普通の街
前編
 
 
 
水曜日のゴミ出しの行き帰り、ゴミステーションのそばに立つ『ひまわりタウン〜分譲地販売中〜』という大きな看板が目につく。
その案内にある空いた土地は形がいびつで、売れ残って久しい。
(あんなところ、買う人ってやっぱりいるのかしら? よっぽど値を下げないと駄目よね)
佐和子一家がこの住宅街に越してきて、ちょうど三年がたつ。
引っ越した当初は空き地も見えた分譲地も、どっと買い手がつき、家が建ち賑やかになった。
けれども、この辺りでは高い土地単価のせいか、増えていく住人たちは年配者が多い。子供はいても高校生以上になっている家庭ばかりで、佐和子の、三歳になる息子の遊び相手になってくれるような子供は見当たらなかった。
近くに管理のいい公園があり、街並みは整い、ショッピングセンター、病院、学校が近い。駅からは少々あるが、車を所有する家がほとんどなため、それが大きなマイナスにも感じられない。
あちこちを見て回り、夫婦ともに気に入って購入を決めた土地だ。不満といえなくもないものは、やはり子供の遊び相手がほしかったことだが、それも幼稚園に入れるまでのことであると、それを胸に引っ込めていた。
しかし、近所の友達の多かった自分の幼い頃の思い出と引き比べ、母ばかりを相手に遊ぶ息子を、ちょっと可哀そうに思うこともあった。
「四歳くらいまでは見てくれよ」という夫の意見もあり、それに納得はしていたが、引っ掛かりもあったのだ。
そんな彼女の悩みが、ふっと解消したのは、去年の暮れのことだ。
三件先の空き地を住宅メーカーが買い、そこに建売住宅を建て販売したのだ。そのモダンな造りの家は、すぐに買い手がついた。永野という若い一家が、年越しを待たずに、じき越してきた。
佐和子が家の前のポーチを掃き出した頃、慌ててゴミ袋を手に走っていく永野真弓の姿が見えた。
もうじきゴミ収集車が来てしまうのだ。忘れていたのか、遅れたのかひどく慌てている。
(永野さん間に合ったのかしら?)
ジーンズで駆け出していった彼女を思い、少し笑みが浮かんだ。
ほどなくして、手ぶらの真弓がひょっこり佐和子のそばにやってきた。どうやら間に合ったらしい。
「走った、走った。もう収集車が来てるんだもん。大声で呼んで止まってもらったのよ」
「外でも、ためるの嫌だもんね」
「そう。この天気じゃ腐って臭いがすごいもの」
真弓はまだ喋り足りなそうにしていたが、家に残した子供が気になるらしく、また昼過ぎに公園で落ち合おうと帰っていった。
「後でね」
佐和子も笑顔で応じ、家に入った。
リビングでは、点けっ放しのテレビ画面に息子の祥吾がかじりついている。
「祥ちゃん、お昼食べたら、永野さんとこの佑輔君と公園で遊ぼうね」
それに幼い息子がきゃっと喜んだのを見、佐和子の頬も緩んだ。ここ二日ほど、雨で遊ばせてあげられなかったのだ。
「良かったね」
永野一家が越して来てくれて、本当によかったと思う。近所づきあいも歳の近い彼女と二人ならばこなしやすく、ストレスも減った。同じ歳の子供の遊び相手もできたのもやはり嬉しく、仲良くしている様を見ると、しみじみとありがたい。
そして自分にも、朗らかで気持ちのいい友人ができたのは、得がたい幸運に思う。
そうではあるが、長くこの土地には暮らしていくのだ。変にべたべたせず、下手に干渉し過ぎず、ほどよい距離を置いてつき合っていこうと佐和子は考えていた。
「あんまりしつこくすると、嫌われるぞ」と、夫からもからかい半分でそう注意を受けたことがある。
(そんなこと、わかってるもん)
彼女は掃除の傍ら、子供に声をかけ、または昼食の献立を頭に浮かべていた。
 
