普通の街
後編
 
 
 
気づいたのは、最初は夫だった。帰宅時に、道路との境にめぐらせた塀に引っ掻き傷があると告げた。
「大した傷でもないし、子供が遊んでつけたんだろ」
学の言葉に、ふうんと返しながらも、ちょっと気になり、佐和子は夕飯の仕度の手を止め見に行った。
傷は角地に建つ彼女の家のガレージ側の塀だった。尖った棒のようなもので引っ掻いたらしい跡が、三十センチほど伸びていた。
「今度の休みに、錆止めでも塗っておくよ」
ベージュのアルミのそれに、それほど目立つ傷ではない。学の言葉もあり、しょうがないかと、放っておいた。
それから一週間ほども経たない間に、また同じ塀にすっと棒を走らせたような傷がついた。
これには学も不審に思い、すぐに工事の手配をしてくれた。人感センサー装置のついたライトを設置するためだ。子供のあまりいないこの辺りで、二度もつけられた傷が、佐和子にも気味が悪い。
もしや、何かの犯行の合図なのかもしれない。昼間は奥の造成地改良のため、工事車両も入る。少ないが人目もある。ならば傷をつけたのは、おそらく夜であろう。
「夜にわざわざそんなことをしに来る目的は、普通じゃないだろ」
夫の言葉に背筋が寒くなったが、車が通るたびにぱっと輝くほどに灯るライトは頼もしく、そして家族を守るために配慮してくれた夫の思いやりが嬉しかった。
真弓にも気をつけるように注意をした。彼女は「え」と腕を抱き。
「工事してたし、永野さんのとこ何か作るのかなって、前に旦那と話してたんだけど、そんな怖いことだと思わなかった」
自分も気をつけると、彼女は頷いた。
それから数日、佐和子が異変に気づいた。
熱を出した子供を町医院に連れて行った帰り、車を降りたときそれを見つけた。以前二本の傷をつけられた塀の下、その基礎を埋め込んであるレンガを積んだ部分が、大きくえぐられていたのだ。
目立つほどの傷でもあり、気持ちが暗くなった。いたずらというよりは、多分ダンプカーなど大きな車両が、カーブを曲がる際に擦ったと思われる。
見た訳ではない。確証はない。
途端に気持ちが塞ぎ、子供を寝かしつけた後、ちょっとのつもりで真弓の家を訪れた。「お店に入るより安い」と、互いの家を行き来することは、これまでもあった。
真弓に事の次第を話す間、これまでの塀の傷の経緯もあり、気持ちが昂ぶり、佐和子は涙ぐんでしまった。
「そうよね、ひどいよね。大っきなローン組んで、やっと建てた家なのに。ひどいわね」
「ごめんね、馬鹿みたい」
「気にしないで、わたしだって、いっつも愚痴を聞いてもらってるもん」
彼女が差し出してくれたティッシュで涙を拭い、ティーパックのお茶を振舞ってもらって帰った。
 
佐和子の後ろ姿を、真弓はリビングのレースのカーテンを指で隙間を空けのぞく。いつもおっとりのんびりとした彼女が消沈しているのは、その歩き方でもわかる。
三件先の我が家より一回りも大きな、注文住宅の瀟洒な造りの家に彼女が入っていくのを見届けた。
唇が緩んだ。
「ザマアミロ」
佐和子の飲んだカップを下げ、それをキッチンで洗いながら次は何をしてやろうかと、思いをめぐらせた。
始めたきっかけは、近所の坂上家の奥さんに会ったことだった。
目立たないのにゆとりのある生活ぶりが、何となく匂う種の人だ。真弓は使ったこともない高い肉を売る店の買い物袋を手に、「こんにちは、さっき桜井さんの奥さんに会ったのよ」と微笑んだ。聞いてもいないのに、佐和子もその店で、坂上夫人が勧める肉をためらいもなく買ったという。
「え」
「ビーフシチュウにするって、喜んでたわ」
「いいですねえ」
朗らかに応じ返しながら、表情が硬く、笑みが口許から頬で強張った。
(嘘つき)
ばちっと彼女の中で何かが燃えた。
(うちと一緒だって、言ってたくせに)
悔しさは、なかなか止まなかった。自分に合わせ取り繕い、その実いい暮らしを楽しんでいるのだ。ほのかに感じてはいたが、坂上夫人と同じ匂いがやっぱりするのだ。
 
派手なことはいけない。少し時間を置こう。
ちょっとずつ、嫌がらせをするのだ。
(そして、ゆっくり楽しもう)
気に入らない。癪に障る。真弓にとって、佐和子とはそういう女だった。
 
 
真弓に打ち明けたお陰でようやく気持ちは落ち着いたが、子供の熱も下がらず、佐和子は夫の顔を見ると泣き出してしまった。
「ごめんなさい。ご飯してないの。ショックで…」
「大したことじゃないじゃないか。気にするな」
既にレンガの損傷を確認していた学は、あっさりと言い、彼女を慰めた。些細なことで涙を見せる妻が、幼くも可愛くもあるようだ。
「寿司でも取ろう。ちょっと話もあるし…」
「何?」
「食べながらにしよう」
「なあに?」
どこか嬉しげな学はそれに答えず、佐和子に出前の電話をさせ、その間に、風邪を引いた祥吾の様子をのぞいてから、さっさと風呂に入てしまう。
彼の話が聞けたのは、出前の寿司が届き、それを前に風呂上りの彼にビールを注いだときだった。
佐和子たちの住まいが、新幹線の線路工事予定地に入っているのだという。
「ぎりぎりな。うちでぎりぎりらしい。県の上の方からの話だから確かだぞ」
それで夫は機嫌がいいらしい。
立ち退きに応じた場合、多額の謝礼金が土地価格に積まれることは、佐和子も耳にしたことがあった。
「どうするの?」
「退くしかないだろ。この家に愛着はあるけど、せっかくのチャンスだしな」
問うと、永野家の方は工事予定から外れているらしい。
せっかく真弓とは仲良くなれたのに、祥吾の友達もできたのに、と惜しむ気持ちはあるが、夫の意見には賛成したい。
「そのうち内々に話があるよ。だから、塀のレンガなんか気にしなくていい」
直す気は、互いに消えてしまっている。
夫が注いでくれたグラスを少し口に運び、それで頬を赤らめてしまう彼女は、そのちょっと陶然となった頭で考えた。
また、新しい土地でも友達はできるだろう、と。少々けちのついた感のある家は、離れた方が、縁起がいいかもしれない……。
そう思うと、気持ちが盛り上がりを見せた。にぎりを頬張る夫をにこにこと眺めながら、佐和子はつぶやいた。
「嘘みたいな話ね」
(この世はすべて、事もなし……)


好きな言葉が頭に浮かんだ。









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