恋の花
後編






列車を乗り継ぎ行った温泉は良かった。
料理は知れていたが、部屋もきれいで露天風呂も文句がなく、始終瞳はにこにこと機嫌がよかった。
二人きりの時間、孝平は放埓に若い彼女を求めた。温かな瞳の肌はしっとりと潤んで、白い肢体と目の下のほくろは、抱いてくれと、まるで彼を誘うように見えた……。
会議の最中も、机で書類をのぞいていても、つい先日の温泉行きが、頭を過ぎる。
(また連れて行ってやりたい)
千賀子には取引先の接待ゴルフが、伊豆の方であると偽っておいた。次回もそれで通るだろう。
もやもやとそんなことを、勤勉な顔で考えている。その彼のデスク前に、すっと制服の瞳が立った。
二人の関係は、無論社内では秘密にしてある。誰にも気さくで朗らかな瞳は、孝平に対するのと、他の男性社員に対するのとで、態度など変わらない。けれどもやや、自分を見る目に甘いものを感じるのは、彼の自惚れだろうか。
「栗原係長、どうぞ」
彼女はコーヒーを置いたついでに、忍ばせた小さなメモを、すっとそばの書類に紛らせた。それを孝平は認め、「ありがとう」と応えながら、メモには何が書かれているのだろうかと、それが気にかかる。
ほどなくそれを開き、『ごめんなさい。派遣延長の件は、お断りします』との文章に、ため息をつく。彼の位置からは背中しか見えない彼女に視線を流した。
「たくさんの企業で、面倒なことに縛られずに仕事をしたい」というのが、瞳の意見だ。だからか、人事からも評判のいい彼女が、引き続き社での契約を勧められているにもかかわらず、その延長を拒んだ。孝平も幾度か説得したが、瞳の気持ちは変わらなかった。
しばらく休み、また派遣会社の紹介で違う会社へ渡るという。
それが孝平には、はらはらもし、面白くもない。また別の派遣先の会社で、頃合の中年男を見つけるのではないか。もしや自分に飽きたのではないか。
落ち着かない物思いが頭を支配し、ろくに仕事が手につかない。契約上、彼女は今週末で、社を去ることになっている。
ぶっすりとした彼の視線に、さすがに気づくのか、瞳は昼休み、弁当を広げた彼のそばに来た。お茶を振舞う素振りで、ささやくように言った。
「今夜、うちに来ませんか? 狭くてきれいじゃないけど」
「いいのか?」
「うん、ホテルばっかり、飽きたもん…」
これまで、彼は一人暮らしをする彼女の部屋へは入ったことがない。会うのはいつも、社から数駅離れたラブホテルばかりだった。
「でも本当、狭いよ」
「じゃあ、何か食ってから行こう。瞳の好きなもの、何でも奢ってやるよ」
小声で返しながら、嬉しさで、孝平の胸は跳ねそうになっている。いつか入りたいと思っていた彼女の部屋。それが、ほんの数時間後に叶うのだ。
仕事が終わると、残業もせず、孝平は社を出た。これまでのデートと同じく、社から離れたコーヒーショップで落ち合う。
苦いばかりのコーヒーを飲んでから、瞳が食べたいと言う天ぷらを食べてから彼女の部屋に向かった。
それは二階建ての小ぎれいなコーポだった。何となく想像していた彼女のイメージと合う。
部屋は2DKで、それなりに片付いている。「飲むでしょう?」と、孝平の好きな銘柄のビールを用意してあるところから、瞳も彼を呼ぶつもりで、準備がしてあったらしい。
それも彼を喜ばせた。
パイプのシングルベッドの上で抱き合った。一度果てた後では、このまま彼女と朝を迎えたくなった。それは自宅に比べ部屋も狭く、女の子の一人暮らしらしい、ままごとのような可愛らしさだ。
けれども、どうしてか孝平にはそれがひどく好ましくかった。これまで知らずにいた彼女の秘めた内面に、ようやく入れたかのような、そんな思いがしていたのだ。
そして自分が、随分彼女との関係に深く浸ってしまっていることに気づく。ひやりとした後悔はあるものの、そばで息づくこの可愛らしい瞳を離せるものかとも、思う。
瞳は軽い孝平の屈託を認めるのか、目の下の小さなほくろを掻きながら、「いいよ、帰っても。気にしないから」
「いや…、今日は泊めてくれよ」
「いいの? 係長、奥さん気にしない? ねえ、外泊したりなんかして…」
彼女の声は、若干おろおろしてしまっている。不倫でも平気と、強がってはいるが、その実、深く踏み込むことが怖いのだろう。部屋に入れることや、彼を泊まらせてしまうことなど。
彼女なりの線引きを、既に幾らか超えてしまっているのかもしれない。
「嬉しいけど…」
孝平は瞳の声を、抱きすくめることで抑えた。
その後、瞳がシャワーを浴びにバスルームに入った際、自宅に連絡を入れておいた。嫁と折り合いの悪い実家の母に泣きつかれて、今夜は泊まるということを。
『そう…。お姑さんによろしく。お義姉さん、どうしてあんなに一言がきついのかしら? わたしも苦手なのよ、ちょっと。またケーキでも持って伺うって、お姑さんに伝えてね』
「ああ、すまん」
ぷちりと電話を切り、空いたベッドに仰向けになる。耳にシャワーの水音が入ってくる。
鼻腔を、先ほどまでの情事の名残りと、瞳の匂いがくすぐる。ここにいたい、と思った。何の偽りもなく、願った。
翌日、スーツなどはともかく、コンビニに下着の替えを買いに、早めに起きようとした。身を起こした彼に、寝ぼけた様子の瞳が、クローゼットを指した。
「安物で、気に入らんかもしれんけど、買っておいたの。今日一日くらい、あれで我慢して……。着てたのは、洗っておいたから…」
見ると、シャツの新しいものと下着が一揃えある。振り返ると瞳は、眠いのか恥ずかしいのか、布団を頭まで被り、隠してしまっている。
そんな彼女を、堪らなく可愛いと思った。
 