 
真弓からその話を聞いたとき、佐和子は頷きたい思いで一杯だった。
子供たちは母らが掛けた公園のベンチのそばで、おもちゃを使い遊んでいる。
先週の町内清掃の話で、その行事には互いに参加した。各家庭一人が参加すればよい慣習になっており、参加できない場合は「協力金」という形で、三千円の罰金のようなものを支払うことになっている。
その際、新井という家からは、九十歳近い足腰の弱ったおばあさんが出てきており、何の掃除もせずに、日向ぼっこをして帰って行くのは、佐和子も目にしていた。
あれだったら、協力金を払って不参加の方が、よほど見えがいいのではないか、と夫にこぼしたこともあった。
「新井さん、あの日、奥さんもいたのよ。洗濯物を干しているの見たもの」
「え、そうなの?」
「なのに、あんなおばあさん出して、ひどいと思わない? わたしなら、協力金を払う。三千円が惜しくて、あのおばあさんを出したのよ。そう思わない?」
即答を避け、その代わりに、あの家では毎年あのおばあさんがああやって出ているのだと教えた。
真弓はそれにちょっと顔をしかめ、「常習犯よ、それじゃあ」
「犯罪者みたい」と、佐和子は笑って受け、
「でも、したたかだとは思う。おばあさん、可哀そう」
「でしょ、気の毒よね。桜井さんはわたしと同じ気持ちだと思った。おかしいよね、あれ絶対」
「うん…」
佐和子が頷いたのを潮に、真弓は話題をするりと変えた。彼女自身、悪口めいたことを話し続けるのが嫌になったのだろう。
それからは、夏のボーナスでどこかへ出かける予定の話や、その際増える住宅ローンの支払いのことなどに流れた。
「また減りそうよ」
子供と分け合って飲んでいた缶のジュースを弄び、真弓は明るく愚痴った。彼女の夫は某メーカーの営業をしている。「成績の良し悪しももちろん、社内の売り上げなんかが、即賞与に反映するの」とは聞いたことがあった。
「公務員は安泰で羨ましい」
からりとしたその声に、佐和子は「そんなことないよ」と曖昧に応えておいた。
彼女の夫の学は、県の環境衛生研究所の職員だ。水質の調査を行うのが主な仕事だが、去年主任格に上がり、院卒の彼の収入は、佐和子にとって決して少なくない。
古くからの友人にはもらすこともあったが、真弓の前でははばかられた。「パートに出たいんだけど、子供がね…」と時折口にする彼女に、耳にいい話でもないだろう。
「出張も多いしね」
「どこも一緒ね。何の仕事が儲かるんだろう」と、真弓は膝に上がりたがる子供に缶ジュースを渡してやり、
「そうそう、出張で思い出した。ねえ、旦那さんのスーツって…」
話題が気楽なものに変わった。
佐和子が買い物に出かけたいことを告げると、真弓も腰を上げた。
帰り道互いの子供をつれながら歩く中、歩道ぎりぎりに走ってくるダンプカーと擦れ違った。慌てて子供を内側に引っ張り、ダンプカーの行った先を見やった。
彼女らの『向日葵タウン』の奥で、また新たな宅地の造成を始めるのは、聞いたことがあった。そろそろ本格的に土壌を掘り出したようだ。
「危ないわね、一人で歩かせられない」
「うん」
手を振って別れ、その足で佐和子は近くのマーケットへ出かけた。そこではテナントに入っている肉屋で入用の肉を買った。値が少々張るが、肉質もよく、何より安心感がある。
そのとき、近所の坂上という家の主婦に会い挨拶を交わした。その彼女もこの店で肉を求めたようだ。
「あら桜井さん。ここの牛脛肉、ビーフシチュウのいいのよ。脂のつきもちょうどよくって、割りに値頃だし」
「ああ、おいしそう。真似してみます」
「お勧めよ」
週末は、ビーフシチュウを煮込んでみようかと思った。外食は夫が嫌うのであまりしない。ちょっとの奮発も安いものだ。
佐和子は肉屋の後で、そのため赤ワインをかごに入れた。
 
 
夕飯を済まし、夫が祥吾を風呂に入れてくれた後、佐和子はふと思い出して、午後に真弓から聞いた話を夫の学にしてみた。
ふうん、とテレビを眺めながら彼は聞き、
「俺以外に、いい加減なことあんまり言うなよ。その新井さんのおばあさんが、自分で出たいって言ってるのかもしれないだろ?」
そう言われると、返す言葉がない。真弓の意見にはまったく賛成だが、夫にこう注意を受けると、確かにそう言えなくもない。
「だって……」
学の公平で人を非難しない穏やかな性格を、佐和子は好ましく思っていたが、少しは妻の意見に、振りでもいいから同調してもらいたいものだと、ふくれたくなる。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」
彼女の機嫌に気づくのか、学は佐和子の腕を引き、ビールを持ってきてくれと頼んだ。
返事をせずに、缶ビールとグラスを手に戻ると、「ありがとう」彼はそれを受け取る。膝に乗せた祥吾の目をどうしてだか覆い、その間に佐和子にキスをした。
「もう」
短いそれに、また頬をふくらませるが、先ほどの気持ちの小さなもやもやはどこかに消えていた。
結婚して四年になるが、夫は優しく、彼女を愛してくれている。きれいな街にきれいな家を建て、家族で住んでいる。
数年の屈託も、真弓のお陰で去った。
佐和子は今の自分に、欠けたものがないと思うほど、幸せを感じていた。