ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
6
 
 
 
ほどなくきた別れ。
聡ちゃんは、わたしを自宅の前に降ろすと、すぐに車を返した。「じゃあ」とごく短い、言葉にもならないものを残しただけ。
「ありがとう」
それだけを告げるのが、ぎりぎりで、もう何も言えなくなった。
家に入り、バックの中身を整理する頃、お土産のストラップを渡していないことに気づいた。数時間前までは、何だか可愛い思いつきに感じ、早く渡したいと嬉しかったものが、今はどうでもいいとさえ思えてくる。
結局、あげたかったものは、こんなものではなかったのだろう。そして、何かをあげたかった訳でもないのだろう。
ほしかったのは、わたし。
こんな些細な物で起こる彼の言葉や、表情。それら自分に返るリアクションがほしかっただけ。
クローバーのモチーフのあるそのストラップは、今度会ったとき渡そうと思い、けれども少しも気持ちが浮き立たない。
いつ会うのかも、会えるのかも、約束しなかったことをすぐ思い出し、ほんのり嫌な気持ちになった。
簡単にシャワーを浴びて済ませ、茶の間の母に、大阪でのことをちょっと話す。楽しかったことを告げ、お土産に買ったお菓子の箱を開く。
「聡ちゃん、上がっていけばよかったのに」
ここまで送ってもらったと言ったのに、そのまま挨拶もせず帰ってしまったのが、母は少し気になるようだ。普段なら、何かしら彼は母に声をかける。
「忙しいみたい。途中で、病院から呼び出しがかかってきたの」
「ふうん。お医者さんは休みもないの? 可哀そうに」
母と取りとめもない会話を続け、その最中、テレビが伝えるニュースに、肌がぴりぴりとなる。聡ちゃんの言っていた事故の模様が伝えられているのだ。
ここから遠くない高速道路のインターチェンジ付近で起こった玉突き事故は、大型トラック、タンクローリーを巻き込み、怪我人の病院への搬送が続いているという。タンクローリーに積まれていた、劇物のカセイソーダーが流出し、付近の住民への注意を呼びかけていた。
呼び出しの理由を、「高速道路の、事故らしいよ」と、彼は軽く教えてくれた。それはわたしの思いがけない大きな規模のものだった。離れた距離からカメラは、事故現場で動く人々を写している。そのレンズに雨粒が降り注ぎ、画面をにじませる。
殺伐としたテレビ画面の事故の状況を、ぼんやりと見つめた。
「ひどいわね」
「うん…」
忙しくなるのだろう。
今夜は眠る前のメールもこないだろう。
彼の仕事の都合で、約束がふいになることだってあった。連絡をもらえないこともあった。これまでの二人の間に普通にあったこと。
けれども、今、それがじんと胸に堪えている。心の奥に、居座ったその思い。
「あ」
ようやくこんな簡単なことに、気づくのだ。
わたしは孤独を感じているのだ、と。
 
