ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
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覆い被さる敏生の身体が、視界を遮った。
わたしは逃れようと、それでも抗った。キスくらいなら、不本意ではあるけれど、まだいい。けれど、それ以上は、絶対に嫌。
壁際に立ち、こんな浅ましいようなキスの最中、絨毯の敷かれた廊下に足音がした。口笛のようなものが、短く聞こえた。ちらりと目の端に黒ではない髪の色が入った。先ほどエレベーターで同乗した、外国人カップルかもしれない。
また静かになる。
その静けさに、わたしの携帯が再び鳴った。聡ちゃんかもしれない。敏生が電話に出たりしたから、きっと彼は驚いて、不審に思っているに違いない。
どれほどかコールが続き、それも切れた。
パンプスのヒール部分に、全体重を掛け、彼の靴先を踏みにじった。それでも揺らがなかった彼の腕の力が、突然ふっと和らいだ。
その隙に、わたしはつかまれていた手首を取り返し、すかさずそのまま、すぐそばにある彼の頬を打った。
「いつでも思い通りになると、馬鹿にしないで」
意図せずに、爪が彼の頬を擦った感覚があった。痛みはあるはず。けれども、敏生は頬に手もやらず、
「君はそんな風にしていると、気の強さが出て可愛いよ」
こちらの呆れるようなことを、しゃあしゃあと口にした。「俺の身にも、なってみろよ。こっちには未練たっぷりの別れた妻が、ほんの近くに現われたんだ。手、くらい出してみたくなる」
何を言っているのだろう。
自分がわたしを散々裏切っておいて、離婚にまで気持ちを追い詰めたのは、自分ではないか。
未練があるなど、今更、何を……。
敏生はほんのり小首を傾げ、片手を壁に当て、睨み返すわたしを、おかしな小動物でも見るように眺めているのだ。
わたしはそのまま身を翻した。彼の追う気配のないのを背中で感じ、自分の部屋にカードキーを滑らせて入った。ドアを閉じ、すぐにロックを掛けた。
部屋はオレンジ色の淡い照明が低く灯され、ホテルらしい決まりきった配置調の度類を照らしていた。
レディースプランのそれが売りの、シングルにやや広い部屋にセミダブルサイズのベッドが壁側にある。わたしは縁に腰掛けた。
少し手で顔を覆い、そのままでいた。その後で、バックから電話を取り出し、着信履歴を調べた。聡ちゃんからのそれに、すぐに電話を返す。
幾度かの呼び出し音の後で、彼の声が聞こえた。少し電波が悪い。わたしは何となく、窓辺に立った。カーテンを引き、目の前に広がる星を散らしたような夜景に見入る。
聡ちゃんの声は、少し尖っていた。彼は誠実な人柄で、だからこそか、身近に接する相手にもそれを求める。
多分考えたくもないが、わたしが彼を裏切ったのであれば、許してはもらえないような気がする。
あっさりと、あの優しい瞳を逸らし、そして背を向けてしまいそうな気がする。もう側には置いてくれないだろう。
そんな気がする。
そんなことを心に思いながら、どうしてか切なくなった。このまま、聡ちゃんに会いたくなる。
ようやく気持ちは、落ち着きを取り戻していた。
手短に今の様子を告げた。友人宅で、偶然敏生に会ったこと。強引にホテルまで送られ、今別れて一人で部屋にいること。もう彼とは会わないこと。
