月のあかり
14
 
 
 
司が、実父の緒方恭一氏と共に母の法事に行き家を出て、十日が過ぎた。
その間電話があったのは、最初の夜だけだった。あの晩、通話を終え際に、彼は『また明日かける』と、約束した。
けれども電話のベルは、いっこうに鳴らない。
わたしはそれでも、忙しい実父の予定がらみで、滞在の予定がずるずるとまた延びたのだろうと楽観的に考えた。夏休みに入った司を、父親らしい気持ちから、久し振りのことで、つき合わせているのかもしれない。
それに司がつむじを曲げ、または気恥ずかしさから、電話すらする気が起きないままなのではないかと。
もしかしたら、電話をし辛い状況にあるのかもしれない、と。
そんな気楽な見当は、五日を過ぎ、一週間を過ぎた辺りから、嫌な不安に変わった。
何かあったのだろうか。
どこか割り切ってものを見る癖と、冷めたところのある司が、たとえ勝手な父の振る舞いに腹を立てていたとしても、そもそもそれをわたしに当ることはないだろう。
ときに、ふっと少年ぽさをのぞかせるときがあるが、あくまで彼は、精神的に大人になっている。
疎遠な父との休暇を告げる照れがあったとしても、連絡すらしない、というのはおかしい。
待つわたしの存在を、そんな彼が思い出さないはずはない。ほんの短かな電話でいいのだ。一分と要らない。用件だけでいい。『帰りは遅くなる』でも、『まだ数日こっちにいる』とだけでも。
そんな短い電話すらできない状況とは何だろう。まるで人里離れた電気も通っていないような田舎にでもいるというのだろうか。
彼の意志とは関係なく、電話のかけられない状況とは、始終見張りがついているとか、軟禁状態に近い環境にいるとか……。
どう考えてもおかしい。司は実の父親と共にいるはずなのだ。危険があるはずがない。
そこまで考えて、わたしははっとした。
もし、司の意志であったとしたら。
わたしに連絡をしないのが、彼の気持ちなのだとしたら、どうだろう。様相はがらりと変わってくる。
もし……、そうなのだとしたら?
それ以上突き詰めて考えることは、気が滅入った。
夏の気配の濃くなる日々に、彼の匂いだらけの家にわたしはいるのだ。くたっとかかとのつぶれたスニーカーであるとか、履きなれたジーンズ。そして買い置きの煙草に、彼に懐いた白い猫。
それらのものは、もう既にわたしの一部になっている。洗った司のシャツをぴんと伸ばして干すのは、わたしであるし、雨戸の立て付けの癖に、開け閉めはちょっと隅を司のように足で蹴るのも慣れた。それから、白い猫はわたしが餌をあげている。
いつの間にか交じり合ったわたしたちの生活や毎日や、それらの空気。
互いの抱えた過去も、何もかも含めてそばにいた。
漠然と、彼のくれる優しさや仕草などにわたしは甘えて、それがずっと続くものだと思い込んでいた。
『君のいいときでいい。結婚しよう』
『美咲しかいない』
いつか彼がわたしにくれた言葉。それは当たり前に、二人の未来への証だと信じていた……。
「司…」
一人の夜の時間、一人の家。静かな茶の間では、庭からしゃわしゃわと虫の音がする。「秋になると、殺虫剤をまいてやろうかと思うくらい」と、前に司がそのうるささを笑っていた。そんなこと、きっとしないのに。
鳴らない電話を待ちながら、わたしは彼があの言葉をくれたときに添えるように買ってくれた花を思い出した。それは小さな薬の空き瓶に詰め、台所の日の当る場所においてあるのだ。
それを手に取り、猫の食べ散らかしたキャットフードを片付けた。
明かりの下で見ると、きれいなベージュをしていたはずの花びらは、その色が濃くなり、幾つかがほろっと朽ちていた。
何とはなしに、それを見ていて泣きたくなった。
司の声を聞きたいと思った。
電話のベルは、鳴らないのに。
 
