忘れもの
前編
 
 
 
どうして自分にばかり、こんなことが起こるのだろう。
塚本美穂は、ドアの鍵に掛がかっていない様子に、驚きの前にそんなことを思った。帰宅したときに、朝しっかりと施錠した玄関ドアに鍵が掛けられていないのだ。それは驚きがある。
けれども、その前に、彼女は「まさか」と、胸に嫌な黒いものが入り込んでくるのを感じた。
ドアノブを捻り、開ける勇気がなかなか出なかった。吹きさらしのマンションの廊下に、美穂はしばらくドアを前に佇んだ。
フルタイムの仕事にプラス残業を終えての後で、身体は疲れている。コートを身につけていても、今夜のことのほか冷たい風が、彼女に吹きつける。
早く部屋に入り、エアコンを点け、バスタブに湯を張り温まりたかった。駅から自宅マンションまでの道のり、考えたのはそればかりだ。
裸の指をポケットから出し、唇の前でこすり合わせた。
(……どうして、わたしばっかり)
愚痴のような、自虐な言葉が喉元に溜まっている。
どれほどか経って、奥の部屋に向かう男性が、部屋の前で立ち尽くす美穂を、頭だけやや下げるような頷くような曖昧な挨拶で、不審げに追い越していく。
それに居心地が悪くなり、彼女はドアノブに手を伸ばした。右に捻る。微かにかちゃりと音が鳴り、確かにドアが開いた。
照明の明るさが、狭い玄関にはあふれていた。履きつぶす一歩手前のコンバースが、美穂の立てたブーツのそばに一足転がっている。
突き当たりのドアを隔てたリビングから、テレビの立てる賑やかな音声と、それにちょっと大袈裟なほど笑う達也の声が届く。
靴を脱ぎ、コートのまま彼女はリビングに向かった。六畳の部屋には達也が寝転び、ひどく寛いでテレビを見ていた。
少ない家具の一つの小さなローテーブルには、彼が持ち込んだ煙草や、食べかけの菓子類、飲み切った缶コーヒーが置かれている。床に置かれた灰皿にした皿は、妹がディズニーランドのお土産にと、美穂にくれた絵皿だった。テレビの上に置き飾っていたそれを、達也はあっさり灰皿にして汚してしまっている。
美穂の気配に、彼は起き上がりもせず、顔だけよじって彼女を見た。
「お前んち、酒ねえの? 今から買って来いよ」
相変わらずの勝手な言葉に、悪びれた様子もない。ほっそりとした目。赤に近い色で染められた髪。削いだようなこけた頬。
全体顔の印象が、酷薄にも見え鋭い。それは以前、彼女が好きだった顔だ。周囲にいないタイプの達也のすべてが、その頃の彼女には型破りでもあり新鮮で、魅力的に見えたのは確かだ。
けれど、その顔から、半年前彼女は逃げ出した。
どう捜したのだろう。達也はあっさりと彼女の今の部屋を見つけてしまっている。彼がよく口にしていた『組関係の先輩』のコネがあったのだろうか。
そうなのであれば、と絶望的な思いが頭を暗くする。
「驚くなよ。ちょろいって。お前の会社かけて、鼻つまんで田舎の弟の振りしたら、簡単に教えてくれたよ。危機管理? あれとか出来てねーんじゃねえの? やべえって、お前んとこのクソ会社」
美穂が今勤めるのは、ごく小さな印刷会社だ。途中入社の何でも兼ねる男の子は、簡単に達也の猿芝居に引っ掛かりそうだった。
それでも、大手の住宅メーカーを辞めた後、三十歳を目前に、やり直そうと必死で探した職なのだ。
それにしても、どうして今の勤務先がわかったのか。彼と別れを決めたに際して、前の仕事も辞めた。大慌てに住まいも替えた。
「大家に当ったら、お前が処分してほしいって残したダンボールがあってよ。その中に、転職雑誌が突っ込んであった」
それを頼りに、達也は今の勤務先を探し当てたのか。何冊もあったその雑誌の、しかも多くのページに彼女が丸で囲んだ印があったはず。それすべてに電話をかけたのだろうか。
大家のいい加減な対応より、自分の落ち度に嫌気がさした。前に進むことで精一杯で、脇が甘かったのだ。
「な? すげえだろ。俺って刑事とか向いてんじゃねえかなって」
急に消えた自分を捜すために、彼が取った行動はあまりに気味が悪く、彼女に恐怖だった。きっと玄関ドアは、お得意のピッキングで開けたのだろう。にやにやとしたり顔で自分を見る達也に、嫌悪の他何の感情もない。
この男の何に、自分は魅力を感じていたのだろう。貯金をはたき、借金まで作って差し出すほど……。
重いため息が出る。気持ちも身体も強張り、コートが脱げない。
「出て行って」と言う言葉は、やはり出ない。言えばいいのだろう。けれど言えば、前のようにすぐに自分は殴られる。その痛みも、恐ろしさもいまだ鮮やかに覚えている。達也は意のままにならないと、苛立ち、美穂に暴力を振るうことがたびたびあったのだ。
達也が立ったままの美穂に、ビールを買ってくるよう急かした。近くのコンビにまで、歩いて十分もある。往復二十分。
帰っても、達也がいるのだ。友人にところに一時逃げても、長くは続かない。今度は会社に現れるかもしれない。実家へ逃げた所で、そこへもきっと彼はやって来る。
(駄目だ)
いきなり降って湧いた逃げ場のない悲劇に、涙がにじみそうになる。
(どうしてわたしばっかり)
「早く行けよ。あ、ガリガリくんも忘れんなよ」
玄関へ向かう美穂の背に、もう一度達也の声がかかる。
「もう逃げんなよ」
 