心ならず、無理なキスを受けたことは、言わなかった。心のどこかで、わたしは気づいている。自分に隙があったことを。
どうしても彼との接触を拒むのなら、友人たちと別れなければよかった。一人になど、ならなければよかったのだ。
敏生を求める気持ちなど、微塵もない。それなのに、馬鹿みたいに迂闊に……。
「大丈夫よ。もう部屋を出ないから。明日はここまで、友だちに迎えに来てもらうつもり」
『何なの? 彼。離婚した彼が、一体薫子に、今更何を求めているの?』
意味がわからない、と聡ちゃんは言う。元妻の電話に勝手に出るなど、敏生の行為は優しさを超えている。
聡ちゃんにはきっと、理解が至らない。たとえば、妻とのセックスのために、他の女を必要とする男のことなんて、わかるはずがない。
『他の女とした後で、薫子とすると新鮮だろう?』。
かつて、浮気を問い詰めたわたしに、ごく些細なことを問うように、彼はそう訊いた。あの忌まわしい声が、耳には忘れ難く残っている。
『気になって、しょうがない』
「…ごめんなさい」
指でカーテンのレースをいじりながら、聡ちゃんとの会話を少し続けた。帰ったら、連絡することを約束し、電話を終えた。
それから、美保に電話をし、敏生とは何でもなく別れたことを告げ、明日の予定をちょっとだけ交わした。
それらが済むと、ひどく疲れを感じた。昨夜の睡眠不足が、今頃祟ってきた。わたしは服を落とし、下着だけになり、そのままバスルームに向かった。
シャワーを浴びる際、ショーツに毎月の生理の徴を見つけ、ため息が出た。一応用意はしてきた。痛み止めの鎮痛剤もある。
熱い湯を浴び、バスローブを纏う。肌を調え、汚してしまったショーツを洗面台で洗った。
軽いそれは、湯であってもそれだけで、簡単に流れた。バスルームのフックに掛ける。
どうしてだろう、ため息がまた一つ。クリームベージュのレースのショーツが、指を離した途端、左右に揺れる。朝までに乾いてくれるといい。
先月、見当をつけた排卵日から日もあり、少しの酔いも手伝って、避妊をせずに聡ちゃんと身体を合わせた。おそらく、多分妊娠することはないと思っていた。
結婚前に妊娠することを厭い、ほぼ必ず避妊を求めるのに、どうしてか、今生理が訪れたことに、物足りなさを感じている。
この微かな、落胆のような、気持ちの空疎は何だろう。妊娠したかった訳でもないのに。
何だろう。
悲しみにも似た感情が、胸に膜を張りこびりついている。何が足りないというのだろう。何が欠けていると。
一人きりのホテルの夜の、女心の不可解なセンチメンタル? 生理中の、心の不安定?
シャワーの火照りで、眠気は覚めた。ミニバーから缶ビールを出し、缶を空けた。そのままベッドに上がり、壁に背を預けて、緩く膝を抱いた。
自分の手の感覚に、ふと敏生の腕の強さが甦った。キスから逃れるほんの前、彼は敢えて腕の力を緩めた。逃がしてやるとばかりに、力を抜いた。
案外、あれ以上の無理なことをする気など、なかったのかもしれない。
「未練」なのかもしれない。けれども敏生のわたしへの気持ちは、愛情ではなく執着だ。うっかり失った所有物が、二度と手に入らないと知り、おかしな欲情で、惜しくなったのだろう。
ビールの缶が半分になった頃、携帯にメールの知らせが入った。手に取ると、それは聡ちゃんからで、
 
