月のあかり
1
 
 
 
表の電灯に、ばちっと虫が焼かれる音が幾度かした。
あいつらは、どうして仲間が死んでいく様を目にしながら、光に向かっていくのだろう。自らも、同じ運命を辿るのに。
知りながら、死んでいく。
もしかしたら、そのときの僕も、それに近かったのかもしれない。どこか感じていたのに。
彼女に忌まわしい微かな影を。
何か、ひっそりと抱いているものを。
 
 
 
 
寂れた店の中は、それでも清潔感があった。ショーケースの明かりはところどころ弱くなっていたが、埃もべたついた汚れもない。
僕はざっと斜めにサンプルの弁当を眺め、結局日替わり弁当を頼んだ。値段が安いのと、ほぼ毎日のここの夕飯には、違ったものぐらい食べたい。
「はい、四百五十円です」
代金と引き換えに、白いビニール袋に入った夕飯を受け取る。そのとき、指に彼女の手が触れた。すぐに引っ込められた手の冷た過ぎる温もりに、僕はおそらく、初めて彼女の顔をまともに見た。
それまでは、店番に立つ彼女を気にしたこともなかった。五分ばかりの待ち時間、僕はその間ベンチに置かれた新聞を手に取ったり、奥の調理場からの野球中継の音に気を取られていた。
「いつもありがとう」
僕の視線を逸らさず受け、彼女は形ばかりの笑顔を浮かべた。瓜実顔というのだろう、白いそれに長い睫毛が縁取る瞳や柔らかい様子の造作が並んでいる。
「あ」と思うほど、きれいな顔がそこにあった。
「またどうぞ」
ちょっと低めの声を背に受け、店を出た。
言葉を交わすようになったのは、そのことがあって幾日も経たない。毎晩決まって日替わり弁当ばかりを頼む僕に、
「こっちの方が、今日はお勧め。煮物も入っているし、栄養にいいから」
や、
「ご飯、ちょっとサービスするわね。いつも買ってもらっているから」
ついでの声に混じり、僕への軽い問い掛けが聞かれるようにもなった。
「お勤めの人?」
それに僕は、学生だと答えた。彼女は「あら」とでも言うように、一瞬だけ目を大きくした。その割りに大人びて見えると言いたいのだろう。僕の二十四という歳では、就職している者も多い。
「大学院の二年」
「へえ、すごいのね」
僕を上目遣いに見つめる彼女が発したその言葉に、どうしてだか耳が熱くなった。それを払うため、ぶっきら棒なほどに簡単に否定した。
「違う。そんなんじゃない」
それに彼女は言葉を返さなかった。代わりに、この近くなのか、一人暮らしなのかなどを、あっさりした口調で訊いた。
僕は頷いて答えに代えた。店を出るとき彼女がついでのように、「あ、常連さん、お名前は?」と問うた。
「え」
「嫌ならいいの」
「一ノ瀬司」
「一ノ瀬さんね…」
反芻する彼女に、とっさに僕は訊いていた。「君は?」
単純に、彼女の名が知りたかった。
やや驚いた顔をした彼女が、指を口許にやった。そのまま結った髪の上の三角巾にちょっと触れ、
「美咲、神部(かんべ)美咲」
美咲が名乗ってすぐ、カウンターの奥の調理場から、低い苛立った男の声がした。注文の弁当ができたといったような内容だった。
彼女がそれに気を取られ隙に、僕はガラス戸を引いて外へ出た。
その日から僕の中で、駅前の商店街の弁当屋の「彼女」は、美咲という存在になった。
多分、名を知った時点で、彼女は他人などではなくなってしまっていたのだろう。
 
 
年季の入った平屋の木造の家が僕の住まいだ。その鍵のかかった玄関扉を開け、ついでに郵便受けから手紙などを抜き取る。
元は祖父母の家で、その二人はもういない。今は僕が通学の便にいいことから、大学入学以来一人で住まっている。
どこかかび臭いにおいのたたきを上がり、そのまま半分ガラスになっている茶の間の引き戸をまた開いた。
明かりをつけ、家と同様年代ものの飯台に、手紙やらを買ってきた弁当などと、どさりと置く。
肩にしょっていたバックパックを放り、僕はそのまま袋の割り箸を手に取った。茶の間の窓の向うには小さな庭がある。その藪から、蛙のような虫のような鳴き声がした。
飯を咀嚼しながら、すぐ隣りの台所から冷えたビールを持ってきた。途中、テレビをつけ、ナイター野球にチャンネルを合わせる。画面は見ないで、音だけを聞きながら、バックパックから持ち帰った論文を取り出し、目で追った。僕は雑音がある方が案外集中できる。
アジフライを半分口にくわえたところで、携帯が鳴った。画面は友人の陣野で、すぐ近くににいるから、今から行ってもいいかと問う。僕はそれに構わないと答え、電話を切った。
ほどなく、素足にサンダルをつっかけた陣野が現われた。
コンビニに寄ったというよりは、そばの自宅の冷蔵庫から抜いてきようだ。缶ビールを幾つか下げ、僕が既に缶を開けているのを見ると、早速プルトップを起こした。
彼は大学の友人だ。しばらく野球の話や実験データに触れ、共通の研究室の話題を交わし、ふと、僕が箸を運び続ける弁当のビニール袋を手に取った。
「またサンサン弁当か? 駅前の」
彼がこの時間帯にここにやって来るとき、大抵僕はこの店の弁当を食っている。いつもなら、「たまには自炊くらいしろよ。いい加減、お前栄養失調になるぞ」とからかい半分、あきれて言うのが常であるのに、この日は違った。黙ったままだ。
「ああ、こしひかり100%米だってさ」
僕は、彼がいじる店のビニール袋に擦られたインクの文字を読んだ。味が取りたていいという訳でもない。どこにでもある月並みな弁当屋の味だ。それに不満を言えるほどの身分でもなし、舌も肥えてなどいない。僕には十分だ。
陣野は僕が食べ終わるのを待って、妙なことを言った。サンサン弁当にきれいな若い女がいるだろう、と。
僕は缶ビールを口に運ぶ手を止めた。それから彫りの深い彼の顔を、ちらりと見た。
「気に入ってるんだろう? じゃなきゃ、しょっちゅう同じ弁当ばっか食わないよな」
「しょっちゅう食っちゃ、悪いのか?」
「違うのか?」
僕は食べ終わったポリ容器を袋にまとめ、飯台の隅に押しやった。そのまま片膝を立て、彼から顔を背けた。そのことが何だか彼の問いを認めてしまっているようで、気恥ずかしくなった。
「なあ、一ノ瀬…、お前こっち、大学からだったよな」
喋る代わりに、煙草を口に挟んだ。
陣野は妙に辛気臭い雰囲気で、話し出した。今夜やって来たのも、薄々僕が抱く美咲への興味に気づき、これを告げることが、案外目的であったのかもしれない。
「彼女は、…止めた方がいいと思う」
何を言うのか、真剣な顔で。何も始まっていないじゃないか。何が彼女との間にあると言うのか。
僕は笑いに紛らそうとした。「陣野、お前おかしいよ」とでも。
けれど、彼の続けた言葉に、その継ぎの穂を僕はすぐに見つけられなかった。
テレビが流すナイター中継の音声が、変に合うBGMのように聞こえた。
 
