恋の花
前編
 
 
 
栗原孝平は女から身を離し、うつ伏せになった。ベッドヘッドに置いた煙草に手を伸ばす。
火を点け、最初の煙を吐く頃、隣りの女は仰向けになり、ほうっと吐息をついた。オレンジ色の淡い照明の中、女の裸体はみずみずしく横たわっている。
孝平はそれを横目で眺め、するりと乳房に手を伸ばした。ぷりんとした柔らかい肌が、彼の手のひらで弾んだ。
「もう、おしまい。今夜はもう帰らないと。十時よ」
瞳はそう言うと、あっさりと彼の手を外し、立ち上がった。背を向け、そのままガラス張りのバスルームに向かう。
水音がし出しても、孝平はベッドにうつ伏せたままだ。たっぷりと時間を取り、ようやく衣服を着ける。できれば女を抱いた後の汗を流したいが、シャワーなどを浴びれば、何かその跡が残るだろう。そんな匂いを嗅ぎ分けるのに、妻というものは非常に敏い。
だから彼は、いつも情事の後では、シャワーも浴びずに帰宅することにしている。
少々しわの寄ったシャツにネクタイを結びつけるとき、バスルームから瞳が、タオルを身体に巻きつけて出てきた。
にゅっと出た露わな白い肌。伸びた手足。ぬれ髪が肩にまつわりつき、身体を合わせた後の素肌の彼女を、何となく扇情的に見せる。
目が合うと、瞳は顔をほころばせた。目の下の点と散ったほくろが、可愛らしい。取りたて美人という訳ではない。けれども顔のちんまりと整った造作は愛らしく、何より、滑らかな肌を持った感じやすい身体がいい。
孝平はいつものように、部屋のローテーブルに三千円を置いた。彼女のタクシー代だ。
「ありがと」
瞳はそれを目で追い、またバスルームに消えた。身づくろいをするのだろう。
この関係を持って、ほぼ三ヶ月になるが、瞳はそれ以上のねだりごとを彼に示したことはない。『セックスした後って、電車乗ったりするの、何か疲れるの。だから、タクシー代だけもらうわ。だって、わたしだって楽しんでいるんだもの、それでいいの』。瞳の弁だ。
それはごく普通のサラリーマンである孝平にとって、ありがたい申し出である。しかし、最近その彼女の淡白な態度に、物足りなさを感じ始めていた。
「係長、そろそろ時間じゃない?」
「ああ。…おい、その『係長』って呼ぶの、二人のときは止めてくれよ」
「はあい。だって係長じゃない」
スリップを身に着け、顔にホテルに備え付けの化粧品を塗りつけている彼女に、彼は声を掛けた。
今度、旅行にでも行かないかと誘った。遠出は無理だが、一泊くらいの都合はつく。
「なあ、温泉にでも行かないか?」
「え、それ本当?」
ぱっと喜色を浮かべた瞳を、可愛いと思った。こんなことぐらいで喜ぶのなら、なぜもっと早く言ってやらなかったのかと、悔いたくもなる。
「行きたいところ、考えておいてくれよ」
「でも、迷惑じゃ…、お金だってかかるし」
喜びを隠せないのに、それを無理に押しやろうとしている彼女の顔を、孝平は楽しく眺めながら、金の心配は要らないと言ってやる。
彼の実家は町医院を営んでおり、継いだのは兄だが、帰れば七十歳近い母が、いまだに彼に小遣いと、万札を幾枚も握らせてくれる。
(また近いうち、顔を出せばいい)
「とにかく、考えておいてくれよ」
名残惜しいが、そろそろタイムリミットだ。はにかんで彼を見送る瞳を部屋に残し、孝平は瞳との時間に使ったラブホテルを出た。
(温泉か、いいな)
湯で火照った浴衣姿の瞳は、さぞ抱き甲斐があるだろう。自分が浴衣を脱がすだろう、桜色をした弾む肌が、頭にちらついた。
 
