない。
そんな風にして、楽しく、笑ってばかりの寛いだ時間は流れていった。
それぞれ立ち位置が異なる近況や打ち明け話は、新鮮で、聞き飽きることのないほど、興味深い。
 
ゆかりの旦那さんの帰るコールがあったのは、午後九時を回った頃だ。まだまだ甘い雰囲気であることは、彼女の電話の様子でわかる。
「え、何で? 嫌だって。もう先に言ってって、頼んであったじゃない…」
そんなちょっと拗ねた声で、ゆかりが応じている。軽い頼みごとを、晃さんに破られたのだろうか。美保や理奈とにやにやしながらその様子をのぞく。明日も会うからと、この日はお開きにして、ソファから腰を上げかけた。
電話を終え、振り返ったゆかりが、どうしてだか困った顔をしている。わたしを見ている。

「あのね、薫子…」
そこへ玄関のチャイムの音が鳴った。晃さんが帰ったのだろう。食事や迎える準備もなく、急な帰宅に彼女は戸惑ったのかもしれない。旦那さんを大事にする人であったし。
本当にそろそろお邪魔しよう。残る二人と、そう言葉を交わした。ここからなら、予約したホテルと方向が重なる美保と、タクシーを便乗しても、そうかからないだろう。そんなことを短く決めた。
ゆかりは鳴った玄関にちらっと目を向け、キッチンに備え付けのドアホンを上げた。通話のボタンを押す前に、なぜだか、もう一度わたしを見た。
「ごめん、薫子。蒔岡さんが一緒なの……」
「え」
意味がわからず、訊き返した。「何?」
ゆかりの旦那さんが、同じ部署の敏生を連れて帰ってきたのだという。
わたしは自然、彼女のそばに行った。ドアホンのやや粗いモノクロの画像に、見間違えようのない彼の姿が映っている。何か少し笑って話している。
こんなすぐそばに敏生がいる。
それが、わたしの時間をしばし止めて、そして凍らせた。



        

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