忘れ物
後編
 
 
 
その夜、珍しくパチンコで幾らか勝ったのか、達也の機嫌はよかった。そんなことに美穂はほっとする。
立て続けにビールの缶を三本空け、そう酒に強くない彼は目許をほんのり赤く染めて、自分の野卑な今後を壮大に語った。
「俺がそのうち先輩に認められて、組の杯がもらえたら、一人前だ。もうちょっとだ。そうすればお前もいずれは、『姐さん』なんて呼ばれる身になるかもな、すげえな、『極妻』みてえで」
美穂は堪らない思いで膝を抱えていた。達也は、そのためには何かもっと「でっけえことをしないとな」と焦りをにじませ、貧乏揺すりを始めた。
「金だ。まとまった金があればな…」
いつの間に酔いが回ったのか、自分の妄想に酔ったのか、達也は「金だ」と何度もつぶやき、ごろりと横になった。
そのうち寝息が始まった。
薄着の彼に、何か掛けてやる優しさも、美穂には起きない。まだ彼の馬鹿な『夢』の段階であればよいのだが、先ほどの話が気にもなっていた。
達也が犯罪に手を染め、それで彼が捕まるのはいい。ありがたい。
けれども、それに自分が巻き込まれることはないだろうか。そして『まとまった金』を作ることに焦る彼が、美穂に次何を求めるのかを考えると、恐ろしくなった。
静かになった達也の寝顔を眺めながら、また殺意が込み上げてくる。それは幾度も押さえてきた間に、どんどんと粘りのあるものに変わりそうだった。
(殺してやりたい)
この男が自分のそばにある以上、未来などない。たとえば似合いの人と恋愛をし、ごく普通に結婚をする。そんなありふれた幸せさえ、はるか遠い。
けれどもまた、自分に人を殺すほどの勇気が足りないこと、そして仮に、仮に殺せたとして、どうそれを隠し切れるのか……。
「殺してやりたい」
口で言うくらいはいいだろう。美穂は小さな声で、溜まった呪いをつぶやき続けた。
「死ね」。「消えろ」……、
不意に達也が目を開いた。細いその瞳は照明に光り、美穂を見つめた。
「聞こえてんだよ」
むっくりと起き上がり、達也はいきなり彼女へ腕を伸ばした。「ひっ」と身を引くよりも早く、彼女の髪を鷲づかみにすると、床につき倒した。
「あ? このクソアマ。何て言った? 俺が寝ていると思って。おい、言ってみろよ、おい、馬鹿野郎」
彼の拳が頬を打った。その一撃で口の中が切れた。じゅっと血の味が広がる。
もう一度。
「謝れよ、おい、申し訳ございませんでした、って土下座してみろよ、おい?」
謝れと言いながら、彼女の上に圧し掛かり、容赦なくびんたを繰り返すのだ。美穂の口の中は傷だらけになり、頬は無残にも真っ赤に腫れ上がった。
痛みもより恐ろしさが勝った。頬を殴られるだけならまだいい。怪我などしたら会社に行けなくなる。働けなくなる。
「言えよ、謝れよ。俺に誠意を込めて謝れっつってんだろ? ああ?」
「ごめん、なさ…い」
美穂の声は、達也の怒声と頬をぶつ音にかき消えた。
「ああ? 聞こえねえな。お前は俺の奴隷なんだよ。一生俺に尽くして、貢ぎ続けんだよ。どうだ、嬉しいだろ? 喜べよ、ありがたがれよ」
彼は自分の怒りにのまれている。自分の出した怒声に更に煽られ、勝手に激昂していく。
美穂の繰り返すたどたどしい詫びなど、耳に届かない。
「逃げられねえんだよ、お前は」
 
「それはどうかな」
 
そこへ、まったく意外な声が混じった。美穂の上に圧し掛かる達也の肩越しに、ゆらりとその影は見えた。
美穂は自分が殴られ続けるショックに、朦朧と幻覚を見ているではないかと思った。
影に見えた男は、ごく簡単に達也の喉許に腕を回した。「五秒以内に離せ、出ないと、ここが潰れる」
美穂の目の前で、確かにそれは行われている。絞められているのか、達也の顔色が朱に染まり始めた。
「くそ…、離せ」
「お前が先だ、ほら五秒過ぎた」
その声の後で。達也が「ぐぼっ」と声にならない妙な呻きを上げ目をむいた。
ニット帽を被った男は達也を床に落とし、美穂に向き直った。手を貸して起き上がるのを助けてくれる。
年の頃は幾つくらいだろうか、三十歳位にも、それ以上にも、ひょっとすると二十五歳くらいにも見えるかもしれない。
整った顔立ちに、きれいな肌をしている。彼は美穂にちょっと微笑むと、「ひどくやられたね」と気遣いを見せた。
誰なのだろう、この人は。どうして、いきなり鍵のかかった自分の部屋に入ってこられたのか。単なる善意では割り切れないことに思えた。
 