『会いたい』
 
いつものように、文面は短い。咳、発熱、嘔吐……、そんなまるでカルテに記入する患者の症状のように、彼のメールはごく簡素で、わかりやすい。
迷いもせず、それはするりとまっすぐに心に届くもの。
『気になって、しょうがない』と、彼の電話の声が、まだ耳に残っている。
ねえ、いつ会えるの? 
次に抱き合えるのは、いつ?
ねえ……?
触れる指や、交わす視線の代わりに、互いの気持ちばかりが絡み合う。
会う約束はない。
それだけが、ほしいのに。
気持ちだけでは、もう心は満たされない。
 
 
翌朝、身支度を済ませた。荷物を詰め終わり、ホテルの朝食を一緒に摂る美保を待つ間、ドアの下に挿し込まれたものに気づいた。新聞は要らないと言ってあった。
側に行き、しゃがんでそれをつまむ。小さな白い紙片で、ホテルの常備のメモ用紙だ。
見覚えのある筆跡で、
 
『大阪観光楽しんで。
夕べは、ご馳走様』
 
紛れもなく、敏生だ。一瞥だけでわかる。『夕べは…』からの件は、あのキスのことを指すのだろう。
「あの人……」
わたしはそれを、丸めてくずかごに入れた。呆れもするし、こんなメモを寄越すことに、からかわれている不快さもある。
けれども、ああいう人なのだと、どこかであきらめのような、不思議な諦観あり、唇にふっと浮かんでしまうおかしさもあるのだ。怒りはもう、どこにも感じない。
「おかしな人、敏生って」
彼一流の、ふてぶてしさにも似た磊落さは、わたしのよく知る部分だ。結婚時代は、それを頼もしくも思い、またはときにふくれもした。
それも、遠い話だ。
こんな風な気持ちのしまい方ができるのも、環境が変わり、時間を置いたためと、それと、確かに夫婦であった期間の淡いほどの絆が、形を変え、わたしのどこかにひっそりと眠っているからかもしれない。
それが、彼を許させるのだろうか。
ほどなく約束の時間になり、美保が現われた。二人で階下へ向かう中、わたしの頭には、もうさっきの馬鹿げたメモも、敏生の影も、もうなかった。
 
朝食の後で、ゆかりと理奈と落ち合う。
そのまま電車で京都へ向かった。初夏の陽気の中、白川を歩き、南禅寺近くの町家風のレストランでランチを食べた。そして、ふと思いつき、三条大橋を渡る途中、バックに入れたままの鍵を、鴨川にぽとりと落としてきた。
夕食までをつき合ってもらい、京都駅で新幹線に乗るわたしは、彼女たちと別れた。
走る車内で、読みかけの本を開き、または目を閉じる。往きとは異なり、疲れもあるのか、容易に眠りに入った。
降りる駅の一つ前までを眠って過ごし、わたしの短い旅行は終わった。
荷物を手に、改札を抜けたところで、思いがけない姿を見つけ、唖然となる。
帰りの時間は伝えてあった。けれども、会う予定ではなかったし、勤務であると思っていたし、多分眠る前に、電話で声を聞くだけで終わると思っていた。
駆け寄ると、聡ちゃんはぱちりと瞳を瞬き、わたしの手のバックを持ってくれた。
「どうしたの?」
シャツの胸から車のキーを取り出し、「迎えに来たんだよ。勤務代わってもらって」
「どうして? そんなことこれまで…」
それには、ちらりとこちらを見返しただけ。言葉をくれない。夕べの電話の件のせいだろうか。不安に思ったのだろうか。
『会いたい』とくれた、あっけない夜更けのメールの文字が、頭に浮かぶ。
それで急に、迎えに来てくれる。
彼の露わな嫉妬の気配に、申し訳ないけれど嬉しさが込み上げるのだ。心配してくれたのだろう。何事もなかったか、確かめたかったのだろう。
ある訳ないのに。おかしな聡ちゃん。
駅の駐車場に停めた彼の車に乗ると、助手席のわたしを、すぐに彼の腕が引き寄せた。
「ねえ、聡ちゃん…、心配した?」
抱きしめられる腕の中で、甘えのにじむ声が問う。答えはもうもらっている。なのに、言葉でほしいのだ。
「ねえ…」
「…うん、妬いてた」
互いに触れる腕。背に回った手は、シャツを指が辿る。物足りなさを埋めるそんな行為は、すぐにキスに流れ、まるでそれが望む言葉の代わりのように、重ね合う。
会いたくて、触れたくて。
焦がれていたの。ずっと、きっと。
滑り、髪に絡む彼の指。
「…君は僕の…」
「うん…」
わたしは聡ちゃんのもの。あなただけのもの。



        

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