 
瞳との日々は続いた。
派遣契約通りに彼女が社を辞めた後は、関係が消滅してしまうことを孝平は恐れていたが、束の間のラブホテルでの密会の代わりに、人目を気にせず、遠慮なく彼女の部屋に通えることになり、かえって深まったような感がある。
彼女の2DKのアパートには、彼の着替えが増え、そして歯ブラシや髭剃りなどもそろった。
木曜の夜更け、彼女を抱いた後で、孝平はぽろりと、千賀子に請われて、彼女の作品を出展したコンペティションに出かけた話をした。瞳が、妻が不倫を勘付いていないかと問うので、その返事代わりだ。
先週の日曜、地域の文化会館で催されたハワイアンキルトの展示会は、関わる女性以外にも、彼のような夫が参観者になり、割りに盛況といえた。
その会場で孝平は、妻が「中西先生」と呼ぶ中年の男と言葉を交わすのを見た。恰幅がいいといえば褒め言葉だが、腹の出た五十がらみの男だ。文筆業を生業としているらしく、幾つか出版物もあるという。妻たちと知り合ったのは、彼の創作上の取材で、彼女らの通うカルチャースクールを訪れたことがきっかけらしい。
その際、強引にこの会のチケットを売りつけられたとか。
如才のない男で、妻だけでなく他の夫人連にもそつなく挨拶をしていた。無論孝平にも。
「ふうん」
瞳は気のない様子で、そう相槌を打った。彼が何を言いたいのか、意図がわからないのかもしれない。その彼女の様子を、煙を吐きながら眺め、孝平は言葉を続けた。
後日、その中西先生と妻が、駅の前で会っているのを見つけた。ちょうど帰宅時で、ロータリーの手前で二人は挨拶を交わしていた。人目のある中、丁寧な挨拶を繰り返す彼らに、嫌らしさなどはない。会ったのは、何かの偶然だろう。
中西先生と別れた妻が家へ向かう背に、ほどなく孝平は追いついた。最前の光景を問おうとしたが、止めた。大したことではないし、疑いもわかなかった。
それだけのことだ。
「ふうん」
瞳のやはり気のない相槌に、孝平は彼女の身体を抱き寄せながら、
「趣味や仲間で、俺がいなくてもそれなりに充実しているって、言いたかったんだ。『亭主元気で留守がいい』って、言うだろう?」
「古い、それ。あははは、なら、いい。安心した」
彼がくすぐると、軽く身をしならせ逃げる彼女を力で組み敷き、その後でもう一度ゆっくりと抱いた。喘ぎと吐息の中、瞳はつぶやいた。
「わたし、孝平さんの家庭を壊す気は、ないの。…わかって」
 