孝平が瞳と出会ったのは、彼が勤める会社でのことだ。彼女は期間の決まった派遣社員として、彼の前に現われた。
顧客データの入力や、経理の補助、そういったことの他、買い物の使い走りなど雑用もし、文句も言わず愛嬌があるので、部内でも可愛がられていた。
係長である期間限定の上司の孝平と、瞳が男女の関係に至ったのは、花見の会がきっかけだろう。
もともと女子社員が少ない中に、若く気の利く瞳だ。宴席では随分と飲まされていた。解散時には、足が覚束ないほど酔っていた。
それを帰りの方向が近く、介抱したのが、始まりだった。
週に一度の関係は、始まると、破綻なく続いた。そのキーになったのは、瞳の割り切り方にあっただろう。
四十に手が届きつつある自分に、二十六歳の小ぎれいな彼女が、何の見返りもなく身体の関係を持つ。何の弾みだろうかと訝った。訝りはしたが、抱ければ文句はない。
一昔前のある俳優に似た孝平の顔は、若い頃から割りともてた。所帯じみた匂いがないのもいいのか、浮気の相手にもそう不自由してこなかった。
ほどほどに男を知った後で、中年の自分のような相手は、瞳にとって新鮮なのだろうかとも、思う。
『若い男は嫌なの。がっついて、自分ばっかり楽しんで、女の可愛がり方を知らないのが多いでしょう。係長はハンサムだし、優しいし、セックスが上手やって思ったの』
彼につき合う理由を訊くと、彼女はそう答えた。『気持ちよく抱いてくれるだけでいいの。何も要らん』。
ほろりと何かの拍子にか、瞳の言葉に故郷のニュアンスが混ざる。それすらも可愛く、今の彼には耳に心地いい。
単なる浮気、遊び、これまでの経験と何の違いもなかったはずだった。そのうち派遣の期間が切れれば、瞳は去っていく。関係も自然、消滅するだろう。それでいい。家庭のある自分には、その方が、都合がいい。
けれども、その孝平の感情に、変化が起こり始めたのだ。彼女と身体を合わせるたび、精だけでなく、まるで自分の心まで吸い取られていくような感覚を味わっている。
別れた後で、もう会いたいと思う。
(馬鹿な、俺は中学生か)
自分の愚かさを認めつつ、離し難い執着を彼女に覚え始めている。それを性愛だと思い込もうとし、それだけでは済まない、彼女への己の気持ちの波立ちに、最近気づいた。ようやく認めた。
(俺は、瞳が好きだ)
 
 
無言で鞄を渡すと、妻の千賀子は無言で受け取る。無言であるが、口許にうっすら笑みを浮かべ、小首を傾げている。
十年以上連れ添った妻の、いまだ変わらないこの優しい出迎え方を、孝平は好きだった。
「風呂入るよ」
「はい」
5LDKの一戸建ての住宅は、子のない二人暮らしには広い。三人ほどほしいと結婚当初から言っていた千賀子の希望で、ゆとりのある間取りを作った。
長い不妊治療の甲斐なく、子供は授かれていない。原因は千賀子にも、孝平にもあった。
あきらめるのは早いだろう。互いにまだ若く、愛情もある。けれども、結果の出ないそれらに、正直倦んで疲れてしまった。いつしか有名クリニックを急いて予約することを止めた彼女は、代わりに趣味を広げ出した。それで友人もできたらしい。教室もやりたいと言う。
何かのスイッチが、彼女の中で切り替わったのかもしれない。
『そのうち、ほろっとできるかもよ』。などと笑っている千賀子を見ると、安心もし、申し訳なくも思い、そして肩の荷が下りたような安堵もある。
風呂上りに入ったリビングには、彼女のハワイアンキルトの材料が散っていた。それらを見ると、家にいる実感がわく。
ビールと簡単なつまみを用意し、彼女はまたテレビを見ながら手の布をいじりだした。
「今度○×文化会館で、キルトのコンペティションがあるのよ。渡辺さんが、わたしの作品も出展しないかって、誘うのよ。あなたのお世話もあるのに、困っちゃうわ…」
まんざらでもない様子でそう語る。
華奢な肩から背中のラインは美しく、崩れていない。地方のお嬢さま短大出の彼女は、その頃キャンパスの準ミスを取ったことがあったという。
柔らかい気性でどこかおっとりした妻と、先ほどまで抱いていた瞳とはなんて違うのだろうと思う。歳ではなく、女として成り立ちが違う気がする。
その二人を、自分は真の意味で知っているのだ。その思いは、彼のささやかな征服感を満たし、悪くないのだ。
「好きにしたらいいよ。俺も見に行くから」
「そう?」
夫がたびたびに浮気を繰り返していることを、千賀子は気づいていないだろう。気づかせていない自信が、彼にはあったし、今後も気づかせたくはない。それは、いろいろ不甲斐ない夫の、せめてもの愛情と思いやりだと思う。
しかし、孝平の中にあるのは、目の前の優しい妻を裏切ったという背徳感ではなく、それは淡い罪悪感でしかない。自分だけが楽しんでしまったという、後ろめたい思いがするだけだ。
「このきんぴら、旨いな。外で食うのより、やっぱりお前のやつが一番旨い」
「そう? 嬉しいわ」
「うん」
浅はかで、けれど真実の媚で、彼女を喜ばす。彼はそれで、外から持ち帰った胸のざらりとした不快な気持ちをやり過ごしてしまう。