 
昼の喧騒を過ごすと、『花の茶館』は、あっさりと午後ののんびりとした雰囲気が漂い出す。
叔母と二人で彼女手製のおにぎりをつまみ、お茶で流し込んだところに、近所に住む友人のゆりが顔を出した。
仕事の合間に、彼女はほぼ日課のようにここにやって来る。カウンターに座り、最近短くした髪を耳にかけ、オーダーのアイスティーが出来上がるよりも前に、わたしに大阪行きの話をせびる。
「楽しかった?」
「うん。ちょっと暑かったかな」
彼女や叔母の問い掛けに答えるうちに、ほろりと敏生のことが飛び出した。親しい女友達に隠す訳でもないし、あったことのままを告げる。
途端、ぱっとゆりの瞳が輝き出すのだからおかしい。恋愛ゴシップ好きには堪らないねたなのだろう。
それでも少しは気を使うのか、声ばかりは押さえ、その語尾の震え加減が、笑みを堪えているようで、却っておかしい。
「何? それ。まさか、敏生さん、薫子と複縁を狙っているの?」 
「ないない。からかって遊んでいるのよ。わたしの驚いた顔を見るのがきっと楽しいの」
「そうかな、それだけかな? だって薫子の友人の前で、未練ありげに振舞ったのでしょう? 普通するかな、恋人がいるの知っていて、遊びなんかで。恥かいちゃうだけじゃない。ねえ? うちの喬さんなら、絶対やらない。咲子さん、長老の意見を…」
ゆりがアイスティーのストローをくわえ、頬杖をつく。
「長老」にぷっと叔母が吹き出した。ひどいわ、とおどけた口調で言い、「そうねえ、ゆりちゃんの言う通り、あんまりしないと思うわ。良いにしろ、悪いにしろ、薫子に興味があるのは確かね」
「不思議な人なの、敏生って」
わたしはダスターで拭っていた手をちょっと止めた。彼にいまだ興味を持たれているのだとしたら、気味が悪い。わたしの何が、そんなに彼の気に触るのだろう。ただ、おかしなないものねだりをしているとしか、思えない。
「敏生さん、いい男なのにね」
ゆりの声に、「見た目だけね」と、わたしは応えた。ああいう奔放で自己中心的な不可解な性格を、構わず大きく包んであげられる女性は、どこかにいるのだろう。けれども、それはわたしではないし、そんな心の広さを持つ女性を、素敵だともすごいとも思わない。
そして、そんな女性が早く彼に現れてほしいと願うほど、まだ優しくもなれない。
ゆりが携帯に入った呼び出しを三十分も無視し、散々お喋りの後で帰って行った。がらんとなった店で、叔母はグラスを洗い、わたしはフロアに落ちた紙屑に気づきそれを拾う。
カウンターに戻り、ケーキの仕度を始める叔母にふと訊ねた。変なことを訊くけど、と前置きをし、
「ねえ、咲子叔母さんは、前の旦那さんは、特別?」
先ほども、ゆりの前で敏生が聡ちゃんからの電話に出たことは話した。ちょっとだけ、それで聡ちゃんと気まずくなったことも。しかし、そこから流れた彼の言葉などは話していない。
叔母は卵をボールに割り入れる手を、ちょっとだけ止めた。同じく離婚経験のある叔母に、この問いの答えを聞きたかった。
彼女はわたしをちらりと見、
「それ、柏木くんがあんたに言ったの?」
「うん。わたしが敏生のしたことを簡単に許すのは、彼が『特別』だからだって。いい意味でも、悪い意味でもって…」
「その通りね」
叔母は慣れた手つきで卵白と黄身を分け、ハンドミキサーで卵白を泡立て始めた。黄身をわたしに渡す。
卵白がもこもこと白くふくれる頃、彼女はそれらをわたしに預け、中に加える苺の仕度に入った。
わたしはそれらを黄身と合わせ、シフォンの生地を仕上げる。
「わかっているでしょ? 薫子にも。あの面倒な式を挙げたのも、その準備も、何だかんだと暮らした日々も、別れのごたごたも。確かにあったのよ。幻なんかじゃないの。消したいこともあっても、消せないの。事実なのだから」
「うん…」
叔母に言われるまでもなく、よくわかっている。だから、それらの重い真実の存在が、胸の中で薄らぐまで、わたしは辛かった。
真ん中に突起のあるシフォン型二つに、苺を加えた生地を流し入れる。気泡を抜き、余熱が終わるのを待ち、二つの型をガスオーブンに入れた。
「妬いているのよ、柏木くん。薫子の過去に。自分の知らない薫子と、それを知っている敏生さんに。それだけよ」
「え」
「可愛いじゃない」
もらえたのは、ごくシンプルな答え。単純過ぎて、わたしが見逃していた答えだ。
余計なことを考え過ぎて。小さな罠のような言葉の険にとらわれて。わたしは、聡ちゃんのくれたサインに気づかないでいたのだろうか。
 
『面白くなくて、苛々していた。ごめん、変に絡んだ』
 
夕べ、彼が投げた意地の欠片のような嫌な態度も言葉もみんな、わたしとの過去を共有する敏生へ向かう、苛立たしさに収斂していくものなのだろうか。
だとしたら、面白い訳がない。あっさりと敏生の横暴を許すわたしの寛容も、「ああいう人なの」と済ましてしまっているわたしの態度も。そして、その日の珍しいわたしの香水の香りも……。
面白い、訳がない。
過去にまで妬いてくれているの?
ねえ、聡ちゃん。
言わなくていいことを言わない術をもった彼女は、ぷんと漂い始めた甘いケーキの香りの中、既にするりと話題を逸らせていた。地元のタウン誌がこの店の取材に来た折、叔母が年齢より若く見えることに驚いていたこと。その理由を訊かれたこと。
「なんて答えたの?」
「特別なことは何もって言ったわよ。社交辞令だけど、嬉しいじゃない。ふふふ、若い恋人との愛あるセックスです、なんて言えないでしょう?」
おかしくて笑った。
どこかで、感じる。彼女のくれた言葉が鍵となり、胸の何かが開いたことに。
そんな気持ちが、どこかで、心の中でするのだ。
 