サンサン弁当を営む神部家は、美咲と両親の三人家族で、店の奥が住居となっており、弁当屋の営業を始めたのは三年ほど前のことらしい。
「あの家の子供は、美咲さんだけじゃなかったんだ。彼女の三っつ上の兄がもう一人いた」
歯切れの悪い陣野の言葉はそれでも続き、意外な次の事実を告げた。十四年前に、美咲の兄の雅彦という当時十五歳だった少年の姿が、忽然と消えたのだという。
両親は当然に、警察に届け出た。近所の住民の計らいで、捜索も行われた。距離のある海も浚い、莫大な枚数のビラを配った。家出、事件の両面で捜査がなされた。テレビニュースにも取り上げられた。
「それでも、少年は出てこなかった」
陣野が使った「少年」という言葉に、過去を感じた。自分より年上である雅彦を少年と表現している。彼の中では雅彦は少年のままで、永遠に成長がないのだ。
この付近で生まれ育った陣野には、当時の騒ぎが、記憶に強いのだろう。
いっかな現れない雅彦に、歳月を経るごとに周囲もどんどんあきらめの感が漂い始めた。「こんなに捜しても手がかりがないのだから」、「もう亡くなってしまっているんじゃ」、「もう神隠しとしか…」……。しようのない諦観だろう。
手薄になっていく周囲の捜索に反比例し、熱を帯びたように少年の両親は捜索の手を緩めることはなかった。地元警察も匙を投げた頃には、他県にも赴きビラを配って歩いた。興信所を幾つも回った。テレビの失踪者追跡番組の類にも出演した。手がかりに近いような情報には、藁をも縋るようにしがみついた。
それでも少年は帰ってこない。
その頃、団体職員であった美咲の父親が、職を辞している。
そのうち、捜索の情熱は現実的で物理的な方面から、別の方向へ動いていく。両親はこぞって不思議な新興宗教に妄信し始めた。寄付を惜しまず、財産を貢いでいった。更に、その教えに倣い自分たちばかりでなく、周囲の人々をも勧誘し始めたのだ。言動もやや不可思議なものになった。
これには、これまで神部家の不幸に同情の目を持っていた人々も、距離を置き始めた。
自宅を改装し、弁当屋を始めても、近所の人々は不用意な関わりを恐れ遠巻きにしている。客になるのは事情を知らないよそ者ばかり。
僕のような。
陣野の話はそこで終わった。
「だから、止めておけ」と。
 
彼は喉が渇いたのか、他人の古い噂話をしたことが気まずいのか、手のビール缶をあおった。
悪気などない。彼は真に親切で、事情を知らないよそ者の僕に、したくもない忠告をくれたのだろう。
僕はふうんとそれらの話を受け、頷いた。聞いた、という意味で。だからもうこれ以上は、僕の選択だ。
面倒だと、彼女への興味を捨ててしまうか。
それとも、敢えてその興味をかき立てるのか。
 
陣野は僕が怒りもせずに彼の忠告を素直に聞き、頷いたことに満足したのか、がらりと話題を変え、朗らかに喋り出した。それから持ってきたビールをほぼ空にし、ほろ酔いの態で帰って行った。
 
一人になり、風呂の後でテレビのニュースを聞くともなしに耳に流した。そうしながら、先ほどの陣野の話が頭を離れない。
彼から聞かされた美咲の事情を、気の毒であり、やはりそしてややこしいとは思う。面倒だとも確かに思う。
けれども、僕は自分の身を翻って、偉そうにそう断じ切れるのだろうか。
「僕が…」
自分の過去と、彼女の事情に。そこにひたりと符合するような何かをちらりと感じているのだ。
僕は気づいていた。
 
ちょっとだけ触れた彼女の指先。その冷たさの熱。
白い顔の透明な印象と、ほのかな女の匂い。
思い出すほどに、魅かれてしまっている。



          

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