月のあかり
15
 
 
 
美咲は「お帰り」と、少しだけ低い声でつぶやくように言っただけだった。
ややはにかむように僕を見、それからまた視線を水の流れに移す。
僕の手のホースが作る幾つかの放物線は、辺りの緑をぬらし、しぶきを上げ、小さな虹を見せ、視界をきらきらと不思議なほど彩った。
その光景が何だか惜しく、僕は飽きることなく水をまき続ける。
「もういい、土が流れるから」
美咲の笑い声がなかったら、いつまでもやっていたかもしれない。
彼女が水道を止め、僕の手からホースを取り上げて、それを巻きあげ蛇口に掛けた。
何気ない彼女の仕草。
僕の手を軽く引き、身を翻す。ほんのり短くなったように感じる髪を、耳にかきやる。それに、うっすらと目に入ったうなじの線。華奢な背の肩甲骨の、腕の動きに連れた動き。
それらが、先ほどの水の見せた鮮やかなシーンにつながるように、目に広がるのだ。
乾いた喉の奥から、彼女への愛おしさとか、恋だとか、そういったものが一気に上ってくるように思えた。
縁側への踏み石に先に足先を乗せた美咲を、僕は引き寄せた。
「あ」
そんな声が彼女の唇からもれた。僕に思いがけず引かれたせいでバランスを崩し、彼女の身体がゆらりとこちらへ傾いだ。
胸と腕で受け止め、抱きしめる。
髪の匂いや、肌の柔らかさ。手で触れ側に感じることで、彼女は紛れもない現実になる。
守りたいと思った。
だから、別れようとも決めた。
けれども、それで何が変わるというのだろう。守るべき彼女を手放したところで、一体僕は、彼女の何を守れるというのだろう。
僕はいろんな意味で、依存し、どこか甘え、求めてきた。
結局、彼女への思いが断てず、自分の採った選択肢のこれからの負荷を、きっと彼女に負わせてしまうのだ。
僕は、嫌らしい男なのだろうか。意気地のない男なのだろうか。
それでも、美咲を手放したくなかった。
彼女は、僕の中で既に他人ではあり得ないから。
 
 
風が通り、変に涼しい茶の間には、美咲が「みい」と名づけた白猫が寝ており、久し振りの僕を胡散臭そうに見やった。
足先でちょっかいを出すと、するりと身をかわし、美咲の方へ逃げていった。気紛れな僕のことは、もう見限ったようだ。
「実家から持ってきたの」と、美咲がかき氷機で、かき氷を作ってくれた。
いつまでも続く夕刻は、だらだらと伸び、僕らはぽつぽつと会話をしながら、ただ甘いかき氷を口に運んだ。
「どうしてたの?」
空白の一月を問う、彼女の重さのない口調に、
「もっと怒るかと思った」
「怒ってほしいの?」
僕はちょっと笑って、口の中の甘さをごまかすために煙草をくわえた。乞われて、実父の別荘にいたと答える。
僕の吐く煙草の煙と、美咲が飯台の下に寝転ぶ猫をあやすと立てる、みょうちきりんなごろごろという音。僕は片ひざを立て、ソックスを脱ぎ、その辺に放った。
美咲がそれをくるくるとまとめ、自分の膝元に直す。それを見ながら妙に気持ちが寛いで、凪いでいる。
「決めたことなんだ。君には、ついてきてほしい」
それを前置きに、僕は言葉をつないだ。
「緒方恭一の、後継者になるよ」
彼女は少し目を細め、凝らすように僕を見た。
「そう」
そうつぶやくだけ。
 