 
深まりながらも進む瞳との関係が、あるとき色を変えたのは、彼女の一言だった。
仕事帰りにアパートへ顔を出し、料理の得意でない彼女がせびるので、近くのファミレスへ出かけた。
その食事の途中、さらりと彼女は切り出した。皿のハンバーグの添え物をフォークで刺しながら、郷里へ帰ろうと思うという。
「どうして?」
「うん…、まあね」
はっきりしない彼女を問い詰め、その口から聞き出したのは、驚くべきことだった。妊娠がわかり、数日前堕胎の処置を済ませてきたという。
にわかに信じがたい内容に、唖然とも言葉に詰まった。千賀子との幾度かの受診で、医者からは精子数に問題があると聞かされていた。
それがあり、瞳との行為では避妊をせずに交わることがほとんどだった。彼女にも伝えてはある。
「でも、ゼロじゃないやもん」
確かにそうだ。瞳は若く健康だ。そんな自分の精が、彼女の中では結びついたのだろう。
低いが可能性があったにもかかわらず、怠惰と慢心で彼女を傷つけることになった。「すまん、瞳」と詫びる彼に、瞳はにこりと笑って首を振った。
「こっちこそ、勝手なことして、ごめん。でも、孝平さん困るやろうと思って……。隣の部屋の男の子にお金あげて頼んだの、父親に名前貸してって」
痛くもなかった。大丈夫だった。すぐに済んだ。
瞳は旺盛な食欲を見せ、この突然の悲劇を紛らそうとしている。おどけた様子で、すっかり箸の止まった孝平の皿に手を伸ばした。
心ならずも堕胎してしまった子の供養もあり、一旦実家に身を寄せたいのだと言った。
「派遣も面白いけど、ちょっと疲れたし……」
今通う彼女の仕事の愚痴は、たまに耳にすることがあった。
またこっちへは、戻ってくるかもしれないと言う。けれど、それはいつのことかわからないとも。
「小っちゃいけど、実家畑があるの。豆とか、なすとかの。それ少し手伝って、何か仕事探そうと思うの。バイトでもいいから」
あっけらかんとした瞳の声は明るい。もう既に心を決めてしまっている覚悟が、そうさせるのだろう。
彼女を妊娠させ、堕胎させた。こつこつと貯めた金で、それは支払われた。彼の知らぬ間に行われ、その安くはない費用すら求めないのだ。
(俺に負担がかかるから。俺には妻があるから……)
何もできない自分には、瞳の将来に何も言う権利を持たない。不甲斐なさと絶望感に、孝平は目の前が暗くなる思いがした。
それでも、せめてものあがきのような気持ちで、訊ねた。
「俺との関係は、どうする?」
彼女はそれにちょっと目を伏せ、ほくろを掻いた。それは瞳の癖で、何か心に引っ掛かりのあるときに見せるものだった。
「…しょうがないもんね」
ぽつりとこぼした声が、切なく響いた。
「しばらく、会わない方が、いいね」
 
 
あきらめようとして、忘れようとする。
そうすればするほど、瞳の面影が浮かんでいく。一週間足らず会わずにいることが、これほど堪えるとは思わなかった。
何をしていても彼女の存在が、孝平の頭を去らない。敢えて思いをしまおうとする行いが、強めるように。
夜更けに堪らなく瞳の身体がほしくなった。あの熱い、するりと彼に開いてみせる身体がほしい。
年甲斐のないぎらぎらとした若い女への執着を、愚かだと思う。馬鹿げていると思う。遊びで始めたくせにと、自分らしくないと思う。
(もう、会えないのか?)
そばで眠りについている千賀子を引き寄せた。「…何?」と、寝ぼけた声で反応する彼女のパジャマをそのまま剥いだ。
「どうしたの? 急に」
匂いの違う女の肌で、やり切れない思いを鎮めるのだ。
よく知る千賀子の肌は滑らかで、艶を失っていない。小ぶりな乳房もいい。好きな身体だと思う。
けれども、違うのだ。
千賀子は瞳ではない。瞳ではない。
(俺は、瞳がほしい)
 
 
心に整理をつけ、覚悟も持った。
実家の母に事の次第を告げたときは、泣きつかれて参った。「あんないいお嫁さんを…、あなたって子は」
何とか戻れないのかと強く諌められもしたが、そんな努力はもうし尽したのだ。彼にもどうにもならない。
千賀子は涙を見せたが、瞳との関係を告白すると、それであきらめもし、頷いてくれた。瞳を堕胎させてしまった件に触れると、千賀子の肩がびくっと一瞬震えた。
「わたしは、子供が産めないから…」
「そんなんじゃない。俺にだってそれは責任がある。ただ、もう…、お前とは」
「若い女の子がいいのね?」
「馬鹿にしてくれていい」
「あなた、騙されているのよ」
それきり千賀子は口を利いてくれない。当たり前だろう。十年以上連れ添い、子供のできない苦しみも、様々なことも分かち合ってきたと思った夫が、あろうことか若い女に入れあげ、人生を吸い尽くされようとしているのだ。しかも、妻を捨ててまで。
姿を消した千賀子に代わり、彼女の親が現れた。彼女に今の家と、十分な慰謝料を払うことで離婚のごたごたは済んだ。孝平に金などない。母に頭を下げ、一千万を都合してもらった。
この間の事情は、瞳にはうるさいだろうことを端折り、伝えてある。「しばらく、お前の所に厄介になってもいいか?」
それに瞳は満面の笑顔で答えた。
「待ってる。孝平さんが来るの。ねえ、ベッドはもうちょっと大きいの、買おう? 安くていいから。それに、ご飯を食べるテーブルもほしい。安いやつ、今度一緒に買いに行こう?」
「うん、そうしよう」
彼の離婚で、郷里に帰る話は棚上げにしてくれた。亡くしてしまった二人の子供は、これから二人で供養してやればいい。いくらだって時間はあるのだ。
「ありがとう、わたしのために」
どこか思いつめた瞳の声は、鳴き声に流れていく。屈託のない明るい笑顔。彼にすべてを投げ出してくれる身体。
そのために家庭を壊した。妻を泣かせ、老母を泣かせた。千賀子の父には「馬鹿者」と頭ごなしに罵られた。落伍者だと侮蔑された。
(俺はもう、空っぽだ)
けれども、瞳がいる。失ったものは、惜しくなどない。
 