 
いつもの花屋でのバイト中のことだった。お昼にはわたしは家に上がらせてもらい、その店へ開いた茶の間でお弁当を広げる。「いただきます」と、奥さんのお手製のコロッケをつまんだ。
「このドラマ、ほんっと下らないのよ。早くヒロインと引っ付いちゃえばいいのに」
咀嚼しながら奥さんが、民放のお昼の短いドラマからチャンネルを別へ変えた。それはNHKのニュース番組で、見知った政治家の顔がちらちらと流れる。そこに、思いがけず、司の実父緒方恭一氏の姿が映った。車から降り、党本部へ入る場面だった。シーンが切り替わり、また彼が、二三の、これも顔の知れた政治家と言葉少なに会話をしている場面が映る。
急に胃が、差し込んだようにきりきりと痛んだ。小さなお弁当箱に詰めた卵焼きであるとか、夕べの残りのお浸しであるとか、そんなものが喉を通らなくなった。
「あら、夏バテ? 美咲ちゃんほっそりしてるんだから、夏は食べないとテキメンよ」
早々に蓋をしてしまったわたしを見て奥さんは、チャンネルを民放へ戻しながら、コロッケの大皿をわたしへ勧めた。
「もう一つだけ食べなさいよ」
「うん…、でももうおなか一杯」
「一個だけ。ね、司くんが留守なら、どうせ夜も簡単なものしか食べないんでしょ? 昼くらい精のつくもの食べないと」
司がここ一月、里帰りということで留守にしていることは、この夫妻には告げてあった。
好意にもう一個のコロッケを無理におなかに詰め込んだ。
昼には奥さんに手伝って、あるバレエの発表会用のミニブーケを幾つも作った。
「若い人はセンスがいいから。花のあしらいがいいわね。アレンジメントの勉強はかどってる?」
「ええ、でも、覚えることが多くて、大変」
わたしは最近資格を取得するため、ここの娘さんの菜々子ちゃんとフラワーアレンジメントの教室に通っている。
それで、将来どうしようという気が取り立てある訳ではない。大きなのは興味と、やっぱり少しでもこの花屋で役に立ちたいのと、それから気晴らしだ。
「菜々子から聞いたたんだけど、教室に通ってる○町の『花・まつ』の二代目が美咲ちゃんのこと、「エロイ目で見てる」って言ってたわよ。「ママからも美咲ちゃんに、あんなキモイの、気をつけるように言っておいてよ」だって。生意気に」
「もう、菜々ちゃんが面白がって言ってるだけ。そんなことないですよ。あの人、わたしと菜々ちゃんにご飯を誘ってくれただけだから」
「司くんを見慣れてたら、いくらなんでも、あの二代目は見劣りするわね。歳も三十いってるし、腹も出てるし、あれ、メタボよ」
「あはは」
連絡のないまま司が帰らなくなって、もう一月になる。『里帰り』とはいえ、一月もわたしと離れていることを、奥さんもオーナーも、何も訊きはしないが、不思議に思っているかもしれない。
そして、わたし自身が不思議なのだ。憤りもなく彼を待ち、今もあの家に住んでいる。風を通し、庭木に水をやり、そして白猫に餌をあげる。いつの間にか、わたしはあの猫を『みい』と名づけた。
三時を過ぎ、店を出た。そのままちょっと買い物を済ませ、ついでに実家へ顔を出した。
母の頬が赤く腫れていて、びっくりしたのは、もう十日も前のことだろうか。
「どうしたの?」と訊くと、「階段から転んだのよ」と下手な嘘をむっつりと言い、それ以上の問いをうるさそうに遮った。
どう見ても、殴られた跡にしか思えないのだ。そして、暴漢に遭ったのだったら、母はきっとわたしに言うだろう。
言わないのに、おそらく、手を上げたのが父だからだろう、と、当たり前に思った。
母に振るう父の暴力に、気持ちが冷えたが、居間の見覚えのある、或るものが姿を消し、それについのぞいた座敷に、床の間側に設えた両親が入信している新興宗教の祭壇がなくなっているのを見つけた。
その有り様に、わたしは父に母を殴った件で文句を言う気が失せてしまったのだ。
そばに扇風機など家電の空いた大きなダンボールの中に、その残骸が見えた。掛けた額も、あの団体に関する何もかもが取り外されていた。
「週末に捨てに行く」
呆然と座敷に立つわたしの背に、ぽつりとした素っ気ない父の声が聞こえた。振り返り、わたしはうなづいただけで、それ以上のことは言わなかった。
父の行いと、それゆえに母の頬が腫れていたこと。そして母も、父に従う気持ちでいるらしいこと。
家の空気に、言葉少なな二人の雰囲気にそれらを認め、ひどく嬉しかったのを覚えている。神部という、他愛もないごく小さな家の何かが終わったのだろう。
両親の中に、これまでとは別種の何かが生まれつつあるのかもしれない。それが二人のこれから照らすような、明るいものだったらいい。わたしはそう願った。
この日、母の頬の腫れがすっかり消えているのをひっそりと認め、やっぱり枯れかけた店の前の朝顔に水をやって、母の漬けた浅漬けを分けてもらい、実家を出た。
 
日暮れ前に庭木に水をやった。
夏前に少しだけ気休めに刈った雑草は、見る間に成長している。それに植え込んである夏の花が、間間から顔を出す。そのさまも、それはそれで何だか可愛らしい。
ホースの先のシャワーヘッドの目が、幾つかつまりでもしているのか、水の出がちょっと悪い。水を止め、シャワーヘッドを見た。
錆びたステンレスのそこが、幾つかつぶれかかっているのだ。
「貸して」
ふっと背後から手が伸び、わたしの手のホースを取った。
「あ」
それは司で、白いワイシャツの袖をまくった腕に、ホースを持つと、シャワーヘッドを無造作に外し、その辺に放った。そのまま、水を流し、ホースの先を指で潰し、勢いよく水の線を描く。
ほのかな虹を作り、水は緑に注いだ。
空いた彼の左手が、わたしの肩を覆う髪に伸びた。緩く握るように手のひらに絡める。
わたしは彼を見上げ、そして喉にせり上がる涙のもとを堪えながら、「お帰り」とつぶやいた。
「ごめん、遅くなって」
司はもう一度「ごめん」と言い、

「もう行かない」
わたしはやはり、やんわり首を振り、それから言葉でなく、うなづいて答えるのだ。
そして、彼の作る小さな儚い虹を見つめていた。


          

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