実父や新田の企てで、美咲の母親の属する新興宗教の団体に詐欺容疑で、近く捜査の手が間もなく入るということは、彼女へは省いた。それと母親が検挙の対象にあることも。
詐欺罪の時効は七年。
のちに母親が団体を辞め、その時効期間が何の支障もなく過ぎたとする。けれども、彼女の家庭は兄の失踪でテレビ等マスコミにさらされたことがあるのだ。公訴はなくても、いくらでも過去のそれを、誌面に面白おかしく書き立てられる可能性は否めない。
それらを新田が説明し、実父がそれに粗漏のないように、
「あの手の宗教絡みの裁判は長引くからな。話題性も社会性もある。週刊誌も部数が出る。いつでも、マスコミが取り上げるだろう。悪いことは言わん。気の毒な彼女を、これ以上泣かせたくはないだろう?」
と、「わたしの側の人間になれ」と締めた。
それは『法事』の帰りの車内で言われたことだ。確かに法事はあったが、それは母のものではなく、彼の政治的なつながりの濃い人物の家のものだった。僕など、存在すら知らない人物だった。
そうそうたる面子だというその集いに、僕の承諾の答えも聞かず、外堀を埋めるかのように、「後継者の紹介」に彼が伴ったのだ。
「三年後に衆議院総選挙がある。もっと早まるかも知らん。わたしの地盤から出てくれ。全面的に支援する」
「は?」
薄々感づいてはいたが、改めて口にされると滑稽さが浮き出て、僕は吹き出してしまった。
自分の勢力保持のため、訳のわからない若者を、平気で未熟な政治家に仕立てようとする。父の政治的な立ち位置の高さを思い、そうすれば、どれほどこんなおかしな連中が政界には揃っているのだろうと、あきれもした。
「僕は、あんたの党の幹事長も知らない」
「覚えなくていい。すぐに変わる」
言葉の接ぎ穂もなく、そしてそれを探す気にもならなかった。ただあきれと脱力感で、シートにもたれ欠伸がもれた。
「君の将来を左右してすまない」
隣りの父の独白めいた言葉は、胸に響かなかった。「今更、こんなことを頼めた義理ではないのは承知している」
「頼みじゃないだろ? あんたたちのは。美咲を使った脅迫だ」
「そうでもしなければ、君はわたしに向き合ってくれたのか? 自分のこれまでの振る舞いを思えば、君の態度も当然だろう。けれども、もうおしまいにしないか? 千賀子もない、彼女の両親、君の祖父母もない。わたしたちを阻む者はもうないんだ」
ことの他、祖父母は緒方恭一を恨んでいた。「一人娘を誑かし日影の身に貶めた」と、母をも生前は許さなかった。
僕は彼のいやに情感に訴えんとする口舌が気に入らず、舌打ちで応え、そうしながら、どこかでそれが一理あることを認めてはいたのだ。
母の自殺までの間、僕はたまさかに会うこの実父を恨んだことはなかった。
奇妙な形態の家族であったが、そんな人間だってあっていい。実父の訪れが少ないのは、忙しい身であることと、本宅があるからだと、僕は変に冷めて了解していた気がする。
それは、母のどこかのどかな恬淡さを、その振る舞いを真似ただけなのかもしれない。
変わったのは、母の死を捨て去って逃げたあの夜からだ。
差配するために新田を呼び寄せ、彼の到着と共に、すれ違うように家を出て行った怯えた父の背中を、多分僕は一生忘れられない。
「捨てられた」と、感じた。
母と一緒に、彼は僕も見捨てたのだ。
「やり直したい。君との関係を」
実父は、煙草をくわえて火を点けあぐねている僕の膝の手を取った。学生時代から剣道を続けているというその手は、僕の記憶どおり骨ばったままだった。
「司」と呼んだ。
「わたしは君に、本来なら会わせる顔がない人間かもしれない。金だけを与え、放擲したと感じているだろう。ある意味そうかもしれない」
母の毎年の命日に、自らの墓参を欠かしたことがないことと、その際に僕の姿を認めることが、楽しみだったと告げた。
お涙頂戴の『緒方恭一劇場は』いつまで続くのか。僕は返事にも倦み、流れる車窓に見入った。
運転をする前の席の新田の鼻を啜る、微かな音が笑えた。「先生のご本妻があれほどきつい方でなければ…」などと、意味深な述懐をもらす。
それを補うかのように、父は妻が昨年逝ったのだと告げた。
何となく、母がその本妻から執拗な嫌がらせを受けていたことを思い出した。それが徐々に心を追い詰め、蝕んでいったのだろうか。
「やり直したい」と言う父の言葉。
万が一それが叶うのであれば、いつからを起点にするのだろう。僕の誕生からなのか、母と出会った日からのことなのか、それともやはり、母を永久に失ったあの夜の出来事からなのか。
不意に父の声がした。
「二十八歳のときだ」
「え」
まるで人の心をのぞいたかのような言葉に虚をつかれ、僕は父の顔を見た。前を見る、輪郭を縁取る髪に白いものが増えた、やや頬のこけたその憂い顔が告げる。
それは父が政治家になった歳であると言う。そこから、やり直したいのだと。
「ふうん」
図らずも、返事をしてしまったことが悔やまれた。そんな感傷のような思いの吐露など、どうだっていいことなのに。
ふっと目の前に、骨ばった父の長い指が伸びたのを覚えている。それはくわえた僕の煙草を唇から取り上げる仕草に続く。
「煙草は止めろ。わたしが吸いたくなる」
火も点けてさえいないそれを、父は自身のジャケットのポケットに隠した。
何のつもりなのか。
僕はもう一度新たな煙草をくわえようとし、子供っぽい仕草であると思い直し、結局止めた。
 