 
孝平は仕事の帰りに、いつもの駅ではなく別の駅で降りた。
駅前の商店街にある瞳の贔屓のケーキ屋で、シュークリームを幾つか買った。それに目を輝かせる彼女の顔が浮かぶ。
彼が離婚の話を進めていた頃から、彼女は料理をし始めた。「いつも外食じゃ、孝平さんに悪いから」と、ぐちゃぐちゃの崩れたオムライスを食べさせられたときは閉口したが、そのうち慣れてくれるだろうと思う。
気持ちがあればいい。
薄暮時、商店街から流れてくる揚げ物や惣菜の匂い。これまでの帰り道には嗅ぐことのなかった匂いだ。
それも新鮮で悪くない。香ばしい匂いに、腹の虫がぐうと泣いた。
(今日が新しいスタートだ)
千賀子が実家から帰ってこないため、二人で住んだ家に荷物はそのままにしてあるが、折りを見て早いうちに処分するものや、瞳のアパートへ移すものを選り分けなくてはいけないだろう。
瞳には手伝わせられないから、自分でやろうと決めている。次の土曜辺りに行ってみようと、おぼろに計画を立てた。
 
孝平と擦れ違った女がいた。
膝丈の二の腕が露わなアイボリーのワンピースを着ている。栗色に染まった髪は艶よく結い上げられている。
きりりと整った眉。その下の双眸は無表情に前を見ている。腕には小ぶりなバックのみ。それでいいのだ。カードとパスポート、幾らかの金があれば後は何とでもなる。
先ほど出てきた二階建てのコーポにある荷物なども、そのうちいい頃合を見て、組織が処分してくれる。
瞳はもう二度と見ることはない。
駅の前まで歩き、タクシーに乗った。行き先を告げ、バックから携帯電話を取り出す。登録した番号を押した。
ほどなく相手の声に、
「瞳です。ご依頼の件は終了いたしました」
乾いた声で告げると、電話の向うの女が、『ご苦労さま。お支払いは…』
「いえ、お支払いの窓口は別で。わたしはご依頼の完了をお知らせするのみですから。そういう取り決めになっております」
『そうなの。渡辺さんに聞いていたけれど、さすがね。向うから自発的に別れを切り出させるなんて。噂通りで、正直驚いているわ』
「ありがとうございます。ご紹介いただいた渡辺様にも、よろしくお伝え下さいませ。それでは…」
瞳はそれだけを言い、千賀子との通話を終えた。
千賀子は夫の孝平との有利な別れを意図し、そうしながらも、彼に温情を与えている。男の影をちらつかせ、孝平の反応を見たのだ。しかも、二度までも。偶然などではない。確認も取ってある。
それで、孝平が彼女に嫉妬を見せたのならば、千賀子は依頼を取り消すつもりだったのだろうか。それとも、大きな決断への単なるためらいか。
(よくあることだけれど…、未練かしら?)
ともあれ、ここ数ヶ月の疲れも、客の満足の言葉に和んでいく。騙されていることに一生気づかせない。それは瞳のポリシーであり、組織の意思でもある。

鮮やかに瞳のターゲットの恋の花は咲き、それはほどよい頃ににほろりと花びらを散らしてしまう。

瞳のこの見事な手管を、『うたかたの花』と呼ぶ同僚もいた。
しかしこういった仕事は少々飽きた。
組織には口にしないが、別の種の仕事がしたい。去年のシンガポールのあの任務は楽しかった。腕がなる思いだった。
とはいえ、今回の件で、彼女の香港の口座にはたっぷりとギャランティーが振り込まれる。
コンパクトを取り出し、鏡を見ながら目元のほくろを剥がす。備え付けの灰皿に捨てた。







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