 
敢えて、連絡はしなかった。
仕事の後で、わたしは聡ちゃんの部屋に向かった。事故で狂ってしまっただろう勤務シフトのことはわからない。帰ってくるのかも、病院に泊り込んでそのままなのかも。
もらってある鍵で、ドアを開けた。何日振りだろうか、ちょっとだけ懐かしい。
窓を開け、こもった部屋の空気を入れ替えた。相変わらずダンボールのままの部屋の散らかった服や、脱いだきりのソックス、あちこちの新聞、それらを拾い、片付けた。
寝室の乱れたシーツを剥いで、他のものと一緒に洗っておこうかと思った。手に触れて、何となく屈み、頬を寄せた瞬間、ふっと頭に抱きしめられた宵の風景が浮かぶ。その匂いや、触れ合った肌の熱が瞬時に甦って、香る。
結局、整えただけに済まし、部屋の明かりを消した。そのままわたしは、しばらくシーツの上に身を横たえた。
へこんだ枕に自分の頬を当てた。ほどなくそれを、胸に抱くようにしている。
会えなくてもいいと思った。急に何の約束もなくやって来たのだ。それでもいい。
こうしているだけで、気持ちが満たされていくから。何か、部屋にわたしがいた、その痕跡が残ればいい。帰った聡ちゃんが、それに気づいてくれる。それだけでいい。
わたしは寂しかったのだろう。会えなくて、一人の自分が、寂しかったのだ。
結婚に踏み切る勇気が自分に、はっきりとできたとはいえない。まだどこかで怖い。だから、彼のくれたプロポーズに、曖昧に答えたきり、それ以上の言葉を返さずにきた。聡ちゃんは、わたしの戸惑いを、汲んでくれてきた。くどく重ねることをしなかった。
彼しかいない、そう心に決めながらためらうのは、もう二度と間違えたくはないから。もう傷を負いたくないから。
大丈夫なのだろうか、わたしにできるのだろうか。以前の離婚の理由は、微かにでもわたしにも非がなかったのだろうか……。そんなものらは、どこかに、わたしに小さく影を残している。
だから、自分で拒んで、自分で遠ざけた。
彼への不安ではなく、自分に自信がもてなかったのだ。
「聡ちゃんじゃないと、嫌」
一人の冷えたシーツに身を横たえ、つぶやいてみる。
気持ちも、心も、身体も、彼を覚えてしまっている。
わがままにわたしは、抱えた孤独に今頃気づき、それに揺さぶられている。自分を包む寂しさに、今更、呆然としている。
 