何が僕の中で生まれたのか、消えたのか。
父を屈託もなく心に迎え入れる気など、さらさらない。やはり空いた時間なり、離れた気持ちは戻らない。
けれども、彼の自分が政治家になったという「二十八歳」の歳からやり直したいという、芝居がかった意図に、ほんの少し興味がわいたのは事実だ。
何を思い母と関係を持ち、それを続け、僕という子をなしたのか。母を庇いきれなかった罪。その間の父の内面を知りたいと思った。
どうそこから、卑怯な振る舞いに流れたのか。そして、今頃僕を取り戻そうとする父らしいエゴイズムを。
知りたいと思った。
それを僕は血のなせる本能的な欲求だと捉えた。僕の思考とは別の、たとえばDNAに刻まれた何か。僕の内の半分の彼と同じ遺伝子が、こんな気持ちを呼ぶのだと。
「無理強いはしたくない。でも、わたしたちにとって、多分最後の機会だろう。君が懐に入ってくれることで、きっと埋められることがある。足りないかもしれない、及ばないかもしれない」
けど、「取り戻したいんだ」と。
美咲の件をちらつかせた自分勝手な父の願い。
それを僕は、蹴りやってしまうことにためらいを感じていた。
彼女のためと、それにちらりとした胸の奥の不思議な疼き。
おそらく僕は、ためらいの果てに頷いてしまうのだ。
 
僕の承諾を聞くと、父は喜び、「すまなかった」と瞳を伏せ、改めて詫びた。「父として、すべてが至らない」
当たり前のことを。
それからは僕にとって、意味を解さない話題が続いた。父の派閥の長である誰それがどうの、政府内の諸事情や、参院の様相など。
僕はそれに相槌も打たず聞き流し、目をつむって、眠い振りで過ごした。実際眠くもあった。
熱いまぶたの奥で、漠然と、美咲にかかるだろう迷惑を思った。仮に僕が実父の思惑通りに政治家の地位を得、彼の望むよう後継者に据えられたとする。
僕の側にいる美咲の名が、周囲に知られない訳はない。彼女の出自や家庭問題。彼女が秘めておきたい忘れたい過去が、きっと興味本位に暴かれる。その危惧は、僕が父と共にある以上続くだろう。
彼女の母の近く迫る危険を回避した途端、他の難儀が降ってくるのだ。
気持ちが滅入った。
そんな目に遭わせたくない思いで、ここにいるというのに。
どうであれ、僕と共にいれば、彼女は負わないで済むはずの痛みを抱えることになる。
父と新田の交わすどうでもいい話をざわめきに、僕は美咲との別れの決意に揺れていたのだ。
夕べの彼女の電話の声を思い出し、ちりちりと胸が痛んだ。
迷いつつも、意志は流れ、僕は実父が「避暑に」と勧めるがまま、彼の所有の別荘で、一人でしばらく考えることを選んだ。
夕べを最後に、電話すらかけないでいた。
彼女の声を聞くのが、辛かった。
そうやって過ごした意味のない休暇のような空白の時間を、僕は釣りをし、父の知人に会い、またはその辺の面白くもない本を読んで寝る。それらを繰り返し、無駄に過ごした。
その無意味な時間が、結局答えを出したのか。
僕は、美咲を自分の中から切り去ることができないことに気づいた。
 
 
途切れ途切れはしたけれど、司がこんなにも長く話を続けることが珍しいと思った。
それは彼の実父の跡を継ぐという決断から始まり、その理由らしい理由も口にせず、母の死の話やその晩に逃げ去った父親の背中に触れる。
そして「知りたい」と結んだ。
司は気づいているだろうか。彼の父が埋めたいと願う、あなたとの距離や時間や、または溝を、あなただってどこかで埋めたがっているのだということを。
「多分、僕の中にも、勝手なあの男に類似したものがあるよ。だから、君を巻き込もうとしている」
この先、美咲には嫌な目に遭わせるかもしれない。
それで、君は傷つくかもしれない。
「でも、僕の側にいてほしい。手放したくない」
わたしは彼の言葉を、すぐ近くに全身で聞いている。
ガラス皿の氷が溶けて、甘いピンクの蜜だけになった中を、わたしはスプーンで幾度もすくっては返し、またすくう。その緩慢な仕草を、司の指が絡めて止めた。
「ねえ? 美咲」
彼のわたしに強いた一月程度の孤独。その間に彼が辿っただろう迷いや気持ちが、その言葉に、見つめる強い視線ににじむのだ。
わたしへ注ぐ彼の瞳の縁が、瞬きの狭間、かすかに幾度か痙攣する。それが頬に触れたくさせる。
嬉しいのだ。
彼の選んだことも、わたしに求めるこれからも。
だから、わたしは頷くことで言葉に代えた。
司は知らない。
いつだって、わたしの心もあなたに結ばれている。
あなたが何らかの優しさで、わたしとの別れを選んだのならば、何よりもそれが辛いだろうことを。きっとあなたを憎むほどにひどいことを。
「司が、好き」
 
どんな未来でも、
何が待っていても、
側にいて、たとえば指を絡め、または抱き合って。
仕草に声に気持ちを通わせる。
それだけで、満たされる。
そうやって、わたしたちは、ふんわりと暗い月夜を歩いてきた。
互いが、まるでおぼろで優しい温かい光のように。
 
 
 
長らくおつき合い下さいまして、誠にありがとうございました。




          

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