 
客を帰した後で、美穂は受けた仕事の内容を、ざっと検めた。控えた書類には目になじみのない社名と、新規の割りに気前のいい依頼が並ぶ。多部数のカラー刷りの十ページにわたる案内パンフレットなど、新規の依頼ではなかなかお目にかかれない。
書類をそろえたところで、相手側に渡すはずの控えがこちらに残されていることに気づいた。
しまった、と思った。
達也が彼女の前に現れて以来、仕事の間も、忙しいときはいいが、ほんの気の緩みに、この頃うっかりとぼんやりしてしまうようになった。そんなときは、ついうろうろと暗い想像に思いが傾いでいく。
先ほど表を出て行った藪内プランニングの彼は、既に通りを行ってしまっただろうか。今渡せなければ、ややこしいことになる。
「ちょっと、これ渡してくる」
同僚に言い置いて、美穂は会社を飛び出した。
書類を抱えた彼女の目に、ちょうど前の横断歩道を渡る先ほどの客の背が見えた。信号は青色が点滅している。間に合うと思った。
しかし、美穂が走って横断歩道に入るとき、腕が何かに触った。それは荷物を抱えた老人で、横断歩道に向かう彼女は、知らず腕をぶつけてしまったのだ。
風呂敷包みの物を道路に落とした老人に、美穂は気づいた。自分のせいではないと思ったが、無視して客を追いかけるのこともできなかった。結局、横断歩道の手前で留まり、老人に声を掛けその荷物を拾ってやった。
その間に信号は赤に変わり、客はとっくに美穂の目から消え去っていた。
書類を渡す手間が増えたことを思うと、ため息も出る。
(ついてない)
接触した老人が穏やかな人であったのが、せめてもの救いだった。咳き込んだ彼に、何となく無意識にポケットのハンカチを差し出していた。
「使って下さい。きれいだから」
社に戻ると、声をかけた同僚の瞳が、「渡せたの?」と訊いてきた。それに首を振って答え、自分の席に着いた。
数人の社員のデスクが並んだ雑然とした事務所に、低くFMが流れている。それが午後四時を知らせた。
瞳がばたばたと机の上を整理出す。隣りの美穂のデスクの上の空のマグカップも手に取った。
「洗っておいてあげる。もうわたし上がりだから」
「ありがとう」
派遣社員の瞳はどんなに忙しくても、午後四時にきっかりと仕事を終え、会社を出て行く。時間に融通が利かないから、自然任される仕事の量もセーブされる。
契約上のことで決まった問題ではあるのだが、さっさと自分の時間へ戻っていく、よく知らない同僚が、身軽で羨ましくなるときもある。
「お疲れさまです。お先に失礼します」
制服から着替えを終えた瞳が、朗らかな声で残りの社員に挨拶した。「おお、また明日も頼むな」、「これからデートか?」などの冗談のような返しが飛ぶ。
「内緒」
溌剌と表のガラス戸から出て行く彼女の、新しいAラインのコートに、軽い妬みのような羨望のようなものが、美穂の内からにじむ。
いつからコートを買っていないのだろう。五年も前のものをまだ着ている。おしゃれなどより、それどころか今月の生活費にすらこと欠く有様だ。
達也がしょっちゅう彼女の財布から金を抜いていくからだ。あの男は、それで日長パチンコをしてぶらぶらと遊んでいる。美穂が渋ると、容赦なく彼女の頬を殴った。
警察に行ったこともあった。何とか救ってもらえないか、手立てがないか、縋る思いの彼女に、タイミングが悪かったのか不親切な担当の警察官は、「恋人同士の痴話喧嘩でしょ。警察はそういうの、関わらないんだよね」と、民事不介入を盾にあっさり帰された。あれ以来、行っていない。
会社で隙を見て、インターネットで何か策はないかと捜したこともある。美穂の場合のように、暴力を振るうパートナーから逃げるのを手伝う商売があることを知った。けれどもその料金が払えない。彼女にとって現実的な金額ではなく、そして逃げて今度はどこへ行くのかということに思い至り、途方に暮れるのだ。
少しばかり分けてあった虎の子の定期もいずれ解約なくてはならないだろう。
『ないんなら、借りて来いよ』
簡単に達也はそう言う。借りた金は返さなくてはならないことを、彼は知らないのだろうか。今ない金を、当てもなく借り、どうして返していけばいいのか。
以前、実家の母親に泣きついた苦い記憶が甦り、そればかりはもう二度と出来ないと思った。母だって楽ではないのだ。
理不尽なことを要求され、それに逆らうとあっさりと暴力で言いなりにさせる。レイプまがいに好き勝手に彼女の身体を貪り、飽きたら労わりもなく、また要求が始まる。
静かなのは眠っているときだけで、そのとき彼女は無防備な達也の寝顔に、無性に殺意を覚えた。
(死ねばいいのに)
その思いは、いつからかふくれ歪に形を変えた。
(殺してやりたい)