混乱する美穂の耳にもう一人の新たな声が降ってきた。
「タカオ、油断」
女の声で、そちらへ目を向けると、リビングの入り口に立った黒いコートを巻きつけた女は、美穂になじみのある顔をしていた。
彼女が務める印刷会社の派遣社員、瞳だ。
「なぜ…?」
もう一度達也の呻き声がした。つられて見やると、再び床に崩れ落ちた。反撃を試みた彼が、タカオと呼ばれた男に、肘で頬をしたたかに殴られた後だった。
訊きたいことがあり過ぎて、何から問うたらよいのかわからない。頬のじんじんとした熱は、耳にまで上ってきているが、どうでもよかった。
「さあ、今のうち、消えましょう」
それきりで玄関に背を向ける瞳に、美穂は、
「どうして、あなたがここにいるの?」
「仕事よ。依頼を受けたの。ある奇特な人があなたの災難を救ってくれたのよ、わたしたちを使ってね」
「これでいい?」と、ちょっと欧米人のように瞳は両手を広げた。それが妙に彼女の不思議な雰囲気にしっくりとくるのだ。
説明にもならない説明を、さっさと打ち切った瞳に代わり、タカオが教えてくれた。自分たちは、ある特殊な国際的組織にエージェントとして属していて、様々な種の『依頼』をクライアントから受け、こなしているのだと。
突拍子のない話に、美穂の頭がついていかないが、実際に彼らは彼女の危機に現れ、こうして救ってくれている。
(まさか、本当だろうか…)
では瞳の派遣社員というあの何気ない姿は、偽りのものなのだろうか。
けれどもまだ疑問は残る。『ある奇特な人』とは誰だろう。美穂の厄介な現状を知り得る人で、更に彼女を救おうと手を差し伸べてくれる人など、誰もいないはずだ。達也とのトラブルは誰にも話していない。
タカオではなく、瞳が腕を組みながら、
「クライアントの情報は知らせられないの」
「見る人が見たら、あなたの首の痣を不審に思う人もいるんじゃないかな。どこかで、あなたが差し出した親切が、その人を喜ばせたのかもしれない」
「あ」
それに、数日前交差点で、ある老人にハンカチを差し出したことを思い出した。けれど、まさかあんなささいなことで……。
(まさか)
「ごく小さな優しさが、人によっては身にしむほど嬉しい場合もあると思う」
タカオはひとり言のようにつぶやき、それから美穂にまたちょっと笑った。
「行こう」
部屋着のままの彼女に、自分のダウンコートを脱ぎ、ふわりと羽織らせてくれる。背の高い彼の上着は、彼女にひどく大きい。けれども何だか守られているような幸せな錯覚もするのだ。
「どこへ?」
今彼らについて、一時難を逃れたとして、これからどうして生きていけばいいのか。やっと見つけた会社もある。働かなければ、自分は食べていけないこともよく知っている。
タカオは美穂の問いに自分では答えず、ちらりと瞳を見た。彼女はきれいな瞳を美穂に据え、
「完璧に身を隠す方法もあるわ。そこまでのフォローを、わたしたちは依頼されている。あなたが望めば、そこまでのサービスの用意はあるの」
そこで、「でも」と彼女は言葉を切った。
何が切り出されるのか、美穂は、息をつめて瞳の肉厚な唇を見つめて待つ。
 
「わたしたちの側にならない?」
 
「え」
そこで、今まで能面のように表情を崩さなかった瞳が、にっこりと笑った。ひどく愛らしい笑顔に見えた。
「見込んでいるの。あなたの芯の強いところも、クールなところも。わたしたちの仕事には不可欠な要素よ」
だからスカウトしたいのだと言う。
いきなりのことに言葉もない。美穂は困ってタカオを見た。彼もどこか欧米人のように、肩をちょっとすくめて返した。その仕草は、妙に彼にやはりしっくりとくるのだ。
「ねえ、スカウトしたいの」
「いきなり…、そんな…。あなたたちのこともよくわからないし…。感謝はしているけれど」
美穂の戸惑った様子にタカオが助け舟を出した。「瞳、彼女を口説くのは本部に着いてからにしないか? ほら治療も必要だろう」
「OK」
瞳は最もな意見に頷き、美穂の背に手を回して玄関へ促した。そうしながら、
「絶対落としてあげる」
などとささやくから、それが美穂にはおかしくてぷっとふきだした。随分と久しぶりの笑いだったように思う。
(わたしは、いつから笑っていなかったのだろう)
取りあえず彼らについて『本部』へ向かうのだという。そこに落ち着いてから、これからのことを考えてくれればいいと彼らは言う。
まだ彼女の全体が、驚きに覚醒し切っていない。だからその言葉はありがたかった。
ただ、達也の前から消えたかった。
「この部屋だけど、あなたが消えるために、後で組織のスタッフがきれいにしてくれるの。もし手に残しておきたい物があったら、小さい物なら今持って行ったらいいわ。後では取りに来辛いから」
その言葉に、美穂は自分の半年ほど住んだささやかな住まいを振り返った。必要最低限の家具と、安っぽいけどお気に入りだったリネンのカーテン。
床には達也がいまだ伸びて倒れている。彼はいつ自分がいなくなったことに気づくのだろうと思ったが、そんなことどうでもいいことだった。
ざっと一渡り狭い部屋を見渡し、告げる。
「何もないわ、忘れ物は」
 
 
 

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