月のあかり
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午後七時半から八時にかけて。時によっては、閉店の九時ぎりぎりの日もあった。
とにかく、午後の明るい光が影を潜め、空が紺色を濃くし始めた頃、彼はがらりと店のガラス戸を引いて現われるのだ。
シャツの肩には大きめのバックパックを掛け、ジーンズとちょっとくたびれたスニーカーのほっそりとした足を、ふらりとショーケースの前に運んでくる。
彼が選ぶのは、結局いつも日替わり弁当だ。日で替わる三〜四品のおかずにご飯がセットになっている。そうはいうものの仕入れや原価もあり、週に二度は同じおかずが詰められていた。
司はそれに気づいているのか、気になどしていないのか。そんな変わり映えのしないうちの安い弁当を、彼はほぼ毎晩買っていく。
近所の客はほとんどいないと言っていい。それでも最近建った単身者用のマンションやアパートがあり、その住民などは通勤通学の行き帰りに利用してくれる。
けれども、決して繁盛しているという訳ではない。父と母、そしてわたしの三人が、食べていけるという程度。
九時に近づくと、もう奥の調理場では、母が店じまいを始めている。残った惣菜は、その晩や明日の朝の食卓に上る。
わたしも時計を確かめ、九時に五分を越した頃、母の催促に押されて店じまいを始めた。表の明かりを消し、鍵を閉める。レジを締め、その売り上げをちゃちな金庫に移し、調理場の母に委ねた。
その中のお金は、月に二万円、給料と小遣いを足したような意味合いで、わたしに渡される。それ以上をねだるのは無理であるし、それ以上の額をほしいとも思わなかった。
わたしには決まった生活品の他、とりたてお金を使う術がない。
簡単な残り物の夕飯の後で、両親は和室に設えた祭壇に向かう。『お勤め』があるのだ。
毎夜の両親の奇妙なこの行動を、非難しなくなって、どれほど経つのだろうか。そして両親がわたしを執拗にそれに従わせようとしなくなって、どれだけ経つのか。
兄がふつっと姿を消し、それを発端に我が家が辿った運命の終着点が、この両親の毎夜の姿であるのではないか。
流しで粗いものを片づけるわたしの背後から、和室の襖を通り抜け、両親の唱える何とも言えない題目の声が聞こえる。
『あんなものに意味などない』
『お父さんもお母さんも、騙されているのよ』
『いい加減に目を覚ましてよ』
『あんな題目で、お兄ちゃんは帰ってこない』
両親が新興宗教に入信した頃、少女のわたしは声をからして言い続けた。それで父に殴られたこともある。
父や母の妄信振りより、何より周囲の人たちのひたひたとした冷えた反応が怖かった。これまでの同情と憐憫のこもった目が、冷たい拒絶に変わっていくのが堪らなかった。その中に自分を入れられてしまいたくなかったのだ。「神部さんの家、気の毒だけど…、ねえあれじゃあ…」……。
 
『お願いだから、近所にあの団体のパンフレットをまくのは止めて』
 
けれども、日は流れる。
父が病に倒れた。
食べて行かねばならない。
生み育んだ人の傷に比べ、わたしの中の兄への思いはどこか軽い。だから、何かに縋りたい可哀そうな二人の姿が、憐れでならなかった。
縋るものを見つけ、それで両親が楽になるのだったらいいじゃないか。好きなようにすればいい。流行らない弁当屋を始めたのもいい、毎晩の『お勤め』に励むのも、団体の行事に出るのもいい。
それで紛らわせるのなら、いいじゃないか。
兄の消えた爪痕は、両親に胸に大きな傷を残し、それはいまだ消えない。失う痛さ、辛さは、忘れ得ないのだ。言いたい人には言わせておけばいい。
それが行き止まりであるのか、いつしかわたしの感情は、こんなところに流れてきた。
あきらめも妥協も、それの混じる怠惰もすべて時間の中で生まれていく。
ひょっとすると、一番人生の歯車を狂わせたのは、わたしなのかもしれない。それの意味すらも、もう……。深くは追わない。
流しの片づけを終え、手を拭うと十時になっていた。
雨の気配がした。台所のガラス窓を雨粒が打っている。
もう一度壁の時計を見た。
司が店に顔を見せなくなって、今夜で三日だ。
弁当を買うついでに言葉を交わす間から、ちょっとだけその域を出たのが、先週の日曜のことだ。彼の通う国立大学の演劇サークルの劇に、わたしを誘ってくれたのだ。
「つまんないかもしれないけど、暇だったら」
弁当の仕上がりを待つ彼のその低い声に、驚いて見上げた。そして凍ったように返す言葉を失っていた。
声をかける客がいなかった訳ではない。これまでそれを、わたしは即座に軽い愛想笑いでごまかしていた。それらに自分が応じる気持ちなど持たなかった。
司の言葉にすぐに返事ができなかったのは、気持ちの中に、彼の誘いを喜ぶ自分がいたから。応じたがっている自分がいたからだ。
うろうろしている間に、背後で父が弁当を仕上げた気配がした。それを司に渡す間に、彼はメモ用紙に11桁の電話番号を記した。「それに、返事して」と。
「うん」
その後彼をどう見送ったのか、よく覚えていない。頭の中が、おかしなほどふわふわとしていた。確かに浮ついている自分が馬鹿みたいなのと、とうに忘れたそんな自分がいたことに、驚いてもいた。
その後、迷った挙句に買い物のついでに公衆電話から、彼の記した番号にかけた。
行きたかった。
それだけが理由だ。
どうしてだろうと、自問ばかりが頭を巡った。なぜ、と。
日曜の劇には駅で待ち合わせ、そのまま電車に乗り、彼の大学に向かった。司はあまり話さなかった。けれども混雑に待ってくれたり、どこかぶっきら棒に、肩越しに小首を傾げて見、わたしの気持ちを量るようにこちらの様子をうかがった。
面白くもない劇を観て、キャンパスの中のカフェテリアでお茶を飲んだ。彼がそれを奢ってくれた。互いのことを、少しだけ話した。
夕暮れに早い時間には、もう駅前で別れた。
それだけ、それだけのこと。
次の晩にはまた、判で押したように司は、夜に弁当を買いに現われた。同じようなささいな言葉を交わし、やっぱり彼は日替わり弁当を買った。
違うのは、沈黙の中、テレビの野球の声とばちばちと揚げ物が油をはねさせる音の間、その調理場の様子を半身を向けてうかがう頬に、彼の視線を感じることだ。
そして、本当は瞳でそれに応えたいわたしと。
 