寒さに気づいたのが最初だろうか。いつしか眠ってしまっていた自分に、はっとなる。その後で、物音が聞こえた。
何か声も聞こえた。今、何時だろう。わたしは身を起こし、薄着の身体を自分で抱いた。触れた頬が冷えている。寒かったのだろう。そういえば、ベランダの窓を開け放しにしたままだった。
足音は真っ直ぐにこちらにやってきた。「薫子?」
そう聞こえる。彼だ。
寝室に入ってきた聡ちゃんは、ジーンズに、上は不思議な服を合わせていた。おかしな趣味だと思った。青い色が濃過ぎて、変な服だと思った。こっそり捨ててやろうと思った。
彼が、ぼんやりとベッドに横座りしたままのわたしの側に来て、隣りに掛けた。そのとき、着ているのが病院のユニフォームだと気づいた。点々としみがついている。面倒で、そのままで帰ってきたのかもしれない。
「どうしたの? メールでもくれればよかったのに」
何時かと訊くと、彼は腕時計で時間を見てから、もう午前二時に近いと言った。わたしは随分長く、ここでまどろんでいたことになる。
「冷たいな。ずっとここで寝ていたの?」
頬に触れた彼が、髪をかきやりながら、そのまま額に手のひらを滑らせた。
「会いたかったの」
「僕が来なかったら、どうしたの?」
問う彼の声は、優しい。額からまた指が頬に流れた。耳元の髪を指で絡めながら、抱き寄せた。暖かさに、ほっとなる。それから、嬉しさに気持ちが緩む。
「ごめん、消毒臭いと思う。でも、そんなに、汚れてないから」
「え」
つんとした薬品のにおいに混じり、彼の髪の匂いがした。肌の匂いがする。
彼のブルーのユニフォームのちょうど胸ポケットに、わたしの頬が当たる。
髪に彼の当てる唇の感触がある。それが額に降りて、少し上向かせたわたしのまぶたに移った。
唇を重ねた後で、聡ちゃんが、
「何か、今日も、つけてる?」
わたしはそれに、頷いて答えた。聡ちゃんはちょっと笑った。嬉しいのかもしれない。おかしいのかもしれない。
気紛れに香りを纏うだけだと、知っていてほしかった。ほんの些細な気持ちの変化で、香りを変えるだけ。わたしのそれに確たる理由などない。
ベランダの窓を閉めた後で、そのまま床に崩れるように抱きしめ合う。互いの髪に触れ、首筋に指を這わせ、背中に腕を回す。
彼がそのとき、ささやくように言った。マンションの更新月だと言う。場違いなささやきに、わたしは思わず吹き出してしまう。
眠くて、寝ぼけているのだろうか。瞳を見ると、大きめの彼の澄んだ目は、少し赤い。それがぱちりと瞬き、こちらを見つめ返す。
そう眠いのではないらしい。
「薫子、僕と一緒に住まない?」
「え」
「結婚は焦らないよ。ただ…、一緒に君と暮らしたい」
わたしの返事さえもらえれば、今のマンションの契約更新をしないでおこうと思うという。
「マンションでも家でも、買おうかなと考えていたんだ。ほら今なら、まだ金利も安いって、早い方がいいって同僚も勧めるし。公定歩合、まだまだ上がるらしいって。薫子はどう思う?」
わたしは驚きに言葉を返せないまま、彼の言葉を聞いていた。胸に頬を預け、そのまま聞いていた。
突然振ってきた、抱き合う最中に似つかわしくない言葉たち。金利、契約更新、公定歩合……。
「ねえ」
言葉を返さないわたしの顔を、聡ちゃんがのぞき込んだ。急な話の展開に、機嫌を悪くしたとでも思っているのか、「ねえ」とやや焦れた声が問う。
違うの。思いがけなくて、驚いているの。
そして、わたしとのことを考えていてくれたことが嬉しくて……。
それだけなの。
そんな気持ちから、彼を見るわたしの瞳から、言葉の代わりに熱い涙が込み上げるのだ。それは嵩を増し、それでもあふれず、わたしの視界をただにじませる。
「薫子には悪いけど、こんな日が続くかもしれない。一緒に住んでも、寂しい思いをさせるかもしれない。でも……」
彼の額が、こつんとわたしの額に当る。互いの鼻先が触れ、ちょっと笑う。
それに、はらりと瞳の涙が頬を伝った。
「変に考えたり、いろいろ不安だったり……、離れているの、もう、限界じゃないかな、僕たち」
わたしはやや顔をずらし、指で涙を拭った。「わたしは聡ちゃんのこと、勘繰ったりなんて、していないわ」
ようやく返した言葉は、こんな強がりに似た憎まれ口なのだ。自分でも嫌になる。嬉しさに泣いているのに。
ねえ、聡ちゃん、わかっているのでしょう?
わたしは自分の頬を、消毒のにおいのする彼の胸に押し当てた。返事を問うか彼の声に、頷いてから応えた。
一緒にいたい、と。
側に置いてほしい、と。
とんと、彼の顎がわたしのうなじ辺りに触れた。頷くように、相槌のように。
「君しかいない」
「……うん」
彼のくれた言葉の重さは、心が捉えた。それが涙を呼び、胸をひたひたと満ち足りたものでいっぱいにする。
会えない時間、会わない時間。胸を占めた真っ白なブランク。埋められないその空白は、いつしか思いがけない迷いの色に染まっていくのだ。
なら、彼の確かな存在で占めていたい。匂いであったり、気配であったり、わたしとのつながりであったり。
あなたの最も近くの、一番の存在として。
せめて、それで心の空白を埋めたい。それは、わたしの幸せになる。
あなたで埋めたい。




おつき合い下さいまして、誠にありがとうございます。

        

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