わたしは『お勤め』を終え、お風呂の用意をしている母に、ちょっと近くのコンビニに行って来ると告げた。怪訝そうにわたしを見返し、「こんな時間に?」と、逆に問う。
わたしには、これまでこんなことがほとんどなかった。その反応は当然だろう。「生理用品が足りそうにないの。…困るから」
「ふうん」
そのまま財布だけもって、傘をさし家を出た。行き先はコンビニなどではない、司の家だ。
小雨の中、しばらく住宅街を行くと、彼に聞いていた家はすぐに見つかった。古びた冠木門のあるこじんまりとした平屋の家だ。亡くなった祖父母の家だと聞いていたが、彼が一人で住んで何年も経つのか、庭や辺りが雑草で荒れた雰囲気になっている。
在宅のようだ。奥から小さな明かりがもれている。
玄関には呼び出し用のブザーがあるが、そのカバーが外れ、中からばねが飛び出している。玄関前でためらい、うろうろした挙句、思い切ってドアを叩いた。
彼の顔を見たら、気持ちが落ち着く気がした。それで満足できると思った。なぜ、と。どうして、と。また自分への疑問を繰り返す。
馬鹿みたいであると思う。
こんなところまで、雨の夜更けにやってきて、おかしな女だと思うだろう。
彼にとってはどうでもいい大学での行事に、一度誘われたくらいで。
いい気になって、勘違いをして……。
一体こいつは何を考えているのだろう。気持ちの悪い……。
それでも…、わたしは……。
渦のようにわく嫌な思いの狭間、それを遮り、いきなり玄関ドアが引かれた。
「あ」
ふわりと起こった風に、煙草の香が混じる嗅いだことのない他人の家の匂いがした。そこには白いTシャツにスウェットのズボン姿の司がいた。眠ってでもいたのか、少し癖のある髪はぐしゃぐしゃで、いつもの冷めて見えるきれいな顔が、少し物憂そうで知る彼と、雰囲気が違う。
それにちょっと虚をつかれた。けれども、わたしが彼の何を、どれほど知っているというのか。
わたしを見て驚いているようだ。
「どうして?」
わたしはそれに、ついでに寄ったのだと嘘をついた。下を向き、そのとき彼がたたきに素足のまま立っているのに気づいた。
このまま帰ろうと思った。
「じゃあ、ごめんなさい」
「嘘だ」
ほのかに笑いの混じる声。
恥ずかしくて、いたたまらなかった。彼は訪れたわたしの意図を、わかり過ぎるほど読んでしまっている。そして、ようやくこんな場所で、自分への疑問の答えが露わになった。
背を向けたそのわたしの腕を、彼がつかんだ。その手は、わたしの雨でぬれた半袖の腕にひどく熱かった。
思わず、その熱に振り返った。
「具合が悪くて、大学も早引きしてきたんだ」
司はつかんだ腕を放さず、そのまま引いた。引き寄せられ、抱きしめられたとき、わたしの片方の手の傘が落ち、玄関前のぬれた敷石をころころと転がった。
他人の家の匂いのする彼のシャツに置いた頬。それは肌の熱を通してとても熱かった。
 
わたしは、彼に会いたかった。




          

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